第三十三話



「やだ! トウキおにいさまとねるの!」

 持参したお気に入りの本を抱えたウティラ・オーギもうすぐ六歳は、抱き上げようとした父の手をぺちりと叩いた。キクロは、おぉ、と少し驚いたような顔で手を引っ込める。

「反抗期にはまだちょっと早いんじゃないかなウティラ」

「おとーさまはいつもいっしょだけど、ウティラはトウキおにいさまにあいにきたからトウキおにいさまといっしょがいい!」

「そうかぁ。でもねぇウティラ、トウキはお嫁さんと一緒に」

「およめさん?」

「そう、マイラお姉様が、トウキのお嫁さんだよ」

 今度はウティラが驚いた。大げさに、目と口を大きく開けて、マイラを見上げる。

「マイラおねえさま、トウキおにいさまのおよめさんなの!?」

 小さなウティラに目線を合わせるようにしゃがみ、笑う。

「うん、そう」

「はなよめさんのかっこうした!?」

「うん。とってもきれいなの、着たよ」

 ウティラは、はなよめさん、すごい、と感動し、興奮し、その場でぴょんぴょん跳ねた。“花嫁さん”に対する憧れがあるらしい。

「おとーさま! マイラおねえさま、はなよめさんなったことあるって!」

「それだけじゃないよウティラ。マイラお姉様はもっとすごいよ。何と……ファンロンのお姫様なんだ」

「おひめさま!? ショウハさまといっしょ!?」

 更に衝撃を受けた幼き少女は、その場に崩れ、しかし持っている本を丁寧に横に置いてから、うずくまった。

「ダメだ……」

「何がダメなんだい娘よ」

「ウティラはおひめさまじゃないからダメだとおもう。マイラおねえさまとショウハさまは、はなよめさんやったしおひめさま……つよすぎる……」

 一体何の強さなのか。謎の落ち込みを見せる娘の背を、キクロが慰めるように撫でる。

「ごめんねウティラ、お父様が王様じゃないばかりに」

「しょうがないの。ぐんのじむちょうだから」

「そうだねぇ事務長だからねぇ。でもねウティラ、ウティラも大きくなったら花嫁さんになれるからダメじゃない、大丈夫だよ。シュウマに大きくなったら結婚しようって言われてたじゃないか」

「ウティラはりゅうになりたい……」

「そうかぁ。龍は強いもんなぁ」

 マイラはウティラの傍らにある本の表紙に目をやった。架空の国の十二歳のお姫様が友達になった龍と一緒に冒険をするという、有名な物語だ。続編が何作も出ており、最終巻では主人公のお姫様が物語の初めでは好敵手であった別の国の王子様とめでたく結婚して幕を引く。大陸各地の神話や伝承を参考に取り入れている(たとえば、主人公が龍と友になるところは、クォンシュの初代皇帝とあかき龍を参考にしているようだ)らしく、子ども向けの本ではあるが大人でも楽しめる人気作で、マイラも嫁いでくる際に持参しときどき読み返している。なるほど、この本が大好きなウティラであれば、お姫様にも花嫁さんにも、勿論もちろん龍にも憧れるだろう。実に、微笑ましい。

「おとーさま。トウキおにいさま、おうじさまじゃないのに、なんでマイラおねえさまとけっこんしたの?」

 顔を上げた幼児の素朴な疑問に、元皇子の顔が引きった。吹き出してしまいそうなのを必死に堪えるキクロの顔は妙な歪みを生じている。

「おうじさま、じゃなくっても、……お姫様とは、結婚できるんだよ」

「そっかー! よかったねトウキおにいさま!」

「ん、うん、そ、うだな……」

 目が虚ろになった夫にマイラは気付いた。確かにトウキは元は先帝の弟の子つまり皇子ではあるが、今では皇家の籍から抜けた一貴族にすぎず、単純な身分として考えると傍流でもファンロンの王族であるマイラの方が上ということになる。皇子でないのに姫をめとった、そういえばそうなのだ。きっと「マイラを自分が娶ってよかったのだろうか」だなどと考えているに違いない。

 また、思考が後ろ向きになっている――これは何とかしなければ。

「あ、あのね、ウティラちゃん、いえ、……ウティラ様」

 いろいろなものに憧れ大きな夢を持つ少女の小さな両手を取ると、それまで「親しみあるお姉さん」だったのが、スッと「身分ある者の娘」へと変わる。客人が来訪している手前、普段の平民の娘のような簡素な衣服ではなく小綺麗な若奥様の装いをしているので、それらしい挙動をすれば一応それ相応に見えるのだ。

「トウキ様は一臣下の身ではありますが、わたくしの大切な、……大好きな、旦那様なのですよ」

 傍流ではあるが本物のお姫様のお言葉に、幼き少女は目を輝かせた。

「そっかー!」

 納得したところで、キクロが見計らって娘を抱き上げる――が。

「さ、寝ようウティラ。ご本読んであげるから」

「やっ、だっ!」

 ウティラはにゅるりと器用に父の腕をすり抜け、トウキに駆け寄りしがみつく。

「きょうはトウキおにいさまとねる! の!」

 何故か振り出しに戻ってしまった。キクロは頭を掻き、トウキを見る。

「……いいかなぁ?」

 これは下手に拒めない。溜め息をつく。

「今夜だけなら」

 それでもいいだろうかと妻に確認の目線を送ると、それまで静かにオーギ父娘劇場を見ていたショウハが、立ち上がったマイラの腕を取った。

「マイラ、話、する。一緒、寝る。ルコも。よい、ない?」

 言葉がわかるマイラとルコに相談したいのだろう。名指しされた二人は顔を見合わせると、同時にトウキに注目した。これもダメだとは言えない。先程のものよりも大きな溜め息が漏れる。

「……ショウハ様。お部屋が、少し、狭くなります、よろしいか」

「よい!」

「では、予備の寝台を、運ばせましょう」

 トウキは内心、もどかしかった。ウティラが寝た後にでも家出してきた皇妃の対応についてマイラと話し合いたかったところだが、当の皇妃がマイラを頼ってくっつきっぱなしで、なかなか話ができそうにない。とりあえず今宵のところは諦めるしかなさそうだ。

 せめて一言――手招きすると、マイラは皇妃に断りを入れて離れたので、二人で部屋の隅に行く。

「何でしょう、旦那様」

「……何か、あったら」

「はい、すぐにお知らせします。ショウハ様のことはお任せ下さい」

 実に頼もしい。彼女のことだ、きっと心配はいらない。

「旦那様は、本来のお仕事をなさって下さいませ。ウティラちゃんは……」

「シウルがいる、大丈夫、だと思う」

「はい」

 ごく短時間、内容がさっぱりない打ち合わせになってしまったが、何とかなるだろう、なってほしい――夫婦は同じ願いを抱きつつ、それぞれのやるべきことに向き合う覚悟を決めた。



     ◎     ◎     ◎



 予備の寝台といっても、元々その部屋に備え付けてある寝台とは違い一回り小さくて簡素なものだ。とはいえ、それを二台も入れるとなると、さすがに広めの客室とはいっても手狭になってしまう。

 ところが皇妃ショウハはそんなことは全く気にしていないようで、寧ろマイラとルコが同じ部屋で夜更かしをしながらお喋りができると喜んでいるようだった。

「嬉しい、よい、マイラ、と、たくさん、話したかった。ルコも、一緒。よい。ありが、とう」

「ショウハ様、ヴェセンの言葉、使っていただいて、大丈夫ですよ。私は、少し難しい言葉は、わからないかも、ですが、ルコ様が、教えて下さいます」

 茶を入れながらマイラが笑うと、

「うん……」

 ショウハは考え込んでしまった。椅子を引いたルコはショウハに座るように勧める。

「どうかなさいましたか、ショウハ様」

 ヴェセンの言葉で問い掛ける。

「だって私は、もうこの国の者だ。言葉にも、早く慣れねば」

 素直に椅子に座った小さな皇妃は、異国の言葉で小さく答えた。でも、とマイラは入れた茶をそっと皇妃の前に置く。

「今夜くらいは、よろしいではないですか。ショウハ様が生まれて育った国の言葉。ときどきは、思い切り使わないと。貴女の中にある、大事なものです」

 異国の姫から急に流れるように出てきた祖国の言葉に、ショウハは驚きと感激の色を見せた。

「マイラ。前に会ったときより、話せるようになった?」

「はい。ショウハ様が、会いたいと仰っていると伺ったので。いつお会いしてもいいように、できるだけいっぱいお話できるように、少しですが勉強しました」

 本当は迎え出た時点で使ってもよかったが、ショウハが懸命にこちらの言葉で話そうとしていたので、それに合わせていたのだった。他の者の目のないここで使い慣れた言葉を用いれば、彼女も思いの丈を吐き出せるかもしれないと汲み、使ってみたのだが――

「すごいな。私も早くそのくらい、この国の言葉を話せるようになりたいものだ。負けていられないな」

 反応は悪くない。安堵しつつ、ルコの前と自分の前に茶を置いてから、マイラも椅子に腰を下ろした。ルコは自分のことでもないのに、そして表情が大きく変わっているわけでもないのに、どこか誇らしげだ。褒められたような気分になって、マイラは嬉しくなった。そのまま、北の王国の言葉で続ける。

「ショウハ様は、どなたにこちらの言葉を?」

「陛下……と、ハンジュどのが、教えてくれる。皇后も、少し。でも皇后と一緒にいると、いつの間にかノユ殿下と遊んでしまって勉強にならない」

 その様子を想像し、マイラとルコはあたたかな気持ちになった。後宮は平和なようだ。


 ハンジュは一人目の側室、クォンシュの西側にあるデアーシュという国の若き王の異母妹だという。デアーシュもヴェセンの友好国であり、クォンシュやファンロンとほぼ同じ言語を使用しているので、なるほどショウハに言葉を教える役としてはうってつけか。

 皇后ファーリは東の海を越えた大国の女王の従妹で、皇帝リュセイとの間にノユという男子をもうけており、現在このノユ皇子が皇太子ということになっている。


「皆様、仲がよろしいのですね」

「陛下がときどき、『家族会議』を開くんだ。私たちが仲違いしていると内側から国がボロボロになってしまうから、ちゃんとまとまっていなければならない、と。クォンシュは大きいから、壊れてしまったら一大事だ。大陸全土を巻き込む戦になる。私もまだ十三年しか生きていないが、これでも戦にまみれた国の出だ、そのくらいは理解できる。今もイノギアがひどいことになっているからな。ハンジュどのが祖国の動きを……兄君がどう動くのか、憂えていた」


 デアーシュの北に位置するイノギアも、ほんの少しではあるがクォンシュに接した隣国である。昨年の初めに代替わりして幼子が王に据えられたが、それ以前にも大臣による謀叛が起きたり、何かと波乱が絶えない国だ。


「自分たちは夫婦であり、家族であり、互いに国を背負った同盟者だと陛下が言っていた。私たちもそれには賛同している。でも、それを抜いても、陛下も皇后もハンジュどのも私にはよくしてくれる。年少者だからかもしれないが、ありがたいことだ」

「……陛下らしい、お考えです」


 父の作った借金と失った信用をどうにかするべく奔走したり、兄弟のように仲のよかった従弟と帝位を争うことにされてしまったり。皇帝リュセイは、早くから一歩間違えば国家の危機に発展しかねない苦汁を嘗めさせられてきたのだ。

 何としても、民を多く抱えるこの国を守りたい、その気持ちが、彼にそういう行動をさせるのだろう――できる範囲で、できるだけのことを、と。


 ショウハは笑う。

「陛下は私より弱いが、国主としての意識は我が叔父よりも高いし合理的だ。皇后やハンジュどのとは違う育ち方をした私のことも尊重してくれる。私は、陛下が好きだ」

 その顔には、想う人のことを考える、ほんのり甘くてちょっぴりくすぐったい、きらきら輝くような感情が表れていた。マイラは思い出す。確かエシュがチュフィンのことを話すときも、こんな顔をしている。政略結婚ではあるが、相手をそのように好ましく思えるというのは、何と幸いなことだろう。


 しかし彼女は、そんな相手と何かあって現在ここにいるのである。

 今、この場でなら。


「ショウハ様。陛下との間で、何かあったのですか?」


 思い切って訊いてみる。ショウハはきょとんとした。

「何故それを知っている?」

「主人が、キクロ様からそのように伺ったと」

「そうか、伝わっていたか。いきなり来て悪かった、つい勢いで事務長についてきてしまった。……どうも、いけないな。カッとなるとすぐ飛び出してしまう。嫁いだからには控えようと気を付けていたつもりなのだが」

 言い草からして、嫁ぐ前からこんならしい。やはり見てくれの割に、かなりの、マイラの上を行く跳ね返りのようだ。

「その、陛下はショウハ様がここにいらっしゃるのを知らないとか……」

「大方見当は付いているだろうさ、事務長と共にいるところは侍女に見られたからな。…………腹が立つな!」

 突然ショウハは卓を両手で叩いた。茶器ががちゃんと音を立てるが、どうにか茶は零れずに済む。皇妃のご立腹に、マイラとルコは身を竦めて、一瞬ちらりと目を合わせ、また皇妃に視線を戻す。

「……どうか、落ち着いて下さい、ショウハ様」

 ルコが声を掛けると、ショウハは我に返った。

「すまない、つい。……しかし、だ。多少は心配してくれてもいいと思わないか!? 私は三人目だが妻だし同盟者だし家族だぞ!」

「それは、陛下に信頼されている証拠でございましょう。貴女も、キクロ様も、そしてトウキ様とマイラ様も。無事にちゃんと帰ってくる、危険のないように取り計らってくれる、貴女の言い分を聞いてくれる、と」

「……そうか、そうだな」

 冷静に諭され、皇妃も落ち着きを取り戻した。ひとつ、息をつき、程よく冷めて飲みやすくなった茶を一気に飲み干す。黙って動かなければ神にも愛されそうな美少女なのに、言うこともやることも豪快だ。

「まぁ、皇后やハンジュどのならともかく、私は強いからな! 陛下よりも! 心配するまでもあるまいな!」

「いいえ、ショウハ様。きっと陛下は、その信頼とは別に心配はされておられるはず。お戻りになった際は『ごめんなさい』は必須です」

「ぬぅ」

「ですから、」

 空になったショウハの茶碗に、おかわりを注ぐ。

「せめて我々にぶちまけて、すっきりしてお帰り下さい。内容次第では、お力になります。そうですね、マイラ様」

 ルコに振られたマイラは頷く。

「はい。ショウハ様のお悩みが、解決できれば……できなくても、少しでも軽くなればと、思います」

 二人が味方になると言ってくれていることに安心したのか、皇妃ショウハは微笑んだ。

「ありがたい。……実はな、ここにいる、シウルという女。陛下が好いているという話を聞いた」

 祖国の言葉で、気の合う者と気兼ねなく話せるからか、ショウハは初っ端から核心を衝いてきた。初めて知ったルコが、表情は変わらぬものの思わずクォンシュの言葉でマイラに耳打ちする。

「そうなのですか?」

「幼馴染みで、大変親しかった、と」

「なるほど。シウル様も美人ですし頼り甲斐がありますし、さもありましょう」

 ショウハが怪訝けげんな顔をする。

「どうかしたのか?」

「申し訳ありませんショウハ様。私は存じていたのですが、ルコ様は初耳だったそうなので、その、陛下とシウルさんの関係性の説明をしていました」

「そうか、マイラは知っていたのか……そうか」

「はい。主人も陛下とシウルさんとは幼い頃からのご友人だったと」

「そうらしいな。陛下が言っていた。雪獅子公は親友だと。噂で聞いていたのとは全然違う、美しい男だな。強いのか?」

「本人は得意ではないと言ってはいますが、術剣を使えるので弱くはない、と思います。……い、いえ、そうじゃなくてですねっ、今はうちの旦那様のことは置いといてっ……ショウハ様は、その……陛下が、シウルさんを想っているのが、お嫌なのですか?」

「違う」


 想定外の即答。

 では一体、どういうことなのか。


 ショウハは、毅然とした態度で続けた。



「私は、そのシウルという女を、陛下の元に連れて行くために来たんだ」



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