第十八話


 ずっと心に残り続けている。



「強くありなさい。貴女あなたが持った力は、必ず貴女が生きる上で、貴女や貴女の大切な人を助けてくれるはず」



 マイラが、父が再婚し弟が生まれてからも勉学や馬術、剣や弓の鍛錬を続けていたのは、幼い頃に没した生母のこの言葉があったからだ。


 学ぶといっても、師はいなかった。

 父はマイラが望むならとそうなってくれそうな人物を探してくれて、二人で直接頼みに行ったりもしたが、遠回しに傍流の姫など所詮国の道具のようなもの、学問など修めさせても無駄だと断られ続けた。剣や弓など尚更のことだった。お姫様の遊びと決めつけられて流された。

 仕方がないので、多忙な父をわずらわせないように一人で何とかしようと思った。

 家にある本は勿論、都に行ったときに買った本、取り寄せてもらった本などを読みあさったり、頼み込んで父の仕事をそばで見ていろいろなことを覚えた。

 棒きれを振り回したり自作したいびつな弓で的当てしていたのを見かねた父が、マイラでも使えそうな品を揃えて、自分はそんなに得意ではないと言いながらも基礎的な構えや動きのみだが教えてくれた。それを携えて野山を駆け回り、どう使えばいいのか何となく理解していった。


 全て、ほとんど、我流だ。

 きっとこれはとても非効率的で、人からみれば本当に「全然」「まだまだ」なのだろう。


 それでもマイラは、やっていてよかったと思った。

 父についてファンロンの都に行くと、日に焼けた肌の色や、決してほっそりとはしていない手足、華やかさの感じられない男子のような話題を口にするさまを、揶揄やゆ嘲弄ちょうろうされることもままあった。

 それを知りながらも自由にやらせてくれた父にも、やや苦い顔をしながらも決して止めるようなことはしなかった母にも感謝している。


 着飾りにこにこしているだけの姫君であったなら、今頃は目の前にいる黒い獣になすすべもなく食い殺されていたはずだ。


 呼吸を整え、もう一振りの剣との距離を確認し、すぐ目線を黒牙獣ワラウスに戻す。そういえば、明るい場所でじっくり見るのは初めてだ。以前ツァスマ領内の男衆と共に黒牙獣を追い払ったことがあったが、薄暗い森の中、しかも遠目からではどんな獣かよくわからなかった。体付きはスニヤ――雪獅子ルイツよりも一回り小さい。


(傷を……深くなくても、何度か付けられれば……)


 目や首を狙えればいいのだが、今手元にあるのは弓ではなく剣。流石に難しいだろう。とすれば――足。


 マイラの頭を噛み砕こうと、黒牙獣が跳躍ちょうやくした。少し低い位置から、

「せぇいっ!」

 剣を振り上げると、ぎゃあ、と悲鳴のような鳴き声が響く。見るからに筋肉が発達しており硬そうな体に剣がはね返されそうになったが、手応えは確かにあった。即座に振り返って構え直しながら様子を見ると、右後ろ足から血がしたたっている。しかし思っていたよりは傷が浅いようで、足取りは先程とそう変わりない。

「もう一撃……」

 同じ足に入れられれば、動きをある程度抑えられるはず。狙いを定め、集中する。

 すると、

「つまらん!」

 アルマトがわめいた。

「カルネの舞いと全然違うではないか!」

 マイラは構えを解かぬまま言い返す。

「ですから申し上げたではないですか! 私には舞いの心得などありません! まして黒牙獣を仕留められるほどの腕前でも……ぅわっ」

 黒牙獣がまたマイラを狙って跳んだ。咄嗟とっさに避けるが、爪の先がかすっただけのはずのそでが派手に裂ける。軽い布地であまり重ね着をしていないので何とか動けてはいるが、貴人の邸宅を訪問するための装いは剣を振り回すには適していない。靴も茶角鹿のやわらかい革製であるものの、いつも外で活動するときの履き慣れたものではない。上手い具合に黒牙獣に傷を負わせたとしても、不利なことには変わりない。

 切っ先を黒牙獣に向けたまま、呼吸を整え直しながら、素早く帯を解いて一番上の薄い布地の上着を脱ぎ捨てる。本当は帯を使ってたすき掛けしたかったし長い髪もまとめ直したいところだが、そんなことをしている隙にまた飛び掛かられたら確実にやられる。


 若い娘の決死の姿に、龍は我が子を頭に乗せたまままた首をもたげた。

「アルマト。これは、よくない」

「すまないな親父どの。カルネのような美しい舞いは見せられないようだ。あれだけ剣を使えてカルネにも似ているのにな」

「あの娘はカルネではない」

「知っている」

「カルネであっても、黒牙獣は倒せない」

「キクロは倒した。あれより幼い時分に」

「あの、娘は」

 金色の目を細めて。

「お前の弟子とも違う。術が使えない。剣の腕もお前の弟子に比べれば児戯じぎ

「だから何だ」

「あの娘に何かあれば嫌われるぞ。トウキにも、ゲンカにも」

 龍の言葉に、アルマトの顔が強張った。

「それ、は……」

「普段のお前なら、あそこまではしない。何をいらついている、アルマト」

「…………別に、何も」

 龍の娘は、猛獣と何とかやり合う息子の妻に不愉快そうな目を向けた。



     ◎     ◎     ◎



 目の前にふよふよと浮かぶたまのようなものに向けて、将軍ゲンカはうなずいた。

しらせて下さったこと感謝する、オーギ隊長」

 珠に映る髪の長い男はにこりと微笑む。

「早く行って差し上げて下さい。でないと我が師が癇癪かんしゃくを起こしてしまいます」

「それは困るな」

「恐らく困っているのはあちらでしょう」

「困る? あのアルマトが?」

「はい。今の師は少し不安定です。違和感があったので改めて残留していた師の気をのですが、昨日の謁見で外していたのも、そのせいかと。……心当たりはございませんか、ゲンカ様」

 トウキやマイラではなく、まるでアルマトを案じるような言い方――あぁ、と溜め息を漏らすように、ゲンカは笑う。

「成程。これは『家族の問題』だな。わかった、すぐに向かおう」



     ◎     ◎     ◎



 マクト山は聖地とかそういう類のものではないただの山だ。しかし強い力を持った龍が居座りねぐらにしているというだけで影響を受けているのか、奥に入っていくほどに空気の変化を感じる。入山が禁じられているわけでもないのに誰も寄り付かない所以ゆえんだ。

 そんな中を、雪獅子スニヤは物怖じせずに駆け上っていく。背に乗せた主人と、この山の主の間に同じ匂いを感じ取っているのかもしれない。時々ちらちらとトウキを気にする素振りを見せる。

「そうか、お前は怖くないんだな。ここは俺の爺さまの住処すみか。お前の……曾祖父ひいじいさま? に、なるのか?」

 両手の上に乗ってしまうくらいに小さな頃から育てているから親代わりのつもりではあるが、兄弟のような感覚もあり、相棒とも思っている。


 そんなことを考えていたら、先程自分で言った言葉を思い出した――「家族の問題」。


「……お前も俺の家族だな、スニヤ。そういえば爺さまに会うのは初めてか、ちゃんと紹介してマイラを連れて帰……マイラ…………この場合マイラはお前にとって何になるんだ?」

 疑問を呈したことにより、スニヤが振り向きながら足を止めてしまった。

「あ、いや、止まらなくていい。すまないスニヤ、何でもない」

 慌ててトウキが前進するように首元を叩くが、スニヤは走りだそうとして踏みとどまる。低く小さく唸っている。恐れているというよりも、威嚇しているようだ。

「スニヤ?」

 呼び掛けると、長い尻尾を使って自分の体を叩き付けぱしぱしと音を立てる。スニヤがこうするのは、警戒するように知らせているときだ。山頂の方を見つめて、鼻をひくつかせている。

「母上……?」

 思い当たることといえばそのくらいだ。山に足を踏み入れて時間が経っているのだから、そこら中に満ちているあかき龍の気に対するものではないだろう。

 が、アルマトが乱心しているようでもない。彼女は大陸随一の腕を持つといわれている術士、そんなことになっていたらとわかるはずだし、龍であるトウキの祖父の気におびえなかったスニヤがトウキの母で半人半獣であるアルマトの気配を察しただけで敵認定するとも思えない。

「何かいるのか、スニヤ」

 ぐうぅ、と返事をするようにうめく。スニヤ――雪獅子ほどの獣が気にするものが、この先にいるのか。

 スニヤをなだめるように後頭部を撫でながら、耳をそばだてる。


 上から流れてくる風に乗り、枝葉の揺れる音に紛れてかすかに聞こえる。


 金属が何か硬いものとぶつかるような音。

 聞き慣れた若い娘の声。


 マイラが、剣を取っている?


「行くぞスニヤ、マイラを助ける」

 改めて首元を叩いて促すと、奮起するかの如く一声えて、スニヤは駆け出した。



 別の獣の雄叫びが聞こえた。マイラと黒牙獣は互いに目線をはずし、周囲を窺う。声の大きさからして、そう離れてはいない。

「スニヤ……?」 

 そんなまさか――マイラは思い直して再び黒い獣を注視し構えるが、当の相手はマイラなど眼中になくなったかのようで、うろうろと声の主を探っている。


 気のせいではない、近くに何かいる?


「祖龍様!」

 声を掛けると、赫き龍はふぅん、と息を吐いた。

「お爺様と呼んでくれ。そのほう、我が孫の妻なのであろう? 孫の妻は孫も同然」

 想定外の気安い言葉にマイラは困惑すると同時に義母との血の繋がりを感じた。その義母はというと、龍の頭の上に座したまま何やらそっぽを向いている。

 彼女の様子も気になったが、思い切って、

「あ、はいっ、えと、お爺様っ」

 呼んでみると、

「うむ」

 龍は満足そうに応えた。無礼と思われていないのならいいのかな、マイラは自身に言い聞かせる。

「あのっ、ひとつ、お訊きしたいことが」

「うむ。言ってみろ」

「ここには雪獅子が棲んでいるのですか?」

 そんなはずはない、それはマイラもよく知っている。雪獅子の被毛が真っ白でふわふわとしているのは、冷たい雪の中に紛れるためだ。クォンシュの都は滅多に雪は積もらないと聞いているから、さほど離れていないこの山も例外ではあるまい。

「雪獅子。いや? あれはもっと高く雪深い山のものだろう。このような街に近くて低い山には棲み着かんよ」

 案の定の返答。そう、わかっていたはずだし、当然の返しだ。

「じゃあ」


 『こんなところにいるはずがない』。

 それでもあの声は、絶対に聞いた覚えがある。


 『ここにはいない』。

 しかしそう遠くない場所には確実に一頭いるのだ――連れてきたのだから。


 となれば、可能性は一つ。


「そうだな、今の声は」


 今の声は、やっぱり。

 そう思ったときだった。



「マイラ!」



 名を、呼ばれた。

 聞き慣れた男の声。


 気付いた瞬間には既に、あたたかく強い力が体を締め付けていた。

 立っていたはずなのに、何かの上に座っている。しかも高い場所に移動している。急に開けた視界、ここは森の中ではない。最初に立っていた岩の上だ。


「怪我は、ない……ようだな」

 心配と安堵が入り混じる、今にも崩れてしまいそうなその声は。


 手から剣が落ちる。

 ゆっくり見上げる。


 下にいる龍と同じ金色の目。龍の体と同じ赫い髪。



 あぁ、そんな。だって知らないはずなのに。



 張り詰めていたものが解けていく。

 自分を抱きかかえるその存在に、思い切りしがみつく。


「だ、んな、さま」



 妻としてしっかり夫を支えなければ。マイラは嫁いでからずっと、そう思っていた。



 だが今は、そんな考えはすっかり吹き飛んでしまい、ただ幼子のように泣きじゃくるだけだった。



     ◎     ◎     ◎



「これはまた随分な嫁いびりですね、母上?」

 トウキは未だ龍の頭の上にいる少女の姿をした母に呆れと怒りが同量含まれた眼差しを向けた。

「百歩譲って力を試そうとしたのだとしても、よりによってあんなものをけしかけるだなんて。龍女アルマトともあろう者が、相手を見誤るなど笑いぐさにも程があります」

 アルマトはこたえるどころか目すら合わせようとしない。

「母上!」

「知らん」

「『知らん』、ではないのです!」

「旦那様」

 ずっと肩を抱かれているマイラは、苦笑しなから夫を宥める。泣きらした目の周りは擦りすぎて赤くなっているが、もうすっかり落ち着いている。

「もうよろしいではないですか、無事だったのですから」

「いいはずがないだろう!」

 珍しく強い語気にマイラは少し驚いた。それだけ心配していたのだから、そうなってしまうのも無理はない。先日のチェグルでの一件もある分尚更のことだ。

「お前は気楽に考えすぎる。母上もだ。黒牙獣なんて俺だって相打ち覚悟でなければ勝てない、剣も術も自在に使えるキクロ兄さんとは違うんだぞ」

「……ごめん、なさい。勝てると思っていたのでは、ないのですが」

 しゅんとする妻にトウキははっとして慌てた。

「あ、いや、すまない、責めているのではなくてっ、ただあんなものが相手ではっ」

 例の黒牙獣あんなものはというと、現在少し離れたところでスニヤに遊ばれている。本気でかかっていっているつもりらしいが、雪獅子の方が体が大きく、力も素早さも格段に上なので相手になっていない。

 対するスニヤは無邪気なもので、獣が相手になるのが嬉しいのか、楽しそうにくるくる回ったり飛び跳ねながら誘い、腹を立てて食らい付こうと飛び掛かる黒牙獣を軽く避けては首根っこをぱくりとくわえて放り投げ、また遊びを求めている。

 そんな獣たちを、赫き龍は興味深そうに見つめる。

「あれが、お前の子飼いの雪獅子か」

 トウキもスニヤの方をちらりと見て笑う。彼に任せておけば黒牙獣がこちらに向かってくることもないという信頼もあるが、何よりはしゃぐ姿が見られるのが嬉しい。まだ成獣というまで育ちきっていないのかもしれないとはいえ、拾ったときとは比べものにならないくらいに大きくなった。ヒトの身では本気で構ってやれない。

「優しく賢い子です。名はスニヤと」

「雪の女神につかわされたのだな。見たところオスのようだが」

「あ、えぇと、それは、はい」

「そうか、妻と、お前の子か。よく連れてきてくれた」

「はい」

「こんな喜ばしい日だというのに、」

 龍は頭の上でふてくされたような態度でいるアルマトに向けてか嘆息した。

「お前という子は、全く。我よりもヒトと共にいる時間が長かろう、まだ馴染めていないのか」

「うるさいぞ親父どの。我は龍女アルマト、龍でありヒトであり、龍でなくヒトでもないもの。そうそう慣れ合うと思うなよ!」

「確かにお前は龍とヒトの間に立つ者。お前の在り方は幾度も教えてきたが、慣れ合えと言っているわけではない。それはお前もわかっているはず。……まぁ、此度こたび愚行ぐこうは致し方なきことではあろうがな」

 祖父ののんきな言いようにトウキは唖然あぜんとした。

「致し方ない⁉ 何を言っているのです⁉」

「まぁ、まぁ、落ち着け孫よ。理由はもうすぐわかる」

「何、を」

「来たぞ」

 馬が駆けてくる音が聞こえる。スニヤと登ってきた道を振り返ると、

「ちちうえ?」

 愛馬にまたがる灰がかった茶色の髪の男――将軍ゲンカが見えた。ゲンカも息子夫婦や妻や義父の姿を認めるとはやったか、馬から飛び降りて自らの足で坂道を駆け上がってくる。

「あぁ、よかった、無事だなマイラどの。…………いや、無事、とも、言いがたいな……」

 きれいに結っていた髪は乱れ、よそ行きの衣服は泥だらけな上に袖は無残に裂けている。

「大丈夫ですお義父とう様、怪我はありません!」

 元気に応えるが見るからにボロボロな息子の妻に、ゲンカは申し訳なさそうな顔をした。

「あぁ、何て姿だ、代わりの衣を用意しよう。妻が迷惑をかけて本当にすまなかった。……義父ちちうえ、ご無沙汰しております」

 ひざまずき、赫き龍に向かって礼をする。龍はふぅん、息をした。

「息災で何よりだ。来てくれて早々こんなことを言うのも何だが、を」

「はい」

 立ち上がったゲンカは数歩前へ出て、義父の頭上に腰掛ける妻に声を掛ける。

「龍女。お迎えに上がりました」

「来いなどと言っておらん」

「いいえ、龍女。貴女は私に言わねばならぬことがあるはず。貴女の夫たる私にはそれを聞き、知る義務があります」

「そんなものはなーいー!」

「アルマト、我が妻」

 微笑み、両腕を広げるゲンカ。アルマトは口を尖らせて立ち上がると、飛び降りる。綿毛のついた花の種子のようにゆっくり降下し、夫の腕の中に収まった瞬間――少女が美女に変わった。絡み付く白く細い腕にぎゅう、と力が入る。一連の流れに、トウキとマイラは何か見てはいけないようなものを見てしまった気分になり、思わず違いの手を握る。

 息子夫婦のことなど全く気に留めることなく、ゲンカは愛おしそうに抱き上げている妻の髪を撫でた。

「気付いて差し上げられなかったことは申し訳なく思います、が、いくら心が乱れるからといって、このようなことは感心しません」

「だって」

「どのくらいになるのですか」

 躊躇ちゅうちょして、小さく答える。

「三……いや、四……」

「ではもうそろそろ落ち着くでしょう。しばらくは童女の姿にもならない方がよろしい。体に負担がかかります」

「あの方がのだ。それに我は龍の娘だぞ」

「半分はヒトでしょうに」

 義父母の会話を聞いていて、マイラは気付いた。

「あの、…………もしかして、お義母かあ様は、」

 そっとアルマトを下ろすと、ゲンカは

「あぁ、えぇと」

 少しだけ照れ臭そうに、笑った。整っていたものが僅かに崩れるような表情の変化――やっぱり旦那様に似てるなぁと感じ入りながらマイラはとても穏やかな心持ちでいたのだが、

「……子が、できた……らしい、な」

 衝撃の事実を知らされたトウキはというと、

「な、んっ……⁉」

 固まった。



     ◎     ◎     ◎



 アルマトと二人で話をしたいから、と言うゲンカを残し、トウキとマイラはスニヤに乗り下山を始めた。日が傾きかけている。

「この後またオーギの家に行くことになっているが……」

 とても再訪問できるような装いではないな、とつい言いかけて口をつぐむ。前に座るマイラはくすくす笑った。

「私は先に戻ります、このような姿で伺うのは失礼ですものね。キクロ様のお宅の前で下ろして下さい」

「シウルに一緒に戻ってもらおう。元々その予定だったからな」

 スニヤを止まらせ、懐から短剣を出して指先を傷付けながら古い言葉を唱えると、小さな血の玉が花が咲くように広がり、薄赤色の鳥の形になった。その鳥に最低限の連絡事項を含ませ、空に放つ。

 遣いを見送るマイラが、後ろのトウキに身を任せるように寄り掛かった。

弟君おとうとぎみか、妹君いもうとぎみか。楽しみですね」

 スニヤに進むように指示を出して、トウキは苦笑した。

「この歳でできるとは思わなかった。もう三十になるんだぞ」

「私の父も、母親は違いますが伯父たちとは親子程に離れていますよ」

「……まぁ、そうだな。俺も父上が若いときの子だから、うん……そういうことも、あるのかもしれないが……」

 それでもやはり受け入れるには時間がかかりそうだ。あの傍若無人な母親を思えば尚のことだろう。

 確かに滅茶苦茶な人だったな、とマイラも思い返し苦笑いを漏らしてしまったが、あんなことをされていながらも、彼女を苦手だとは感じなかった。

「お義母様のこと、大目に見て差し上げて下さい。お爺様に私を会わせたかったというのは、本当のことだったのだと思います。お爺様とお義母様は、祖母と親しかったようなので。……でも、子ができると、しばらく心の揺らぎが大きくなったりすることもあると聞きます。お義母様は、きっと私に旦那様を奪われてしまったと感じられたのでしょう」

「…………そう、なのか……?」

 過去に自分がされたこともあってか、トウキとしては母にそこまで大事にされているようには思えないらしい。


 それでもマイラは知っている。

 我が子が愛されていると笑いながら言った姿は、とても嬉しそうだった。


「そうですよ。大好きな殿方との間にできた、たった一人のご子息ですもの」

 ゲンカが迎えに来た後のアルマトは、それまで通りに言動が高慢でつんけんしていはいたが、ずっとゲンカにぴったりとくっついていた。あれはどう見ても好きな相手に甘える態度だった。

「うちの母も、弟ができたとき、少し不安定だったことがあるんです。嬉しかったり楽しかったりしても、本当にちょっとしたことで涙が出てしまうって困っていました。でもお義父様も仰ってたとおり、そろそろ落ち着いてくるはずです。もう大丈夫、ですよ」

「……母になる、とは……大変なんだな……」

「私も、そんなふうになったり、するんでしょうか」

「えっ」

 思わぬ話題の転換にトウキはどきりとした。流れとしては別段不自然でもないのだが、まさかこんな流れ弾が飛んでこようとは。

 マイラも先日話したことを思い出し、しまったと思ったようで、わたわたする。

「あ、いえその、後々! ですから! 跡目は必要っ、ですけどねっ、今すぐでなくて後々の話ですっ」

「うっ、あっ、はいっ」

「あの……旦那様は、がお嫌いだったり」

「いっ、いや、別に全然そういうわけではっ」

「左様で、ございますか。……私は、旦那様がお相手であるなら、大丈夫ですので……妻ですし……」

 手綱を握る手に触れると、びくっとした。そっと撫でる。

「旦那様のお子なら。思慮深くて、優しくて、勇気のある子になるでしょうね」

「……俺、には、そんな、勇気、など」

「陛下のお命を救いました。昨日だって、敵視してくる人たちの前で、堂々となさっていました。そうでしょう?」

 振り向いた笑顔は、西日のようにまぶしい。トウキは胃の上のあたりがぎゅっと締め付けられるような気分になった。不快ではない。顔が熱を帯びるのがわかる。

「私のような女の子が生まれたらどうなさいますか?」

「えっ」

「……今、私が縁談をいくつも破談にしてきたこととか、はとこを投げ飛ばしたこととか思い出しましたね」

「い、いや、そんな、ことは」

「ふふ、ふふふ。……旦那様。私、こんなふうに育ってしまいましたけど、後悔はしてないし、誰に何て言われても全然気にならないんですよ。だって、破談になっていなかったら旦那様のお嫁さんになれなかった。剣を学んでいなければ、黒牙獣に食い殺されていた。……でも、旦那様、やっぱり私のような」

「お前のような娘が生まれれば、確かに気苦労は絶えないだろうな。が、」

 手に触れ返し、そのまま包むように握る。

「お前の、子であれば。明るくて、さとくて、真っ直ぐで……強い子になる」

「そうで、しょうか」

「絶対、そうだ」

「へへ、そうだと、いいですね。…………ところで、あの、旦那様」

「……ああ」

 揃って振り返る。


 少し距離をとって、黒牙獣がとことこついてきているのが見える。


「……どうしましょう、あの子」

「どうしよう、な……」


 スニヤがご機嫌そうに、うるるる、と鳴いた。




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