第3話アキ

 窓の外を徒歩で帰って行くアキの後ろ姿が見えた。振り返った彼女は私に気付くと、右腕を真っ直ぐに伸ばしてファシスト式の敬礼をした。アキは白い歯を薄暗がりに見せると、振り返って坂道を下っていった。

 

 「私、羽根の小さな扇風機は嫌いです」由緒ある神社のそばの六畳一間に住む彼女は、科学で証明されていないものは認めないと言い、小さい羽根の扇風機は嫌いだと言いきる。 

「幽霊とかお化けがホントにいると思っていません」郊外の森の中にある彼女の勤め先、つまり私の事務所から、暗がりの登山道を降りて帰宅した彼女の弁だ。当然、彼女が駅で見かけるふつうのOLと何ら変わらない出で立ちであると言うことは説明しておかねばなるまい。

 出勤時にバスにも乗らず登山しながらエクストリーム出社でもされた日には汗臭くてかなわないし、万が一遭難されては業務に支障が出るので、出社時にはバスに乗るよう言いつけている。しかし、森の中には、心霊、妖怪以外にも、野生の脅威や犯罪の危険はないというのか。野良犬やイノシシは大丈夫というのか。可愛いように見えるが、うっかりすると指など噛みちぎるにかも知れないハクビシンもいる。昼も夜も鈍くさいアナグマは別で、うっかり踏んづけても気付きもしないだろう。

 彼女によると、自宅付近の公園を近道しようとバスを降りて歩き始めたとき、暗闇に光るイノシシの眼に「きゃっ」と悲鳴をあげて金網をよじ登ったそうだ。それ見たことか。

 外が30度を超える真夏日にも、もったいないと扇風機のみで過ごし、極寒の日にも電気ストーブだけで過ごす彼女の部屋は散らかり放題で、片付けられない女らしい。きっと、真夏日には下着姿のいやらしい格好で片手団扇なのだろうが、潔癖症の私には汗臭そうな散らかり放題の部屋を想像するだけで身震いがする。

 また、あるときの彼女の趣味は製パンだった。来る日も来る日も酵母の量や、発酵時間の調整に明け暮れ、一年ほど経ったある日彼女はつぶやいた。

「まあ、発酵時間も分かりました。これからはたくさん焼いて主食にします」 彼女は、来る日も来る日も焼き損なってビスケットのような「なにか」や、粉っぽい物体を飽きもせず食べ続けたある日、そう宣言した。

「米粉で作っているからこれは米です」彼女はそんなことを言っていたにもかかわらず、今日たずねたら「思ったより米粉で作ったパンは美味しくなかった」そうで、これからは小麦粉で作ったパンを買って食べるそうだ。


 ある日、出社した彼女が思い詰めた表情でいたので問い質すと、鞄の中から取りだした封筒を差し出してこういった。「長い間お世話になりました。帰ってひとりでいると涙が出るので辞めさせていただきます」

 新しくできたオートバイに乗る熊のような彼氏と上手くいっているなら喜ばしいことだし、将来はサーカスでも始めて益々のご隆盛喜ばしいでは無いかと思ったが、ひとりでいると涙が出るとはどういうことだ。もし、男と上手くいっているなら、会社を辞める選択肢は結婚とかだろうし、いつも通りスピード破局なら、何故辞表かと。夜ひとりでいると涙が出るつまり、寂しいのか空しいのか。確かに私と朝から晩までいると一抹の空しさを禁じ得ないのかも知れないが、だからといって泣くことは無いだろう。こっちまで涙が出る。そのような事を二人の共通の知人に話すと「何もしなかったのがダメだったんじゃないのか、おい」と言われ身震いを禁じ得なかった。なぜだ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る