辞世録
三鬼陽之助
第1話ユカとジョー
ユカは、人里の近くでぽてぽてとアナグマのように生きている。不必要な世間話は全くせず、会話の最中にふと、いなくなる特技を持っている割には周りの人間には好かれ、伏し目がちだが、眼が合えば愛想笑いもする。伏し目がちな理由は、本人によると“絶えずやましい”からだそうだ。私も見習おうと思う。彼女には様々な常人ならざるエピソードがあるが、ここには語録をしたためておこうと思う。
「ここに大事なものはしまってません」(段ボールの箱のメモ)
「聞かれてないから答えてない」(恐いひとに詰問されて)
「知らんわからん読まれへん」(恐いひとに詰問されて)
「わたしを誰やとおもてるんや!? わたしやぞ ごめん」(恐いひとから逃れて)
「ふーん そんなことよりお腹すいた」(私に詰問されて)
「威張るんは好きやけど、威張られるんは嫌いや」(本人談)
ユカには、ジョーという飼い主によく似た無口な犬がいた。ユカ曰く、ラブラドール産の柴犬らしいが、どう見ても大きめで手足が短いベージュ色の雑種犬であった。
ジョーはその一見、柔らかそうな見た目と違って化繊でできたぬいぐるみのようなゴワゴワした毛並みで身体も硬く、用便のあとはお尻を拭いてくれと上目遣いにうったえる飼い主に似てひどい人見知りの犬だ。
私がジョーと仲良くなるにはジョーが大人になるまでかかった。一説によると、ジョーが右も左も分からない子犬の頃、通りがかった私に雑作も無く油性マジックで眉毛を描かれたのが原因だとユカは言うが、私はその事を覚えていない。雑作も無かったのだから当人も覚えているはずも無い。
ユカが仕事に出かけているあいだ、私はよくジョーと散歩に出かけた。誰もいない森の中や海辺で私はジョーの紐を外して散歩した。ジョーもいつの間にか私と散歩に出かけるのが楽しみになっていて、私が来るのを楽しみにしているようだった。今では飼い犬の紐を放して散歩はどこでも禁じられていると言うが、ジョーは既に人間の域に達しているので私はジョーの紐を放すときに「誰にも見られないようにしろよ。うるさそうなヤツに見つかりそうになったら死んだふりをしろ」と言いつけた。ジョーもウンウンとうなづくとポテポテ好き勝手に散策を始めるのだが、何故かランニングをしている人に慌ててついていくというくせがあった。途中で我に返ればいいのだが、慌てているので期待できず、私まで慌ててその後を走るハメになるのだった。待ってくれ、いくら私の脚が常人より長くても4WDのお前の方が早いのだ。
一時、ジョーは山鳥や猪を追いかけることに熱中した時期があって、他の犬やひとが近づくと背中の毛を逆立てて逃げようとしたり怖がったりするのに、山鳥の匂いや猪を見つけるとダンゴムシを見つけた子供のように駆け寄って行くのだった。キモいからやめて欲しい。
山道を歩いていると私の方をふり返ったジョーが「なぁ、とりさがしにいっていい?」というのでうなずくと、思ってもいない場所から大きな羽音をさせて大きな山鳥が飛び立った。満面の笑みを浮かべたジョーが藪の中から現れると心底嬉しそうな笑顔で私を見上げるのだった。「な、いまのみた? とりおったな」
その日からジョーはことあるごとに山に分け入ると私の顔を見上げて嬉しそうな顔をするようになった。「こっちに行ってみようよ。なんかいいもんがある気がするねん」
いいもんて、猪とか猪の糞とか、鳥とか鳥の死骸とかやろ? いやや、ことごとく却下だ。
ある日、ユカがジョーと近くの山を散歩しているとき、ジョーは勢いよくユカの元を離れて行って、しばらくユカの視界から消えてしまった。心配したユカが探していると、どこかでジョーの悲鳴が聞こえて、本当の獣のうなり声がした。ユカが急いで山を下りて家に帰ると、そこには泥だらけのジョーがじっと立っていた。
「はやくどあ、あけてくれ。ぼくはなにもかもいやになった。ねる」ジョーはそういってユカの顔を見上げた。
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