第49話 護衛を置いて家路を急ぎ、僕は戻ることの意味を知る
僕は家路を急ぐ。
文化研究部の部室を飛び出した僕は、迎えの車を待つのがもどかしくて、タクシーを拾う時間すら惜しくて、ローファーに傷がつくのも厭わず、全力で夕暮れの街を駆け抜ける。
息が切れる気配はなかった。姉様に救われて以来、伊達に毎日身体を鍛えてきたわけではなかった。
次の信号を右折し、三つ目の角を左。そして百メートルも走れば見えてくる。高い石壁と針葉樹の植え込み、堅牢な鉄門扉、それらの奥に堂々と構える白亜の洋館。三千院家本邸だ。
入り口脇のインターホンのボタンを突いて反応を待つ。状況が呑み込めず俄かに慌てている、そんな珍しい冴さんの姿がディスプレイに映る。
「……初様!? 迎えはどうしたんですか?」
「はぁ……走って……帰って……きました……、姉様は……いますか……?」
ディスプレイの表示が消え、通用門の錠が外れる音がする。
僕は一目散に玄関へと駆け込み、シャンデリアで飾られたエントランスの脇から上層へと続く階段を駆け上がる。姉様の部屋へ一秒でも早くたどり着く、その一心で今後十年は破られることのないだろう自己最速を記録して姉様の部屋の前にたどり着いた僕は、ノックすらせずにドアを開ける。
「姉様! 大事なお話が……」
そして肩で荒く息をつく僕の方へと、ベッドにどっさりと広げた服を姿見の前で楽しそうに身体に合わせていた姉様が、頬を赤く染め上げ目元をひくひくさせながらゆっくりと振り返る。
コンマ一秒の猶予も必要とせず僕は理解する。これは姉様が泣き出すパターンだ。
「初……なんで……ノック……ぐすっ」
大泣きしなかったのは幸いだった。しおらしい姉様ならばまだ対話を成立させる余地がある。
「すみません、急用で……」
僕は用件をさっさと切り出そうとしたけれど、今の泣き出しそうな姉様に真剣な話を切り出すことに気が引けて、話題を選んだ。
「……姉様、お出かけですか?」
「そうよ! 初も言ってたじゃない。今日紗良と話したのよ、いつか友達ダブルデートしたいって!」
「……日取りも決まっていないのに今から服を選んでいるのですか? ものすごく楽しみなのですか?」
「……何で憐れむような目で私を見るの? 初は楽しみじゃないの?」
「いえ……昨日から今日にかけて、私結構シリアスな状況でしたので、落差を感じているんです。姉様だっていつになく真剣だったではないですか」
「それとこれとは別よ。やることやるんだから少しくらい楽しんだって罰はあたらないわ!」
そう言って姉様はふんふんと鼻歌を歌いながら鏡に向き直る。
清々しいほどの浮かれぶりだった。こんなに楽しそうな姉様を見るのは初めてかもしれない。メンタルが安定してきたのを見て取った僕は、ふわふわとした笑みを浮かべて姿見の前でポーズを決める姉様に本題を切り出すことにした。
「……ところで姉様、一つお願いがあるのですが」
「ん、何よ? そういえば急用とか言ってたわね」
「私が……春日初が使っていたスマホ、貸していただけませんか?」
姉様の表情が途端に真剣さを帯びる。
さようなら楽しそうな姉様、また逢う日まで、そう思った。
「それはつまり、春日初としてアンタが行動するってことかしら?」
「そうです。可能なら、今すぐにでも」
僕の圧力強めな態度に少しだけたじろぎつつ、姉様は壁に掛けられていた活けられた薔薇の絵画へと手を伸ばし、額ごと横にずらす。そこには隠し金庫があり、十桁はくだらない暗証番号を入力して姉様はロックを解除する。
姉様が手に取ったのは確かに僕が一年前まで使用していたスマホだった。
「これでいい?」
「ありがとうございます! 姉さ……ま?」
差し出されたスマホを受け取ろうとする僕の手を、姉様は華麗にかわした。子供の悪戯か、と思いながら僕は姉様を睨む。
姉様はそんな僕の額に突然手刀を落とした。
「あいたっ……、どういうつもりですか姉様……」
「少し頭を冷やしなさい。興奮しすぎよ」
「興奮って、今は少しでも時間が惜し……あいたっ!」
再びの手刀が僕を襲う。
僕と同じく片桐に鍛えられた姉様の攻撃は、女の子同士のじゃれあいなどとは到底形容できない威力を秘めている。手加減はされていたけれど、十二分に痛い。小学生を確実に泣かすレベルである。
「何があったか知らないけれど落ち着きなさい。どうせ充電しなきゃ使い物にならないんだから」
そう言って姉様は化粧台の引き出しにしまってあった充電器を取り出すと僕のスマホを充電し始める。
「話を聞かせなさい、まずはそれからよ」
額を抑えて顔を背けていた僕だったけれど、姉様の言葉を聞いて冷静さを取り戻した。文化研究部での一幕を姉様に聞かせると、姉様は悔しそうに歯噛みしつつ呻く。
「……まさかあんな所に潜んでいたなんて。三住と言ったかしら、私を出し抜くとはいい度胸してるわね」
姉様曰く従姉妹と呼ぶ人物だけでその数は二十を超え、互いの接触もさほど多くはないらしい。顔と名前が一致しないことや名前を憶えていないことも日常茶飯事で、かつて文化研究部に勧誘された時ですら部長が親族だと気が付かなかったのだと言う。
「……まあ、あいつのことはいいわ。初はこれから何をするつもりなの?」
「春日初として冬姉と話します」
「直球ね。ま、いいんじゃないかしら。どうせ大した策が講じられる状況でもないわけだし……ただ、一つだけ条件があるわ」
「何ですか?」
「片桐を連れて行きなさい。今頃あんたを探して校内を駆けずり回った挙句、冴あたりから連絡を受けて肩を落としているだろうけど」
「姉様、先ほども言いましたが私は一人で……」
「勿論、片桐には何もさせないわ。あくまで片桐の仕事は護衛だけ。実感してないかも知れないけれど、片桐がいなければ改造中に百回は死んでるわよ、アンタ」
改造中、とはおそらく僕が中学三年の頃のことだろう。確かに謎のレーザービームを飛ばしたり懇切丁寧なご案内がなされていたことは知っている。けれど、それが結果的に百回以上も僕の命を救っていたとは全く気付いていなかった。
「……あの、それ本当ですか?」
「本当よ。何のためにあいつに最新の武装を預けてると思ってるの? 全く費用がもったいないったらないわ。第一、三住にバレたのなら他の人物にだってバレている可能性がある。千条院初として行動する限り、あなたを表立って害することは不可能とまではいかずとも極めて困難だけれど、そんじょそこらの一般家庭の少年、春日初をハイ〇ースするくらい訳ないわ」
冗談を織り交ぜていても、姉様の視線と言葉の調子は真剣そのものだった。自分がそこまで執拗に命を狙われていながらも、その全てを阻止してきた片桐はただの気のいい格闘技野郎ではなかったのか、と認識を新たにする。
同時に理解する。今から自分がしようとしていること、春日初に戻ることとはつまり、文字通りに自分の命を危険にさらす行為なのだということを。
そして何より、その事実を受け入れた上で怖気づいていない僕自身に、実は少し驚いていた。
「あんたの命を危険には晒せない。片桐を連れて五体満足で生きて帰ること。それが私の出す条件よ」
「分かりました」
「よろしい。それじゃ、さっそく根回しと下準備よ。まさかこんなに早く春日初変身セットが日の目を見るなんて思わなかったわ!」
楽しそうにそう言って、姉様は生き生きと行動を始める。
そんなものいつの間に準備していたんですか、と僕はささやかな冷気を視線にまとわせて姉様を見つめるけれど、全く気づいてもらえる様子はなかった。
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