第24話 デート先の噴水前にたどり着いた僕、クラスメイトの戦いを目撃する

 数分間の逃走の末、僕と夏目さんは無事に噴水前広場にたどり着いた。

 屋台で二人分のフルーツジュースを買い、噴水のへりへ腰かける。


 日は既に傾き、景色は一様に赤身の強い茜色を帯びている。未だ少なくない人たちが行きかってはいるけれど、足を止めている者は近くにはいなかった。


 僕はこの場所が意外とデリケートな会話に堪える状況であることを確認しつつ、彼女にジュースのカップを渡す。


 「落ち着きましたか、夏目さん?」


 「どうかな…まだ、少し怖い」


 「そうですか……では、今は休みましょう」


 僕は努めて明るく言って、夏目さんの震えの残る左手に手を添えると、周囲の様子に目を光らせる。


 二人して黙っていた。喧噪の中に時折、ストローでジュースを吸い上げる音にならない音が混じる。五分ほどたって、中身を飲み干した僕のコップからずぞぞぞぞという音が響く。


 それが合図というわけではないだろうけれど、彼女はぽつりと呟いた。


 「……克服したと思ったんです」


 口調がですます調に変わったことに違和感を覚えながら、それでも気づかないふりをして尋ねる。


 「克服、ですか?」


 「髪を染めて、コーデを研究して、口調を変えて、同じ中学の子が誰も合格できないような進学校に入って、私は変わったと思っていたんです」


 「高校デビューの話ですよね?」


 彼女はこくりとうなづいて、自分の考えや感情にふさわしい言葉を一つ一つ吟味するかのように、ゆっくりと言葉をつないでいく。


 「……中学時代に私はいじめられていて、それはいじめっ子が私に惚れているからだって人づてに聞かされて、何でそんな子供みたいな男子からいじめられないといけないのかって、ずっと……」


 「……ひどい話ですね……」


 いじめと聞いて感情移入してしまった僕の隣で、夏目さんは言葉にするだけでつらい過去を何とか言葉にするために、瞼をきつく閉じていた。根拠はないけれど、本当に何となく、彼女は今何かと懸命に戦っているんじゃないかと感じる。


 「……あの頃の私を助ける人は誰もいなくて、世界に私の味方なんて一人もいないと思ってて、きっとこの先目立たない世界の片隅で本だけを相手に息をひそめて生きていくんだって、真剣に思っていたんです……でも、いじめは終わってしまったんです」


 「終わってしまった……?」


 僕の反問に、夏目さんの唇が不規則に痙攣するのが分かった。まるで涙をすべて封じ込めるという使命を帯びているかのように一層固く閉じられる瞼も同じく震えていて、決壊が近いのだと僕は悟る。


 「……春休みに両親に買ってもらった詩集を、始業式の日、教室で読んでいたんです」


 彼女の感情が決壊する前に僕の表情が決壊した。


 完全に素の、春日初の狼狽が千条院初の顔を引きつらせる。二人の過去が重なる予感がする。重ならないようにと僕は願う。

 彼女の瞼は閉じられたままで、今の顔を見られていないことは本当に幸運だった。


 そしてしばらく、夏目さんの独白が続く。その間、僕にできることは相槌を打って続きを促すことだけだった。





 「……初めて同じクラスになったクラスメイトが、私をいじめていた男子を殴って、それをきっかけにいじめのターゲットは彼に移って、私へのいじめは終わったんです」


 「……私はまたクラスになじめるようになって、一方でいじめられている男の子のことを見て見ぬふりをしていました。私がいじめられているときに誰も助けてくれなかった。だから、私にも助ける義理はないと思っていました」


 「……でも、ある日男の子がいじめられる理由を噂で聞いたんです」


 「……私の前でかっこつけたのが気にくわなかったから、と聞きました」


 「……私を助けてくれた人は、弁解の余地もなく私のせいで苦しんでいて、助ける義理があると分かったのに、私はもう一度あの場所へ戻ってしまうことが怖くて、いじめている人たちがどうしようもなく怖くて……彼を見捨てたんです」






 吐き気がするほど僕は後悔していた。

 こんな話聞くんじゃなかった、ドタバタの間にさっさと駅へ向かいゴーホーム決め込めんどけばよかった、と。


 それでも僕は逃げることができなかった。夏目さんが今も戦っているとわかってしまったからだ。きっと誰に対しても念入りに秘してきた過去に言葉という輪郭を与えるために、彼女は想像を絶する痛みに耐えている。そう思ったから。


 そして独白は続く。





 「……私は、強くなりたいって思いました。誰に対しても卑屈にならないで、言うべきことを言える。そんな人になりたいって、そんな人になって、私はその男の子を助けたられたらって」


 「……でも、それは叶いませんでした。中三の春から、彼は特別学級に移ってしまいました。その上週一回しか学校に来なくなって、接点を失った私には彼に声をかける機会さえなかったんです」


 「……私にはずっと私を助けてくれた男の子を見捨てたっていう罪の意識があって、それを償いたくて……じゃなくて、許してほしくて……でもなくて、きっと……」


 「……きっと逃げたかったんです。罪の意識から逃げるために私は強くなろうとして、この高校に入学して、クラスの明るい輪の中にいることができて、男子とも対等に話せる私は過去を克服したって、逃げ切れたんだって、そう思ってたんです」


 「……でも千条院さんが手に取っていた詩集を見たら、心臓を直に握りつぶされるような気分になったんです。私の罪はまだここにあるって、逃げ切れてなんかない、逃げられないんだって、言われているようで……」


 「……怖くなって千条院さんを置いて本屋を出て、そうしたら男の人たちにつかまって暗がりに連れ込まれて、まるでいじめられていたあの頃のようだって気づいたら……もう、ごまかせなくなってしまいました」


 「……本当はあの時、私は助けられるべきじゃなかったんだって」


 「……そうしたらあの男の子は苦しまずに済んで、どうしようもない私の罪の意識は生まれることがなくて、あるべき形に歯車がかみ合うみたいに、きっとそれが……一番良かったんだって、気づいて……」





 夏目さんの表情はとうの昔に決壊していた。

 声は震えて聞き取りづらくて、涙はあふれて彼女の形のいいあごの先端から滴り落ち、ブルゾンの上に淡い色合いの跡を刻んでいる。


 その傍らで、僕は逆に冷静さを取り戻していた。僕のすぐ近くの、でも僕の気付かないどこかで、僕にまつわる苦しみを抱えている人がいたという事実が、僕に名状しがたい影響を与えていたのだ。


 かつての夏目さんを助けた時の頭を漂白するような熱にも似ているそれに敢えて名前を与えるならば、それは叱咤かもしれなかった。

 彼女の姿が、最期まで言葉を紡ごうと覚悟する姿勢が、僕をたった一つの使命を果たせと背中を押しているような気がした。


 声の主とは春日初かも知れず、あるいは僕の中に流れる千条院の血かも知れない。

 それでも僕の中で確かに誰かが告げた――


 ――夏目文を、救え、と。

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