第11話
よく分からないが、私はとにかく痛みを覚悟して息も完全に止めていた。だが、すぐに気が付く。何の痛みも訪れない、ということに。恐る恐る目を開けると、私は間違いなく水の中にいた。だが、開いた眼は痛みを感じず、驚きのまま再開した呼吸は一滴の水も私の口に放り込まない。
一瞬混乱しかけるが、視界にキラキラとした光が散らばっていることに気が付き、はっとする。混乱しかけて、と思っていたが、すでに混乱していた。こんな分かりやすい現象に、何故気付かなかったのか。そんなことを思っている間に、私は水と一緒に下へ下へと運ばれた。そこそこに速度はあったようだが、水の中では落下の速度はないも同然。むしろ、場違いに楽しい気持ちを抱いてしまうほど安定している。
ややあって、私の体は完全に海の中に納まった。かと思うと、すぐさま海面に上半身を引きずり出される。
「エレンちゃん大丈夫!? 痛いところない?」
頬を両側から包む白魚のようなすべらかな手。その持ち主の心配そうな青い双眸を見た途端泣きそうになったが、私は堪えてその両手を自分の両手で包み返し、何とか笑みを作った。
「……っ、大丈夫。ありがとう、ノーマさん」
あの日以来、ずっと私から遠ざかっていた美しい人。優しい人。温かい人。愛しい人。人魚装束になっていること以外は何も変わらない彼女の存在が、どうしようもなく心をいっぱいにする。
「よかった……っ、追いかけられているのがエレンちゃんだって分かって、私凄く心配し」
「ノーマ! 逃げて!」
同じく泣きそうな顔で笑ったノーマさん。抱きしめてくれようとしたのか腕が伸ばされかけるが、彼女とよく似た声が場を割った。いや、場を割ったのはもう一つ。急速に近付いてくる風を切る轟音。再会の喜びにすっかり忘れていた、執念深いドラゴン。
「ノーマさ――!」
逃がそうとノーマさんを突き飛ばすが、鉤爪と翼を広げて降りてきたドラゴンが掴んだのは、私ではなくノーマさん。伸ばした手が追い付かない。目を見開き硬直するノーマさんが離れていく。私はノーマさんの支えを、魔法を失い、水の中に落ちていく。嫌だ、待って、やっと会えたのに、私の、私の――!
「エレン大丈夫!?」
沈み続けていると、背後から思い切り押され海面に持ち上げられた。背後から顔を出したのは、ノーマさんの4番目のお姉ちゃんであるスージーだ。見れば他の姉たちは空に向かって歌を歌っている。それに応じて周囲からは水球が発射されているので、恐らくこの歌は人魚の魔法なのだろう。だが、水球は惜しいところまで行くがドラゴンに当たらない。機動力がある空中のドラゴンに当てるのは難しいのだろう。
「ああノーマ! っ、人間! あんたのせいよ! あんたのせいでノーマが殺される! あんたもここで死になさいよ!」
悲嘆し叫ぶのは顔面蒼白のアデリンだ。上の姉2人はまだ懸命に歌を続けている。
私は見開いた眼で空を見上げた。空を縦横無尽に飛び回るドラゴン。その手に囚われた私の大事な人は、泣きそうな顔で振り回されている。あのドラゴンがどんな理由で彼女を連れて行ったのかは分からない。私を助けたからか、私が死ぬのを邪魔したからか。だけどそんなことはどうでもいい。
「ちょっと聞いてるの!? やっぱりあんたなんてあの時殺しておけば」
掴みかかろうとするアデリンの手を掴み、私は大声を出した。
「アデリン! さっきの水柱もう一回出来る?」
「……は? 何を」
私に掴まれたままの腕を離そうと必死になりながらアデリンが怪訝な顔をする。でも説明する暇はない。
「いいから! 出来るか出来ないか! 今必要な答えはそれだけ!」
強い口調で答えを
「なら、次にあいつがこの上来たら思い切り私のこと飛ばして。勢いよく。全力で。出来れば地面くらい硬くしてくれるとなおいい!」
それ以上の説明はしなかった。いや、出来なかった、が正しい。件のドラゴンが、こちらに向かってきたから。アデリンもそれが分かったようで、追加の説明を求めず歯噛みして私を睨みつけてくる。
「あの子を助けられなかったらそのまま海面に落下して死になさい!」
言うや否や、アデリンが歌いだし、それにスージーが、水球の歌を止めたジョディとベッキーが呼応した。すると、私の足元から水の柱が生じ、恐らく先程私を救うために伸びてきたそれよりずっと早くに伸びあがる。
先とは違い、私の体は水柱の中ではなく頂点にあった。ともすれば悲鳴を上げたくなるような速度だが、今の私ならこのくらい余裕だ。余裕なのだ。こんなの恐怖じゃない。どれだけ強い風が正面から襲い掛かろうと、海面から遥かに高い場所にこの身があろうと、血走った眼を向け牙を剥いてくるドラゴンが迫って来ようと、そんなの全然怖くない。私が今一番怖いのは、この空飛ぶクソトカゲの腕の中に囚われている大事な人が、これ以上に傷つくことだから。
「私のノーマさんを!」
全身を、恐らく人生で最も強く込められた力で固める。要望通り地面のように固くなった水柱の頂点を踏みしめれば、表面が地割れするようにばしゃりと音を立てた。そしてその直後、私は思い切り水中を蹴って空中に飛び出す。
「とっととぉぉっ、返せえぇぇぇぇぇぇっっ!」
全力で握りしめ振り抜いた拳。それは私に食いつこうとしていたドラゴンの開きかけた下顎に直撃した。私の拳には肉が潰れ骨が折れる、生き物を壊した気色悪い感触が伝わってくる。ドラゴンは意識を失ったのか、目の色が失せ、大きく身を
「ノーマさん!」
呼びかけるけど、ノーマさんの返事はない。気絶しちゃったのかな。まさかそれ以上のひどい状態じゃないといいけど。心配になって私は少し体を離そうとした。けど、それより早くに人魚たちが伸ばしてくれた水柱の上に落下する。先のものとは違い、柔らかなそれは私とノーマさんを一度随分深くまで沈めたけれど、すぐに表面までまた戻してくれた。反動で体が何度か軽く宙に浮きあがったけど、それもすぐに収まる。私はノーマさんの下敷きになる形で水柱の頂上表面に横たわっていた。視線の先にはこんな騒ぎがあったとは思えないほど穏やかな青い空が広がっている。
それを認識した途端、私は詰めていたらしい息を吐き出した。どっどっ、と心臓がうるさい。それまでの緊張と恐怖とが一気に襲ってきている。
「あっ、ノーマさん大丈――」
不意に正気に戻り、私は私の首に顔をうずめているノーマさんの金色の髪に視線を向けながら肩を軽く揺すった。いや、揺すろうとした。出来なかったのは、その直前にノーマさんがいきなり体を浮かせて私を見下ろしてきたから。青い青い、潤んだ双眸で。
「……ので、いいの?」
「え?」
聞き取れなくて訊き返すと、ノーマさんの双眸からはぽろぽろと真珠のような涙がこぼれていく。
「……私、エレンちゃんの私で、いいの? エレンちゃんも、私のエレンちゃんに、なってくれる……?」
私の顔にいくつもいくつも落ちてくる涙の粒。それが、どういう意味なのか私には分からない。でも、これが「嬉しい」から流す涙なら、私も嬉しい。なので、そういうことにしてしまおう。
自然と頬が緩む。私はノーマさんの目元に両手で触れ、親指で涙を拭ってあげた。受け入れたノーマさんが瞼を落とすと、残っていた涙がまた私に落ちてくる。
「はい、私のノーマさんになってください。それで、私もノーマさんの私にしてください」
はっきり告げれば、ノーマさんはまた涙が堪えきれなくなったのか顔を歪めた。そんな顔も美人なのだからずるい人だ。思わず笑ってから、私は上半身を起こす。ノーマさんも水面に座り直した。そうして正面から向き合ってから、私はノーマさんの両手を握り締める。
「好きですノーマさん。あなたが大好き。もう離れていかないでください」
大事なことはちゃんと伝えなくては伝わらない。本当は優勝してから言うつもりだったけど、私は目的と手段を履き違える馬鹿じゃない。そうエレンちゃんは優秀なんです。私の目的はあくまでも、この人にこの愛を伝えることなんだから。
やっと伝えられた。堪えきれずに浮かんだ私の笑顔の前で、ノーマさんはやっぱり泣き出した。でも今度のはよく分かる。これは、感極まった時のものだ。そう確信した直後、ノーマさんは両手を伸ばして勢いよく私に抱きついてきた。
「私も、私も大好き。エレンちゃんが大好き。ずっとずっと好きだった! 本当は離れたくなかった、ずっと一緒にいたかった。あなたの隣にいられる私でいたかった! ……勇気がなくて、逃げて、ごめんなさい」
「……勇気がなかったのは、私も同じです。ごめんなさい、ノーマさん」
抱きしめ返すと、ノーマさんは腕の中で「そんなこと」と言って首を振る。そんな仕草が愛おしくて、私は改めて彼女を抱きしめ直した。ああ、嬉しい。この腕の中にこのぬくもりがあることが凄く凄く嬉しい。
幸せを両手に抱きしめて噛みしめていると、突然下の方から空気を揺らす咆哮が聞こえてくる。怒り狂ったそれが誰が放ったものか分かり、私はノーマさんを離して自分の背後に回した。直後、だらだらと血を流したダイアドラゴンが再び浮かび上がってくる。目が覚めてしまったようだ。本当に執念深い、このドラゴン。
どう対応するべきか、ノーマさんを逃がすべきか。そう思っている背後ではノーマさんが、海では姉君たちが迎撃の準備を始めているようだった。しかし歌が完成するより前に、ドラゴンは私たちの眼前まで迫ってくる。
だが、その突撃は途中で止まった。止められた。何に? 自分の目で見ているのにまるで信じがたいが、海から出てきた巨大な手に、だ。
ダイアドラゴンの巨体は巨大な掌に、それこそ本当のトカゲのように収められてしまい、頭と尻尾しか出ていない状態になっている。暴れているようだが、掴んでいる手は揺らぎもしない。
私が完全に絶句している内に、海に巨大な山が出来始める。巨大な滝を目の前にしたような――いや、実際しているのだが、そんな轟音と共に盛り上がった水は海面へと落下していった。そして水が落ちるたびに、その向こうからは巨大な巨大な人の姿が露わになっていく。
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