第5話


 ノーマさんが海に消えてから早くも6日が経った。金のうさぎ亭にも行ってみたけど、ノーマさんはあの日以来戻っていないそうだ。何でもその日、おかみさんから私が海辺に行くと聞いて慌てて追いかけて行ったのだとか。逆にどこに行ったのか知らないのかを訊かれ、私は黙ることしか出来なかった。色々察して「きっとその内帰ってきてくれるよ」と言ってくれたおかみさんの優しさには感謝するしかない。

 ノーマさんがいなくなってから、私はすっかりやる気が失せてしまっている。仕事は休んでいるし、外出もしていない。日がな一日、こうしてベッドの上で丸まりあの日のことを後悔していた。

 けれどついに、そんな私に堪忍袋の尾が切れた人がいる。母だ。

「エレン! あんたいい加減にしなさい! 怪我してるわけでも病気してるわけでもないのに一日中ごろごろして。いい加減外出なさい。今日は大豊穣祭本番だってのに辛気臭いんだから」

 遠慮も躊躇ちゅうちょもなくドアを開けた母はずかずかと部屋に入り、ノーマさん捜索を諦めてからの3日閉じっ放しだった窓を全開にする。その途端に、それまで遠かった喧騒が新鮮な風と共に飛び込んできた。ああそうか、もう今日は2日目か。いつもならわくわくして1日目からあちこち回っているのに、全然頭が回らなかった。

「……今年はいい」

 掛け布に包まり直し喧騒から遠ざかろうとすると、その途端に布を剥ぎ取られてしまう。私はよく腕力から化け物扱いされるが、その私から物を剥ぎ取れるんだから純粋な人間な筈の母の方が化け物だと思う。

 ベッドの上に座り、私は不満を乗せた視線で母を見た。

「失恋したばっかりの娘を労わってよ」

「はあ? あんたこの間振られたの吹っ切ったって言ってたじゃないの。何でまた落ち込んでるのよ」

「そいつはもうどうでもいい。別の人。……向こうも好きだって思ってくれてたの分かったのに、それが私にバレたからっていなくなっちゃうんだもん。多分もう、この辺りにもいないよ」

 言っているうちに段々心が重くなっていく。視線が自然と床まで下がった。あの後、一体どうなったのだろう。海からの声は聞こえなくなったという。知り合いに舟を出してもらって連れて行かれたと思う岩礁も探したけど、どこにも見つからなかった。ジョディたちと帰った? それとも泡になっちゃったの? 知りたいけど、もう何も分からない。

 気分が底なし沼に沈んでいくのをそのまま受け入れていると、母は「もしかして」と思案する声音で口を開く。

「例のノーマって子のこと?」

「えっ!? 何で分か――いや、何のこと?」

 予想外に事実を指摘されぎょっとして顔を上げるが、同性を好きになったという負い目がすぐに私を正気に戻した。けれど、母は「分かりやすいのよ」と私の頭をべしりと叩いてくる。

「あんな毎日あからさまにうきうきしながら食堂通って、その子がいなくなった途端引きこもるでしょ。そんなに仲良かったのかしらって思ってたら、自分から恋愛感情ありましたーなんて暴露するんだもの。あんたそんなうっかりで外の仕事していいのかお母さん本気で心配になったわ」

 頭を抱え深い溜め息を吐かれて、私は視線をそらした。自分の迂闊うかつさを情けなく思っていると、母はベッドに腰かけてくる。

「それで?」

「え?」

「何があったの? 言ってみなさい。これでもあんたの倍以上生きてる人生の大先輩よ。しかも、トレージャーハンターとして各地を回っていた普通の人より経験豊富な、ね」

 自信に満ちたウィンクを投げられ、私は少しの逡巡しゅんじゅんの後、6日前に起こったことを全て母に話した。そして逃げられてしまった直前の話が終わってから、黙ったままの母を見る。そして思わず怪訝けげんな顔をしてしまった。何故か母が、目と口を大きく開いていたから。

「……おっどろいた。相手があんたのこと好きだっていうの思い込みじゃなかったのね。人魚が名前の魔法を相手にかけるなんて滅多にあることじゃないわよ」

 失礼なことを言われた気がするが、今はそれに文句を言うより件の魔法について訊くのが先だ。

「それってどういう魔法?」

「うーん、簡単に言うと、恋の魔法よね」

 ……恋の魔法?

 何を言っているのか分からない、と素直に顔に出すと、母は「人魚はね」と言葉を続け口元に一本立てた人差し指の指先を唇に当てる。

「想った人への気持ちを、相手の名前を呼ぶ声に宿らせるの。相手の名前を呼ぶたびに、自分がどれだけ温かい想いを相手に向けているか、っていうのを伝えるために。本来は自分にかける魔法だけど、相手にかけると、相手が自分に対してプラスの感情を持っているかマイナスの感情を持っているかが分かるようになるらしいわ。……ノーマちゃんは、エレンが自分の事をどう思っているのか、知りたかったみたいね」

 くすくすとからかうように笑われるが、私は納得出来なくて苦い顔をしてしまった。

「……じゃあ私がノーマさんのこと好きなの分かってるんじゃん。何で逃げるの……」

「お馬鹿。分かるのはプラスかマイナスかだけよ。あんたからの感情がプラスだったとしても、それが恋だなんて分からないでしょ」

 訂正され、私は「そっか」と小さく呟く。私の気持ちをこっそり知りたいほど、私のことを好きでいてくれた、ということが嬉しい。けれど同時に、同じように向けていた気持ちを伝えられない寂しさが胸にいっぱいに広がった。

「……私、どうしたらいいの」

 母に縋って問う声は、自分でも情けなくなるくらい震えている。母はふっと微笑み、私の頭を片手で抱えるように抱き締めてくれた。髪越しに頭にキスが落とされる。

「そりゃ伝えればいいのよ。あんたが彼女のことを大好きだって思い」

「本人いないんだってば……」

「人魚の国にも届くようにすればいいじゃない」

「無茶言わないでよ。沖合の水底の国でしょ」

 拗ねて母の胸の中で首を振った。すると、頭の上から母のすっとぼけた声が落ちてくる。

「あらー? そういえば毎年大豊穣祭のレースの上位入賞者は、音の精霊が宿った伝声器でインタビューされてなかったかしらー? それに、大豊穣祭のレースの様子は風と水と音の精霊が協力して各地に流してるはずだった気がするわー? 人魚の国にも一昨年から流すようになったって知り合いの行商が言ってたけどねー?」

 わざとらしい発言をきっかけに記憶を探り、私は少しずつ自分の目が開いていくのを感じた。言われてみれば、確かに、そんなことを聞いた記憶がある。確か、その様子を見て「人間もちゃんと海の神に感謝をしてるのか」と一層の信頼を得られた、とか。それに何より、ノーマさんはかつて言っていたはずだ。去年の大豊穣祭の様子を見たからここに来た、と。

 私がはっきり認識したのが分かったのか、母は私を引き剥がし、両肩をぽんぽんと叩いてくる。

「行って来なさい。お父さんとお母さんの子供なんだから、本気を出せばきっと勝てるわ。逃げた相手を口説き落とすんだもの。優勝ぐらいしてからじゃないとカッコつかないからね」

 発破をかけられ、私は自分の頬をばしりと叩いて立ち上がった。手早く着替えると、脱いで放ったパジャマは床につく前に母の手の中に収まる。

「行ってきます!」

「顔ぐらい洗ってきなさい!」

「ああもう、いきなり日常ぶっこまないでよ! 分かりました!」

 こんなイベント感を出しておきながら母親というのは……。

 足音高く階段を駆け下りて――すぐに私は自室まで引き返した。ちょうどベッドから立ち上がった母は「どうしたの」と少し驚いた顔をする。その変わらない表情に後押しされ、私は訊かねばならないことを訊いた。

「お母さん、私が女の人好きになったのに何も言わないの?」

 声が掠れる。頬が引きつる。でも、訊かずにいられない。真剣な目で見つめていると、母はにっと歯を見せて笑った。

「そりゃびっくりしたわよ。あんたの孫は見られないのか~、って思うと、それは正直残念。でも好きになっちゃったら仕方ないでしょ。私だって、お父さんの恋人になるって決めた時周りに凄く止められたわ。人間とドワーフが上手く行くわけない、って。でも、そんな声じゃ止められなかった。だって、あの人のことが本当にどうしようもないくらい好きだったから。――あんたも同じでしょ? まあ、あんたの嫁として認めるかは一回会ってから決めるわ」

 ほら、分かったらとっとと行きなさい。しっしっと犬を払うように手で払われる。それでも浮かんでいるのは、ちょっと照れくさそうな、幸せそうな笑顔で。

 ぼやけた視界を拳で拭ってから、私はまた階段を駆け下りた。ありがとう。口にした言葉がちゃんと母に届いたのかは知らない。




 町の中を駆けぬけ、私は「そろそろ参加募集締め切りでーす」と声高に叫んでいる人たちが招いているテントに駆け込んだ。

「参加します!」

 自覚するぐらい必死の形相だったので、受付をしていたお姉さんが一瞬引きつった声を上げる。それでも目玉イベントの受付という重要な仕事を任されたプライドがあるのか、すぐににこりと麗しく微笑み、参加申込書を差し出してくれた。

「ご参加ありがとうございます。まずはこちらの紙の必要事項を、正確にご記入ください。ご記入後、もう一度私共にお渡しいただきましたら、こちらの参加証をお渡ししますね」

 女性が「参加証」と言って取り出したのは、参加人数なのか「12331」と番号が彫られた木札だ。腰に下げられるように編まれた紐がついている。私はそれを確認すると、すぐさま必要なことを記入するべく近くに設置されているテーブルに向かう。

 私が参加証をもらったのは、それから十数分ほど経ってからだった。

 参加証を持っている者のみが通される熱気の渦に飛び込むと、体力自慢だろう者たちと、記念に参加しただけの者たちが入り乱れている。最初は既定のルートを駆け抜けることになるので、出来れば前の方にいたいのだが、今から前に行くのは至難の業だろう。前の方の人混みにはそれを敢行している強者たちがいるようで、時々怒声が聞こえてきた。

「あれ、エレンの嬢ちゃんじゃねぇか?」

 聞き慣れない声が驚いたように声をかけてくる。声の主を探して聞こえてきた方に視線を向けると、若者の集団を掻き分けてごつごつした筋肉のお兄さん(30代ぐらいかな?)が近付いて来た。やっぱり見たことがない。当たり障りなく挨拶をすると、お兄さんも「おう」と気軽に手を上げてくる。

「ここ数日姿を見なかったから病気でもしたのかって噂になってたんだぜ。棟梁は嬢ちゃんに賭けるつもりでいたのに、本当に出ないみたいだったから残念がってたよ」

 棟梁に教えてやんねーとなぁ、と楽しげにお兄さんは笑った。誰だかはやっぱり分からないけど、エバートンさんの所の部下の人だってことはようやく理解する。

「しかしどうしたんだい? 棟梁が出ろ出ろって言ってる間はずっと断ってたのに。何か欲しいもんでも出来たのかい?」

 問われて、私はレースの途中通ることになる海側を見つめた。意識的に瞼を深く閉じれば、広大な海のどこかにいると信じている、大事な人の姿が思い浮かぶ。

「そう。欲しいものが出来たんです」

 このまま終わりになんて出来ない。開いた視界には、ライバルおおよそ1万人。でも、絶対負けない。

「愛を取りに来ました」

 ノーマさん、私、諦めてないからね。


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