第3話
それから2ヶ月。勘違いだ、誤解だ、と自分を説得するも無意味に終わり、私の心はすっかりノーマさんに奪われてしまっていた。振られたところを慰められて好きになっちゃった、なんて、我ながら単純すぎて恥ずかしい。それでも会いたい気持ちが抑えきれず、私は今日も今日とて彼女の姿を見るために金のうさぎ亭に入り浸っている。幸い、前々からご飯のために入り浸っていたので、誰にも「最近来るのが増えた」と茶々を入れられずに済んでいた。
「なーあー! エーレーンーってーばー!」
ノーマさんの軽やかな仕事ぶりを眺める至福の時間を先ほどから邪魔している声が、ついに肩を掴んで揺すり始めてくる。ちょっと力を入れれば僅かにも私の体は動かなくなるのだが、この少年はそうなると全身で揺さぶってくるので周りにも迷惑がかかってしまう。仕方なく、私は隣に座っている少年に目を向けた。
「何アルト?」
彼はアルト。母方のいとこの子供で、純血の人間だ。ローティーンらしい好奇心旺盛な性格で、回収屋として外に出ることの多いエレンに懐いている。アルトは少し黒みがかった赤い目を見開き非難がましい顔をした。
「何って、おれの話聞いてなかったの!?」
まだ声変わりしていない高い声がキンと耳を打つ。私はそちら側の耳を手で塞いだ。
「ご飯に夢中で聞いてなかった。もう一回言って」
夢中だったのはご飯じゃなくてノーマさんだけど。アルトは不満そうに頬を膨らませるが、ようやく私がちゃんと取り合う様子を見せたので椅子に座り直した。
「だからさ、最近夜になると海からお化けの歌が聞こえてくるんだって」
「お化け? 海に?」
荒れた墓地やダンジョン内には確かに時々ゴーストやアンデットが出てくる。だが、この町に面している海は非常に穏やかだし、人々の信仰も向けられているので、その手の存在が発生したことは今まで一度もないはずだ。
「聞き間違いじゃないの? 海に住んでる種族の声が聞こえてきたとか」
「でも人の言葉を使える種族はこの辺りには住んでないって学校で習ったよ。人間の言葉で『汚らわしい人間に罰を』とか歌ってるのが聞こえてきたんだよ」
「……アルトも自分で聞いたの?」
問えばアルトは力強く頷く。それに、本題とは別のことが気になった。
「夜って言ったよね? あんたん家、私の家より内地側なのに何で聞こえるの?」
それは……とアルトはごにょごにょと口ごもる。恐らく歌を聞いたのは事実。だとすると、だ。
「さては夜に抜け出したな? 友達と肝試しってとこ?」
「……ごめんなさい」
言い訳もせず、アルトは視線を下げながら素直に謝った。このやんちゃ小僧にしては珍しい。思いの外怖い思いでもしたのかもしれない。
私は椅子の背もたれに寄りかかって天井を仰ぎ見る。アルトの言う通り、この付近の海域に人間と同じ言葉を話す生き物はいない。鳴き声に念波を混ぜて会話してくる種はいるが、アルトたちが明確に「人間の言葉」と認識したのなら、それとは恐らく違うだろう。
海の生き物で人の言葉を話す、となると、やはり一番に思い至るのは人魚だ。だが彼らの国があるのは沖合の海底だと海商のおじさんに聞いたことがある。しかも人魚たちは、人間の王子に恋をしたかつての末姫が想いを遂げられず海の泡となってしまった歴史から、人間の国には近付かないようになったのだと。彼らとの貿易が始まったのもここ6年ほどの話だったはずだ。未だに決められた商船以外は相手にされないし、下手をすれば姿すら見せて貰えないらしい。
「なあエレン、そのお化けって、エレンなら退治出来る――?」
恐る恐る尋ねてくるアルトは、縋るように私の服の裾を掴んだ。アルトがこの行動を取る時は本当に心細く思っている時だが、お化けの歌を聞いた、というだけにしては怖がりすぎな気がする。
「本当のお化けなら私じゃどうしようもないよ。神父さんとかシスターとか、その辺りの聖職者の人に来てもらわないと。何で? 歌聞いただけなんでしょ? 他にも何かあったの?」
少し声音を優しくして問いかければ、アルトは視線をあちこちに彷徨わせてから、ぼそりと呟いた。
「……い……が……」
しかし小さすぎて耳の良い私でも聞き取れない。え? と訊き返すと、俯いていたアルトはばっと顔を上げる。
「だからっ、呪いがかかるんだってば! あの歌を聞くと!」
やけ気味に叫ばれ、私は咄嗟に耳を塞いだ。それでも十分届くキンキンした高音に顔が少し歪んでしまう。
「呪い?」
さらに訊き返せばアルトは神妙な顔で頷いた。
「おれと一緒に海に行った奴らがさ、順番に悪いことが起こってるんだ。風邪ひいたり橋から落ちたり犬に噛まれたりって。これって呪いだよな?」
な? と繰り返して納得と賛同を求められるが、私は思わず唸ってまた天井を仰ぎ見る。悪いことが確かに起こっているようだが、呪いというには弱いだろう。
考えていると、不意に視界を見たことがある日焼けした顔に埋められる。名前は知らないが、確か漁師のおじさんだ。私は体の向きを変えて見下ろしてきていたおじさんと向き合った。
「お話し中悪いね。今呪いの歌って聞こえてきた気がしたけど、もしかして最近夜中に海から聞こえてくるあれ?」
丸顔のおじさんの確認に、私より先にアルトが「そう!」と答える。身を乗り出すアルトの首根っこを掴んで椅子に座らせ直して、私は改めておじさんを見上げた。
「おじさんも聞いたことあるんですか?」
「あるよー。ちょうど昨日もね。漁が終わって港に入る少し前くらいかな。海から『復讐の女』の一節が聞こえてきたんだ。ああ、この歌知ってるかな? ほら、古典音楽のひとつで、悪い男に騙された娘のために母が復讐を誓い果たすまでのお話なんだよ。演劇にもされててね、こんな風に――」
おじさんは少し外れた調子の、でも下手でもない歌を歌い出す。ただ、タイトルの通り、昼間の賑やかな食事処にはそぐわない歌なので周囲からは「飯がまずくなる!」と怒号が飛んできた。そんなの慣れっこなのか、お構いなしにおじさんは一区切りするまで歌いきる。
「――っていう、母が娘を惑わす男を恨んで呪う姿が歌われてるんだ」
「エレン! エレンこの歌だよおれたちが聞いたの! おじさんやっぱりこれ呪いの歌なの?」
興奮気味のアルトが両手で私の服を掴んで揺すってきた。体より先に服が悲鳴を上げそうだったので、小さな体を掴んで膝の上に乗せる。流石に恥ずかしいのか暴れてくるが、それも両手で抱きしめて留めた。そんなやり取りを微笑ましく見ていたおじさんは、「いやいや」とアルトの問いを否定する。
「あくまでむかーしからある歌のひとつにすぎないよ。多分海に小舟でも出てたんじゃないかな。ほら、そろそろ大豊穣祭だから、出し物のひとつかもしれないよ。昨日その歌を聞いた時、海岸からは娘パートの歌も聞こえてきていたから」
恨みの歌を豊穣を祝い願う祭りに歌うだろうか。思いはしたがまたアルトが騒ぐと面倒なので口は閉ざしておく。
喋るだけ喋って満足したらしいおじさんを見送って、私はようやく大人しくなったアルトを離した。
「だって」
「うん……本当に呪いじゃない?」
まだ納得していないらしく、私の膝に座ったままのアルトが顔を見上げてくる。小さい頭を撫でてやり、「大丈夫だよ」と慰めた。それでもまだ不満そうだ。アルトは普段は元気印のくせに、一度不安に思うととことんまで不安になる。小さい頃の私とそっくり。将来私みたいにならないと――いや、男の子だし別になってもいいか。
「ねえエレン、やっぱり海の見回りしてきてよ。お化けじゃないならエレン勝てるでしょ?」
私が聞いていない内にそんな話をしたのか、それとも最初からそのつもりで来ていたのか、アルトは「やっぱり」と強調して納得できない思いを形にした。自分を慕ってくれる相手からの無限の信頼はくすぐったくもありありがたくもあるのだが、世の見知らぬ方々同様、我が従甥もまた私のことを誤解している気がする。
「あのねぇアルト。そういうのは私じゃなくてうちの弟に――」
「あらエレンちゃん海の見回り行くの? 気を付けるんだよ。最近海辺で水浸しで気を失ってる人が増えてるみたいだから」
近くを通りかかったおかみさんが見回りに行くのを前提に心配してきてくれた。行くとは言っていないのだが、おかみさんの言葉に引っかかってその訂正を忘れる。
「水浸しで気絶? 波をかぶった観光客が驚いて気絶したとかじゃなくて?」
「それが地元の人でもいるんだよ。今は来てないけど、うちのお客さんにもひとりいてね。なんでも、海辺を歩いてて急に視界が暗くなったと思ったら、次に気が付いたら病院のベッドだったんだって。その間のことは何にも覚えてないみたいなんだよ」
お祭り前だってのに不吉だねぇ、と言い残し、おかみさんはまた仕事に戻っていった。隣で黙ってるアルトはじぃっと私を見上げてきている。「ほらね、ほらね」と視線ばかりがやかましい。私はそれを片手で遮り、残っていたパンを口に放り込みジュースでそれを流し込んだ。
「とりあえず昼に一旦見に行ってみるよ。港の人たちの話も聞いてみて、おかしそうなら自警団に夜の見回りしてもらう。ほら、あんたは帰んな」
立ち上がりながら促せば、アルトは残っていたジュースを一気に飲み干しようやく明るい笑顔を見せる。お会計を済ませて表に出てから、アルトは家へ、私は海へと向かった。
この時私は知らなかった。おかみさんから例の話を聞いたノーマさんが、慌てて私のことを追いかけてきていた、ということを。
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