#7

 ヴィクトリアは俯き、俄かに動きを止めた。曲の始まりを待つ奏者、あるいは指揮者のように。彼女は身じろぎ一つせず、静寂を奏で始める。それはとても深く、悲し気な響きだった。

 僕は思いがけず、息を止めてしまう。アメツチもまた、光の矢をつがえたデルタストリングスを引き絞ったまま固まっている。

 攻撃するには絶好のチャンスだった。でも僕達は動かなかった。何故かはわからないけど、その静けさを守らなければいけないような気がしたんだ。

 僕は調律師だ。歪みを浄化し、虚構を元の姿に戻すのが僕の役目だ。

 だとすればこれは何だ……? 彼女は歪みなのか?

 エゴに振り回された挙句、深く傷つけられたただの子供じゃないか。

 それでも僕は彼女を、殺さなきゃいけないのか?

 整理出来ない感情を押し殺すように、その短い休符はとても長く響き――やがて、始まりの一音が彼女の口から静かに紡がれた。

 

〝……嘘つき。悪夢なんか見てないもん〟

 

 幕が上がるように、ヴィクトリアがゆっくりと顔を上げた。眉間に皺を刻み、歯を剥き出し、獣じみた面持ちで。

 そのまま彼女は鞭のような腕を高く振り上げた。あの杭打機のような一撃を再び繰り出すつもりだ。

 ――しかしアメツチの方が僅かに早かった。

 デルタストリングスの弦が奏でる短い和音。それが聞こえると同時に、ヴィクトリアの頭部、顔の鼻から上の部分が一瞬の内に消し飛んだ。アメツチの放った光の矢が射抜いたんだ。

 矢は光の放物線を描き、奥の壁に再び和音を響かせながら突き刺さった。壁を覆う毛細血管に浄化の波紋が広がる。

 アメツチは二射目、三射目と立て続けに矢を放った。美しい和音が鳴り響く度に、ヴィクトリアの身体に真円の風穴が穿たれ、肉の花が咲いていく。まず右腕が千切れ飛び、次に左わき腹がえぐり取られた。切断面からは骨や臓器と共に、毛細血管が蠢きながら飛び出した。

 

〝きゃああああああぁ!!〟

 

 異形と化した少女が血管のドレスを揺らし、苦痛のダンスを踊る。

「ご主人様ッ!!」

 アメツチの声を合図に、僕はスティンガーベルを後ろ手に構えながら、後退していくヴィクトリアに向かって駆け出した。

 

 遠距離特化型のデルタストリングスの弱点は、十秒間で三回までしか連射が出来ない事だ。どうしてそのような制限が設けられているのかはわからないけど、攻器にはいずれもそのような縛りがある。スティンガーベルも同様だ。共鳴レゾナンスも連続使用には三十秒のインターバルを要する。立て続けに放つ事は出来ない。

 

 床を這うように疾駆し、ヴィクトリアとの間合いを一気に詰める。接近してその大きさを実感した。下半身に繋がる毛細血管のスカートだけでも、僕より僅かに高い。

 

 ヴィクトリア。僕は……僕は君を殺す。

 

 迷いが消えたわけではない。ただ、他に彼女を救えそうな手段が存在しなかった。

 救う……? この僕が誰かを救うなんてそんな烏滸がましい事を……。

 違う、僕は救いたいんだ。自分自身を。この気持ちを。ここで悲しみをまき散らし続ける彼女を憐れむこの気持ちを。

 せめて、この場所を君が幸せだった時の姿に――僕はきっと、そうする事でしか自分の気持ちを救えない。

「ヴィクトリア……! 僕は君を殺すッ! 君の悲しみを終わらせるために、君を……君の悲しみを、僕が殺すッ!! エフェクト発動ォオオッ!! ――――」

 彼女の姿が間近に迫る。間合いに入る直前で踏み込み、背を向けるように上半身を捻りながら跳躍――――

 「――――ぉおおおおおお!!」

 彼女の目線と同じ高さに達すると、スティンガーベルを回転させながら逆手に持ち替え、刃をその胸目掛けて一気に叩きこんだ。

 

「――――共鳴レゾナンスッ!!」。

 

〝――――ッきゃああああああぁ……!!〟

 

 二つの刃は彼女の胸を貫いた瞬間、共振し浄化の音を奏でた。

 音の波が爆ぜる。陶器のような彼女の肌に、無数の亀裂が走った。刃を中心とした半径十メートルの毛細血管が一瞬で収縮し、灰と化していく。

 時を待たず、ヴィクトリアの身体はその亀裂から自壊し、砂像のように崩れ落ちた。

 あまりにも無残な最期だった。彼女にそんな罰を受ける程の罪があっただろうか……。

 膝を突いて着地すると、頭上からパラパラと彼女の残骸が降り注いできた。

 立ち上がり、深く息を吐く。

 救いなんて無い。結局はエゴなんだ……全て。

 踵を返し、スティンガーベルを握りしめたその時――――

「ご主人様ァアアッ!! 後ろだッ!!」

「――――ッ!?」

 アメツチの声に反応し、すかさず後ろを振り向く。いつの間にか背後で巨大な毛細血管の塊が形成されていた。

 まるで壁だ。そそり立つその塊から、槍のような形に束ねられた血管が、僕を貫こうとすさまじい勢いで迫っていた。

「くッ……!!」

 咄嗟に半身になり、それを寸での所で躱す。いや、正確には躱し切れなかった。左上腕をその槍の先端に切り裂かれてしまう。鮮血がシャツを赤く染める。でも幸い傷は深くない。

 床に突き刺さった槍に目を向けたその時、僕はハッと息を飲んだ。

「スティンガーベルッ!?」

 血管の槍はその先端が二股に別れていた。糸切バサミのようなその刃は、紛れもなく、スティンガーベルと同じ形状をしている。

「攻器の形を真似たのか……!」

 

〝うふふふ……惜しかったなぁ。もうちょっとだったのに……〟

 

 ヴィクトリアの声。その声がした方を見ると、毛細血管の壁に埋もれるようにして、彼女が笑みを浮かべていた。

 どうして……! さっき浄化したはずなのに。

 思わず固まってしまう。どういうわけか無傷のヴィクトリアがそこに居たんだ。

 

〝次は当てるもんねー!〟


 彼女は床から槍を引き抜くと、窓から身を乗り出すように、壁から上体を引き剥がした。

 ――その刹那だった。

 デルタストリングスの和音が鳴り響き、その顔に背後の毛細血管の壁ごと大きな風穴が開いた。

 アメツチだ。

 彼女が駆け寄ってきて、僕の傍で壁に向け再び弓を引き絞った。

「ご主人様一体どうなってやがるッ!?」

「……デコイだ。さっき共鳴レゾナンスで葬り去ったあれは、彼女の身体を模して作りだしたデコイに過ぎなかったんだ。もっと早く気付くべきだった。彼女の身体はこの虚構を覆い尽くしているあの毛細血管に繋がっている。恐らく、その全てが彼女の身体……僕達はその一部を攻撃したに過ぎなかったんだ」

「じゃあこの人型をいくら倒しても意味がねえってことかよ!?」

 アメツチが光の矢を放つ。頭部を失ったヴィクトリアの胸が射抜かれ、背後の毛細血管の壁にもう一つ丸い穴が穿たれた。直後、その壁が崩れ落ち、毛細血管の塊は液体のように扁平になった。小さく波打つ沼のようなそれは、距離を取りながら僕達を円形に取り囲み、小さな浮島を形成した。共鳴レゾナンスの範囲を避けているのだろう。

「……形骸だ。形骸化したホストを浄化してカオスの供給を断たない限り、彼女は滅びることは無い」

「肝心のそいつは一体どこに居んだよッ!」

「それを今考えてる所だよ!」

「なっ……キレんなよ!」

「余裕が無いんだ!」

 アナライザーを見る。侵襲率は18%。ブザーは消えている。5%刻みで鳴る仕組みだ。

 状況的にも余裕は無い。でもまだ戦える。

 アメツチと背中合わせになり、次の攻撃に備える。

 次の瞬間、僕達を取り囲んだ毛細血管の塊から、浅瀬に立ち上がるようにして再びヴィクトリアが姿を現した。

「なっ……!?」

 アメツチが短く声を上げた。

 その手には、あろうことかデルタストリングスと同じ形状の弓が握られていたんだ。

 毛細血管を束ねて作ったのだろう、よく見るとそれは彼女の手と一体化しており、生き生きと脈動していた。

 

〝きゃはははッ!! ねえおじさん達、お仕置きはまだ終わってないよぉ?〟

 

 ヴィクトリアが弓を引き絞る。と同時に、右手から細く束ねられた血管が一直線に伸び、そこに矢が形成された。

「くそッ……! デルタストリングスまで……!」

 しかし――

 その矢は放たれた直後、彼女の足元にポトリと落ちてしまった。アメツチと二人、思わず無言になる。

 

〝あれぇ……?〟

 

 ヴィクトリアが小首を傾げる。どうやら弓の仕組みを理解していなかったようだ。

「知能は五歳児……いや、六歳児ってことか」

 アメツチが引きつった笑みを浮かべる。

 

〝いいもん! こんなのポイだ!〟

 

 ヴィクトリアが弓を傍らに投げ捨てた。毛細血管の沼に落ちたそれは、溶け込むようにして沈んで行く。彼女は再びこちらに顔を向けると、両手を広げて不敵な笑みを浮かべた。

 

〝ヴィクトリアにはこれがあるからいいもん!〟

 

 彼女の両手から再び血管が伸びる。それはねじれながら細長く縦に伸びて行き、やがてスティンガーベルを模した二本の槍を創り出した。

 アメツチが身構える。

 僕達を囲む毛細血管の沼。そのどこからでもヴィクトリアは浮上し、攻撃を仕掛けることが出来る。状況はあまり良いとは言えなさそうだ。

 

〝きゃははは! お仕置きお仕置きぃいい!〟

 

 ヴィクトリアが二本の槍を滅茶苦茶に振り回し始めた。振り下ろし、薙ぎ払い、突く。予測不可能な猛攻。アメツチがそれを身軽に躱していくけど、表情に余裕はない。僕はスティンガーベルで受け流すのがやっとだ。

「ご主人様一旦ログアウトしねえか……? 形骸の居場所がわからねえ以上……」

「いや……僕達は既にカオスの侵襲を受けている。このまま現実世界に戻れば、身体に蓄積されたカオスを浄化できるまでログインが出来ない」

「くそッ……!! 今ここでやるしかねえって事か」

 攻撃を躱しながらアメツチが光の矢を放つ。ヴィクトリアの右腕が肩から抉り取られた。

 

〝きゃあああッ!! ママぁあああ!! 痛いよぉおおお……!!〟

 

 異形の少女が苦悶の表情を浮かべる。しかし即座に残った左腕で攻撃を繰り出した。

 スティンガーベルで振り下ろされた槍を受け流す。

 もうやめてくれ……。何故そこまでして君は戦おうとしてるんだ……。

 いくら異形とはいえ、六歳の少女だ。既に心が折れていてもおかしくないはず。

 次の瞬間、その疑問に答えるように、ヴィクトリアが涙交じりに呟いた。

 

〝パパが……パパが戻ってくるまで……ヴィクトリアが護らなきゃ……〟

 

 彼女は何を護ろうとしている……? この虚構か? それとも……。

 周囲を見回し、僕はある事に気が付いた。

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