幹部の責務
第60話 イルカに乗ってやってきた
私は沖縄で出産をしたあと、半年後に復帰した。要撃管制官になったばかりだったから、あまり長く休暇を取りたくなかった。千斗星は早すぎるのではないかと心配していたけれど、幸い娘の
「今日は定時でお迎えできるかなぁ」
星羽が一歳になる頃、私たちは沖縄からいっきに日本の中心部までやって来た。
――茨城県百里基地
「沖田三等空尉。休憩中にすみません。横田基地の管制から連絡が入っております」
「え、横田から?」
横田と聞くだけでドキリと心臓が跳ねる。それは沖縄で起きたスクランブルを思い出すからだ。千斗星がフランカーと燃料が尽きる寸前までやりあったあの事件が、今でもときどき夢に出てくる。
「たぶんですね、三尉の予測されていることとは正反対の案件かと」
「へ?」
私の力の抜けた声に、知らせに来てくれた隊員が苦笑いをしながら立っている。予測の正反対ってどういう事なのだろう。
とにかく私は目の前の受話機を取った。
「はい、管制の沖田天衣三等空尉です」
「こちら横田基地管制からです。お疲れ様です。本日、
「え、イル、イルカ……?」
「なんと言いますか、元ファイター殿がですね年間飛行時間が足りないとのこで参ります。是非、沖田三尉に誘導を頼みたいとおっしゃるので」
年間飛行時間と言う言葉を聞いて、どこかのお偉い方が来るのだと察した。しかも横田からであれば、本庁勤務かなにかで普段は忙しい人物。でもウイングマークをまだ返納したくない微妙な心情をお持ちの方。
(やだな、なんで私なんだろ。もしかして横田勤務を断ったことが影響したとか?)
沖縄での例の事件から暫くして、航空総隊司令部から私に声がかかった。あの時の誘導のほとんどは横田からの指示に従ったものだ。なぜならば基地レベルでの判断を超えた事態に陥っていたから。
(私はもっと現場を知りたい。千斗星たちファイターパイロットを近くで護りたい。それに、横田に行くほどのレベルには達していないから。だから、断ったんだけど)
「承知しました」
「ありがとうございます」
時計を見ると間もなく離陸する時間だった。横田からT-4で来るのなら、すぐに着陸となる。私はジャケットを羽織り急ぎ足で管制塔へ向かった。
しばらくして対象の航空機が管制圏内に入ったのを確認。私は誘導をするために通信を開始した。
「こちら百里エアーベース。CueBallワン、お疲れ様です。位置確認しました。現在、周辺は訓練中の偵察機が帰還途中ですが着陸に支障ありません。ランウェイ11から進入してください」
「ありがとう。ランウェイ11から進入、着陸します」
(……んん?)
これは単なる勘なんだけれど、なぜか胸の奥がザワザワするの。あの声、誰かに似ている。私は手元のリストをめくった。
(まって! リストに名前が書いてない。普通はお偉い方が来られるなら事前に知らせが……!)
「着陸します」
管制塔から目を凝らして空を見上げた。高度を下げながらギアを出したT-4が、着陸灯を点灯してアプローチを始めた。
「すみません。双眼鏡ください!」
私は双眼鏡をあて、機体のコックピットに注目した。マスクとヘルメットをしているから誰かなんて分からない。分からないけど、見ないわけにはいかなかった。
スーッと降りてきた機体はランディング寸前というのに、こちらに顔を向けて手を振った。なぜかその姿が千斗星と被る。
「うっ、嘘でしょーっ!」
「沖田三尉?」
どうしても、叫ばずにはいられなかった。
◇
普段控室のように使っている場所で、パイプ椅子ににこにこ笑顔のお偉い方が座っている。その隣に姿勢よく立つのは、いつも冷静沈着な副官の佐原一等空佐。
「おと……暁航空幕僚長。本日はどのような」
本来なら私のような下っ端三尉がお目通りできる相手ではない。なのになぜ私がいるのかというと、こちら何を隠そう千斗星のお父さんだからです。そして重要案件ではないから司令を差しおいて会うことができるのだ。
用もないのに職場で会うのもどうかとは思うけれど。
(普通の隊員は用もないのに会いたくないよね……これも、私の仕事かな)
困り果てそうになったところで、佐原さんがこほんと咳払いをして説明を開始した。
「空幕長は未だウイングマークの返還の意志が見られませんので、例のごとく年間飛行時間稼ぎで参った次第であります」
あくまでも表向きの理由としてだと思う。だって、横田から百里じゃ大した時間を稼げないもの。
「私もまだまだ乗れるな。まあさすがに、千斗星たちのようにスクランブルはできないけどね」
「私も、幕僚長を発進させたくはありません」
「ははっ。天衣ちゃんの命令とあらば、国のため喜んで発進するよ」
「空幕長もうそのへんで。では、本日の予定を申し上げます」
佐原さんが空幕長の代わりにこのあとの予定を淡々と話してくださった。まずはここの司令と面談し基地内の視察。一泊して、明日の午前中に特別訓練の打ち合わせをするらしい。そんな事を空幕長がするなんて普通はあり得ない事だ。普通は本庁の椅子に縛られている人なのに。
(あれ? ちゃんとお仕事するんだ!)
「私は官舎をお借りして泊まります。沖田三尉は空幕長をお願いいたします」
「はい。当然のことですからお任せください。星羽も喜びますし」
そう言うと暁幕僚長は目尻を下げて頬を緩め、単なる孫好きのじいじになってしまう。
「あの、それより千斗星さんはこのこと」
「あー、急なことでね。確かまだ言っていない。なぁ、佐原くん」
「え、ええ。そこは奥様の天衣さんが上手くお取り次ぎお願い致します」
(こんな時だけ奥様の天衣さんて、佐原さん……大変なの分かるけどさぁ)
ハンカチをポケットから出してこめかみの汗を拭う姿を見せられると、困りますなんて言えるわけなかった。これは急なことではなく、急を装ったお義父さんの奇襲作戦だ。
「了解しました」
私が了承すると、佐原さんはふぅと息を吐き目で助かりますと言った……気がした。
「さて、私の方は午後四時頃には終わるのだが、天衣ちゃんは五時半だろ? 星羽は私が迎えに行ってあげよう。いいかな」
(なるほど、本日の主な目的はこれね)
「はい、お義父さんが負担でなければ」
「負担なものか。子供は国の宝だから、みんなで育てるものだよ」
「はい」
前に佐原さんから聞いた話では、暁幕僚長は幕僚監部に入るため早くに現場から去り、米空軍の幹部学校でいくつかの課程を卒業した。そのせいで亡き妻、月子さんと千斗星を家に残して飛び回る日が続いたのだと。
父子の関係が拗れてしまったのは自分に非があるとずっと思っている。だから孫である星羽で償いたいという想いが強いのだろうと。
(お義父さん、子育てしたいんだろうなぁ……)
「では、一足先に官舎で待っているよ」
「分かりした。保育園には連絡しておきますね。おじいちゃんが行きますって」
「よろしく」
我らが航空幕僚長は嬉しそうにそう答えた。
そのお顔で基地内を歩かないでくださいね。みんながなにか起きるのかと驚いてしまうもの。
幕僚長の威厳も孫は簡単に無いものにしてしまう。それより千斗星はなんて言うだろう。お義父さんが飛んできたって知ったら。
(さて、千斗星を捕まえにいくかな)
◇
千斗星は本日はアラート任務についていない。
朝から訓練で飛んでいるのは間違いないけれど、広い基地内ではなかなかすれ違うことはない。今の訓練前の休憩を狙って行くしかないと思い、パイロットたちが控える棟に急いで向かった。
「すみません。管制の沖田ですが」
「あれ、珍しいね。アイツならすぐに戻るから入って待ったらいいよ」
「いえ、外で待ちます。ありがとうございます」
沖縄で一緒だった松田一尉も一緒に百里に異動してきていた。
最近、西南空域と海域の忙しない状況に部隊編成が行われた。以前、千斗星がいた築城基地もアラートはF-2のみとなり、F-15の飛行隊は全て沖縄へ移っていた。
「天衣、どうかしたのか」
「あっ千斗星。ちょっと、いい?」
できるだけ淡々と暁幕僚長が来たことと、今夜のことを簡潔に伝える。事後報告になるからできるだけ刺激を少なめにと、なんて事ないように話す。
なんでこんなに気を使っているのだろうと自分でもおかしくなるけれど。
「はあ⁉︎」
「と言うことだからっ! じゃ、また」
「おいっ。ったく、なんだよあのオッサン」
(自分の親をオッサンて。でも最近とても顔が似てきたと思う。言わないけどね。あんなにイケてるおじいちゃんは居ないからねっ。保育園のママさんたちから人気、あるんだからね!)
◇
私は定時で基地の門を出た。今頃は星羽とお義父さんは部屋で遊んでいるはずだ。一緒に基地を出た千斗星はむすっとしていて、私はどうなだめようかと考えていた。
「まったく職権乱用ってこのことだぞ。プライベートに一機飛ばしてさ、佐原さんだっていい迷惑だ。執事じゃないんだ。あの人にも家庭があるんだからさ、考えて欲しいよ」
「でもね。ちゃんとお仕事で来ているみたいだよ?」
「幕僚長がわざわざ来るお仕事ってなんだよ」
「うーんと......」
「ほら見ろ。天衣だって本当は思ってるんだろ? 職権乱用だって」
「そこまで思ってないよ。でも、助かるじゃない? 星羽のこと、とてもよくしてくれる。それに、こうやって千斗星と一緒に時間を気にせずに帰れるもん。いつもはこの道を走ってるんだからね。延長保育になっちゃうーって」
千斗星は「いつもごめん」と言って私の手を繋いでくれた。制服を着ていて手を繋いでくるのはとても珍しい。基地から官舎までが近いのもあるけれど、わりと固い人だと思っていたから驚いた。
「だったら遠回りして帰るか。オヤジもそのほうが星羽を独り占めできて喜ぶだろ」
「え、でも」
千斗星は制服のポケットからスマホを取り出して、少し遅くなるからと電話をしてしまった。そうはいっても夕飯までには帰らなくてはならない。遠回りといってももう目の前が官舎なのにと、私は首を傾げた。
「天衣、駐車場で休憩してから帰ろう」
「車に乗るの」
「それくらいしかできないだろ。なんせ制服を着たまんまだからな。隊員に見られるならまだしも、民間の方々にイチャイチャを見せるわけにはいかない」
「イチャイチャって!」
一番奥に停めてある我が家の車。私はなぜか後部座席に押し込まれた。本当にイチャイチャしてから帰るつもりなのだ。帰宅ラッシュの時間帯に何を考えているのよ。
「ちょ、千斗星ってば。なにをっ」
「うるさいな、車が揺れるだろ。揺れたら外から見たとき怪しいだろ」
「もうっ」
久しぶりに天衣を独り占めさせてと囁かれたので、もう抵抗はしなかった。千斗星は私に抱き着いて、瞳を閉じた。彼も基地では若手ではなくなってきている。沖縄ほどではないけれどアラート待機は神経を尖らせていなければならないし、お家ではお父さんにならなければならない。まだ小さい星羽は私から離れることはないから、こうやって抱きしめあう時間も以前に比べたら減った。
「天衣が足りないんだよ。このままどっか行くか」
「ばか」
そんな事を言っても、千斗星の方が星羽から離れられないことを知っている。
(目に入れても痛くないんだもんねっ。パパ)
―― ちゅっ
千斗星の唇が少し触れただけで体温が上がる。それが最近はとても恥ずかしい。お母さんになったのに、そんな気持ちになってしまうのがちょっとイケない気がしてしまうから。
「天衣。なに恥ずかしがってるんだよ」
「え、だって」
「だって。じゃないだろ。いいか、俺たちは夫婦なんだ。男と女。忘れるなよ、な?」
「うん」
いつだって私の気持ちは千斗星にお見通し。それがとても、心地いい。
「さて、じいさんから星羽を奪還するぞ」
「あー、ケンカしないでね。星羽の大好きなじいじだから」
「分かってるよ」
なんだかんだ言っても親子だ。千斗星も口には出さないけれどお義父さんのこと、尊敬しているし感謝もしている。今の私たちがあるのはお義父さんのお陰だもの。私が要撃管制官になれたのも、お義父さんの後ろ盾がなかったら叶わなかったこと。
家のドアを開けると楽しげな声が聞こえてきた。
「タカトしゃんがしゅきー」
名前を呼ばせるお義父さんが可愛らしい。暁
「何がタカトさんだよ。クソオヤジ」
(星羽が絡むと二人は絶対に引かないからなぁ)
この夜は星羽が二人の仲を繕ったことは言うまでもない。
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