3話 奇跡のその先は
救急車に運ばれた女は、途端に眼球が上転し、両手足がガクガクと痙攣し始めた。
救急救命士の動きの邪魔にならないように車内の隅で小さく震える男を、若い救急救命士は何度か横目でチラチラと見た。
一刻一刻と女の容態は悪化していき、やがて顔面蒼白となり始める。
救急救命士の動きは一層忙しなく、無力な男は、短い息を小刻みに吐き出すことしかできなくなっていた。
「お兄さん、ちょっとゆっくり息した方がいいよ。過呼吸になる」
若い救急救命士が、おそらく営業スマイルで男に話しかける。男は震えながら頷くのが精一杯だった。
「お兄さん、この方は恋人さん?」
男を落ち着かせようと気を利かせて話し掛けてくれているのだが、
「新堂!無駄口叩くな!集中しろ!」
運転していた壮年の救急救命士に一喝されて、新堂と呼ばれた救急救命士は男に向かい軽く頭を下げた。
しかし新堂の気遣いで少し落ち着きを取り戻しかけた男は、口を開きかけて止めて、それでも何度か呼吸を整え、遠慮がちにそっと問った。
「あの、この人は、助かりますよね?」
男の言葉に、新堂は一拍置いて「大丈夫ですよ」と明るめのトーンで答えた。
「そのために僕ら最善を尽くしますから。」
それは重々承知している。
だが、素人目に見ても、女の容態は好転しているようには見えなかった。
車内に響く、女の心拍を告げる不安定な機械音。
男は両掌を合わせて、今まで一度も信じたことのない神に、奇跡を祈った。
「新堂、あと10分で病院に着くぞ!準備しろ!」
「はい!」
やがて救急車は大きな病院の救急搬入口に到着した。
扉が開くと同時に、新堂と壮年の救急救命士がストレッチャーを運び出す。男もそれに追随するが、病院入り口で看護師に入室を断られた。
男の目の前で、重く冷たい灰色の扉が固く閉まる。
呆然と立ち尽くす男の横を、数名の看護師が駆け抜けていく。そこに漂う緊迫感と焦燥感。女の命が危機的状況にあるということは、さすがに男にも察せられた。
(彼女は、死ぬのか・・・?)
改めて言語化して脳に描くと、その事実が、男の心臓をきつく締め付けた。
彼女を、彼女を助けたい。
男の心はその一心に支配され、すると、脳裏に、聞いたことのない、子供らしき無邪気な声が響いてきた。
『彼女は心筋梗塞だよ。このままでは死んでしまうよ。あーあ、心臓があれば、助かるのにな。新鮮な、心臓があれば。。。』
それはおそらく悪魔の囁き。
だが男には神の啓示にでも聞こえたのかもしれない。
「新鮮な、心臓、」
刹那、男は踵を返すと病院の敷地内から飛び出し、近くのコンビニへと飛び込んだ。
震える手で掴んだのは、120円ほどのカッターナイフ。
全財産をレジに出し、お釣りをもらうこともなく再び病院へ向かい駆け出した。
・・・
「内田さん、ちょっと出発待って!」
基地に戻りかけた救急車の中で新堂は声を上げた。慌てて助手席から飛び降りる。
「お、おい、新堂!」
内田と呼ばれた壮年の救急救命士の制止を聞かず、新堂が走り出した先には、先ほど救急搬送した女性に付き添っていた、あの薄汚れた男の姿があった。
「おい、やめろ!!」
新堂が声の限り叫んだ。
すると男が虚ろな目で、ゆっくりと新堂を見た。
「・・・彼女を、助けてください。俺の、俺の心臓を彼女に、どうか、」
「バカ!止めろ!そんなことしても彼女は助からねえぞ!」
「どうか、・・・お願いします」
新堂の伸ばした手が空を切る。
「・・・!!」
男は安物のカッターナイフで自分の頸動脈を一気にかき切ったのだ。
「・・・そんな、」
壊れた噴水のように鮮血が勢いよく吹き出して、男は糸が切れたように崩れ落ちていく。
「・・・おい、嘘だろ、」
新堂と、一瞬合った男の目は、多幸感に包まれ、恐ろしく満足そうだった。
だがそれは、同時に新堂の心を無慈悲なまでに醜くえぐっていった。
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