十四 死と喪失と再生と

 玄関まで歩いて行った門大だったが、何かを忘れている気がして、足を止める。振り返り、部屋の中を見回すと、家の鍵と自転車の鍵を、持っていない事に気が付いた。鍵などをいつも置いている場所は、本棚の本を置いていない、空いている棚の一角で、門大は本棚の方に目を向けるとそこまで歩いて行く。鍵を手に取り、玄関の方に戻ろうとした門大の視界の端に、鍵などと同じように本棚の空いている棚の所に置いてある、父親と母親が写っている、写真が入っている写真立てが入った。門大は、写真の方に目を向けた。




「これって、親不孝なのかな」




 これからやろうとしてる事は、一度死んでるとはいえ、自殺だ。門大はそう思うと、写真立ての中に入っている両親の写真をじっと見つめた。だが、すぐに門大は、親不孝とか、今更か。と呟いた。家の中には仏壇などはなく、両親を偲ぶ物は、この写真以外には、写真立ての横に置いてある位牌しかない。仏事なども、両親が死んだ時に、お通夜と、告別式をやってから、お墓を建て、納骨をしたその後は、お墓参り以外は何もしてはいなかった。門大は写真立ての上部をそっと優しく一度撫でると、玄関に向かって歩き出す。




 そういえば、あの世になんて行かなかったな。死んだら、父さんと母さんに会えるってずっと思ってたけど、実際は、会えないんだな。そんな事を思っている間に、門大は玄関に到着した。腰を折って膝を曲げ、靴を履こうとしていると、頭の中に父親と母親が死んだ日の記憶が、鮮明な映像とともに浮かび上がって来た。




「なんだよ。なんで、今、こんな事思い出すんだよ」




 突然の死だった。交通事故だった。連絡は警察から、大学の講義に出ている時に、スマートフォンにかかって来た。電話をしてくれた警官の「石元さんの御家族ですか?」という言葉は今も耳から離れてはくれない。なんの変哲もない一日になるはずだった。朝、普通にいつもの日常を、家族三人で過ごしたはずだった。それが、唐突に終わりを告げ、あっけなく、二人しかいなかった家族は死んでしまった。




 本で読んで知ったのか、映画で見て知ったのか、それとも、また別の何かで知ったのかは、覚えてはいない。心の中にぽっかりと穴が開いたような感じがするという感覚みたいな物は、本当にある物なんだ。と門大は思った。門大の心の中には、文字通り、大きな穴がその時以来ぽっかりと開いてしまっていた。ずっと、両親がいて、一緒に年を取って行って。そんなふうに、自分の人生は続いて行くと、漠然と、なんの根拠なく門大はそう思っていた。だが、そんな物は、幻想であった。現実は残酷なもので、そんな門大の幻想は、一瞬にして消えてしまっていた。




「もう、いいおっさんだぞ俺。両親を思って泣くとか、何やってんだ」




 門大は、目から流れ出した涙を手で拭いながら、その場に座り込む。父親と母親が生きていた頃の、様々な思い出が門大の頭の中に去来する。




 今も耳に残っている、夜、電気を消した部屋の中が怖くて眠れない自分の為に、母親が歌ってくれた子守唄。父親とともに部屋の中を飾り付け、母親とともに料理を作ったお誕生日会。母親の作ってくれたお雑煮に父親とともに文句を言い、母親が怒り出して、父親と二人して、次の日のお雑煮を作らされる事になったお正月。家族三人で釣り堀に行きニジマスをたくさん釣った家族旅行。中学校の帰りに買い物途中の母親と会い、当時は家族と一緒にいるのを周囲の人に見られるのが恥ずかしかったけれど、重そうだった荷物を母親の手から取り上げるようにして持ち、わざと離れて歩き出した自分に、嬉しそうに笑いながら、ありがとうと言った母親の顔。




 思い出の中の父親と母親は、笑ったり、喜んだり、時には、怒ったり、泣いたりしていて、それらの思い出は、そのどれもが懐かしく、温かく、優しかった。だが、何かが変だった。何かがおかしかった。門大は、ふっと、何が変なのか、何がおかしいのか、その理由に気が付いた。




「父さんも母さんも、どんな声してたんだっけ? 父さん。母さん。二人の声が、思い出せない」




 いつもそこにあるのが当たり前過ぎて、意識なんてしていなかった何か。失って初めて、その大切さに気付く何か。そんな何かを自分は、失ってしまっていて、その何かは、もう二度と、返っては来ない。そんな思いが、門大の胸を締め付け、門大は唇を噛み締める。大切な人達を失った痛みを久し振りに、痛烈に、思い出した門大は、急に何もかもが嫌になってしまい、何もやる気がしなくなって、ここから動きたくない、このまま何もしたくないという思いに駆られた。




「こんなふうになったのは、いつ以来だろう」




 そのまま、座ったまま、泣き続ける。




 あの日から、ずっとあった喪失感みたいな物は、この頃は、感じてなかったのに。ん? どうして、今、俺はそんなふうに思った? あの喪失感みたいな物をどうして感じてなかったんだ? 




「そうか。クラちゃん。あの子だ。あの子は、いつの間にか、俺の心に開いてた穴を、埋めてくれてたんだ」




 流れ続ける涙をそのままに、門大は、ゆっくりと立ち上がる。




「父さん。母さん。育ててくれて、ありがとう」




 部屋から出てドアの鍵を閉め、ドアのすぐ横に置いてあった自転車の前に立った門大は、涙を拭くと一度深呼吸する。自転車の後輪に近付き、装備されている鍵を開け、自転車に跨り、門大はペダルを漕ぎ始める。




 所々にある街灯に照らされている、懐かしささえ感じさせるようになっていた、家の周囲の景色は、門大が両親とともに住んでいた家を出て、一人で生きて行くようになってから、見るようになっていた景色だった。そんな、父親と母親がいなくなった後に、新しく出会った景色を見ているうちに、門大の心は、覚悟は固めて行き、時折、思い出したように目から流れ出していた涙は、いつの間にか、流れ出す事はなくなっていた。




「確か、この辺だよな」




 自転車を止め、周囲を見ながら門大は呟く。どこにでもあるような、家々の塀に囲まれている、住宅街の中の路地の一角。路面を覆っているアスファルトと、塀との間にある側溝のコンクリート製の蓋のいくつかが、割れたり、なくなったりしていて、長方形の黒い穴が何箇所か開いていた。




「猫はあの辺から飛び出して来たのか?」




 三毛猫だったよな? そう思ってから、自転車を走らせ、猫が飛び出して来たであろう、門大のいる路地と直角に交わる、別の路地の入り口の所まで行き、門大は自転車を止めた。顔を動かし、その路地の先を見ると、門大のいる所から、数メートル先の路地の端の側溝の蓋の上に、一匹の三毛猫が香箱座りをしているのが見える。




「いた。あの猫だろ」




 街灯の光の輪の中にいた三毛猫が、眠たそうに細めていた目を少しばかり開くと、門大の方に顔を向けた。門大は、逃げられたりしたらまずい。と思い、慌てて自転車を走らせ、猫のいた路地から離れる。




「どうしよう。ここで戻って、やってみるか? それとも、一度、牛丼屋に行ってみた方がいいのか?」




 自転車を止め、しばしの間考える。路地の先にある国道から、車両の行き交う音が聞こえて来る。もうすぐに国道か。確か、あの時行った牛丼屋って、国道に出てからそんなに遠くはなかったよな。そう思った門大は、自転車を走らせ始めた。路地を抜け、国道沿いの歩道に出る。国道を隔てて両脇にある歩道の更に脇には、ファミリーレストランや、ホームセンターなどが並んでいて、片側二車線の道路には、様々な車両のテールランプが流れていた。小さい子を連れた、家族連れを追い抜くと、子供がはしゃぐ声が聞こえて来る。




「こんな感じだったんだな。俺のいた世界って」




 こういうのって、きっと、この世界独特の雰囲気なんだろうな。クラちゃんがいたら、なんて言うんだろう。……。クラちゃんか。ちゃんと戻ってやらないとな。門大は、そう思うと、牛丼屋を探す為に顔を巡らせる。




「あった。あそこだ」




 十数メートル先にあった牛丼屋を見付けて声を上げた門大は、店の前まで行くと、自転車を止め、店内にある時計に目を向けた。店内にあったアナログ時計は、十七時五十八分を指している。




「ここまで家からだいたい十分くらい。家で、もたもたしてた時間が、二十分くらいか? 牛丼屋が混んでて、あれが、二十分くらいだったか」




 そう呟き、アナログ時計から目を放す。




「ちょうどいいくらいか」




 門大の声に、牛丼屋の中から出て来た一人の客が反応し、怪訝な目を向けて来た。門大は、すいません。と小さな声で言うと、自転車の向きを変え、自転車を走らせ始める。国道沿いの歩道から路地に入り、住宅街の中に戻って来る。街灯に照らされている路地には、人の姿はなく、遠ざかって行く国道からの音だけが、響いていた。猫が飛び出して来たであろう、三毛猫がいた路地が見えて来ると、緊張が門大の鼓動を早め、体が小刻みに震え出す。




「やっぱり怖いな」




 門大は言い、ペダルとハンドルに力を込めて立ち上がると、立ち漕ぎを始め、自転車を加速させた。ぐんぐんと速度上げて行く自転車が、三毛猫がいた路地に差し掛かる。門大は猫がいつ来てもいいようにと身構えた。




「来た」




 三毛猫が路地から飛び出して来たのを見た門大は、咄嗟に声を漏らす。ブレーキを握りそうになった指の動きを必死に指に力を込める事で止め、目を閉じながら、猫を避ける為にハンドルを切る。ほんの一瞬の後、門大は、自転車の前輪が、蓋がなくなっている側溝の穴に落ちたであろう衝撃を、体全体で感じた。




【駄目ですわ】




 聞き覚えのある声が聞こえたと思うと、勝手に目が開き、体が動く。自転車の倒れる音が聞こえる中、門大の体は、前方宙返りをし、片足で塀を蹴って、自転車から飛ばされた勢いを殺し、地面の上に片膝を突く格好で着地した。




 自分の身に何が起こったのかが理解できず、門大は、片膝を突いた格好のまま、ただ呆然とする。




【何をしているのですの?】




 その声は、自分の中から聞こえて来ていた。




【黙っていないで、何か言ったらどうですの?】




 声の主はとても怒っていた。




【門大。わたくしは怒っていましてよ】




「どうして?」




 門大は、混乱しつつ、なんとかそれだけを言葉にする。




【どうして? どうしてって、そんなふうに聞かれても、どうしてだけでは、意味が分かりませんわ。わたくしはずっと、門大の中にいて、声をかけていましたのよ】




「クラちゃん、だよな? どうして、ここにいるんだ?」




 何がどうなってるんだ? と思いながら門大は言った。




「おい。兄ちゃん。大丈夫かい? なんか、凄い音がして出て来たけど、自転車で転んだのかい?」




「え? あ、ああ。すいません。大丈夫です。全然平気なんで、すぐに行きますんで」




 近隣に住む住人であろう、五十代くらいの男が声をかけて来たので、門大は慌ててそう答えると、立ち上がって、自転車を取りに行く。




「大丈夫かよ? 一人できるかい?」




「はい。ありがとうございます」




 男の言葉に、頭を下げながら返事をし、自転車の前輪を側溝から出すと、門大は自転車を引きながら歩き出した。

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