怪物学会視察 Ⅺ


 ──アルバートの自室


 薄く水が張られた鏡から上がってきたアルバートは、汚れた白衣を脱ぎ捨てて、新しい白衣を羽織った。


 着替える為だけに戻ったアルバートは、またすぐに薄く水が張られた鏡に飛び込んだ。


 飛び込んだ先は赤い色で染まっていた。


 参ったな。


 アルバートは息を止めて、訪れるだろう不快感に備えた。


「うわぁあああああ! びっくりしたぁああ!?」


 騒がしい声が聞こえてきた。


 ティナだ。

 彼女は床の血溜まりから、飛び出すように出てきたアルバートに、仰天して転んでいた。


「やはり血溜まりか。ゲートの座標がズレたんだな」


 せっかく着替えたのに血塗れになってしまったアルバートは、疲れたため息をついた。


 ティナは目を白黒させながら、水槽を背にして勇ましく声をあげる。


「こ、こっちに来ないでください! ティナはアルバート様より今日この部屋の掃除を頼まれています! わ、私が担当するからには誰にも人魚ちゃんたちは傷つけさせませんっ!」


 涙ぐむティナは胸を張って言う。

 背後の巨大水槽では、美しい人魚の娘たちが心配そうな顔でティナを見ていた。


「俺だ。アルバートだ」

「あっ! アルバート様?! 本当にアルバート様ですか!!?」


 突如現れた血塗れ人間がアルバートだとわかるなり「アルバートさまぉああ!」と、ティナは泣きながら彼の胸に飛び込んだ。


「ぅぅ、汚い……」

「自分から泣きついておいてなんだお前は」

「そ、そそ、それより、大変なんですよ! さっきから鎧を着た人たちが走り回ってるんですっ!!!」

「把握してる。それより、お前は何してる。掃除はとっくに終わってるだろう。職員たちは全員引き上げさせたはずだぞ」

「それでそこの青い人が守ってくれて!! うぅ、アルバート様、何が起こってるんですかぁああ!」

「話を聞け」


 泣きわめくティナに弱り果てるアルバートは、部屋を守っていたダ・マンと、彼が殺害したであろう血の騎士の遺体を見る。


 ダ・マンたちの基本的な役割は怪物学会の主要施設を守る『盾』だ。


 彼らはジャヴォーダン城全体の被害状況を常に共有していて、この城に属するあらゆる生命と財産を効率的に守護することに向いている。


 まさしく生きる防御壁なのだ。


「人魚ちゃんたちは逃げられないですから、誰かが水槽を移動させないと思って戻ったんです! そしたら、騎士たちが!」

「わかったわかった。だから落ち着け。全て予定通りだ、問題ない。むしろお前がここにいる事のほうが俺は心配だ」

「アルバート様、恐いですよ! なにが、なにが起こってるのか全然わかんないです……!」

「魔術協会の不誠実な奇襲だ。いいか、ティナ、人魚たちのこと気にせずお前は逃げろ」

「あ、アルバート様は?」

「俺は学会長だ。この城を奴らの手から守らなければならない」


 アルバートはティナのお尻を持って、ひょいっと持ち上げる。突然の主人が欲情したのかと思い、ティナは頬を染める。


 だが、ロマンティックな事にはならず、ティナはポイっと水槽に投げ入れられてしまう。


 いきなりイジメに晒されて、ティナは巨大水槽の中でもがき苦しむ。


「あばばばっ?! アルバート様ぁああ?!」

「そいつを頼む」


 人魚たちはニコニコして、溺れるティナに優しく寄り添う。彼女たちはいつも優しく丁寧にお世話してくれるティナの事が好きなのだ。


 人魚の一人がティナを後ろから抱きしめた。

 すると、水を媒介した転移魔術が成立し、人魚とティナは、虚空に飲み込まれるように一瞬で姿を消してしまった。


 とはいえ人魚たち皆が消えたわけではない。


 まだ10匹ほど残っている。


「お前たちにミッションを与える。現在、ジャヴォーダン城は血の騎士たちの攻撃を受けている。敵は残虐で、目に入ったモンスターを皆殺しにしながら中央区を目指して侵攻中だ」


 人魚たちは神妙な面持ちでうなづく。


「逃がす必要はないと思っていたが……念のため第一城壁内のモンスターたちをすべてアルバート湖周辺に逃しておいて欲しい。少し遠いが、ギリギリ転移で飛べる距離だろう。最悪、地底湖に逃してくれていい」


 アルバートは手を叩き合わせ、怪書の複製本を一気に10冊召喚した。


 それを人魚たちの水槽へ投げいれる。


 人魚たちはミッションを理解して、一人ずつ怪書を手に取る。

 各々が意識を集中させ、スーパーナチュラルとの繋がりを辿って、ジャヴォーダン城中へと空間転移で散らばって行った。


 彼女らは大規模なモンスター操作の際のため、特別に訓練されている指揮官たちだ。

 

 いわゆる中間管理というやつである。


 怪物学会が所有するモンスターの総数は100万を上回るので、そのすべてに対して同時に命令を行うのは、アルバートをして不可能だった。


 その不可能を可能にするのが、分業である。


 人魚たちは知能が高く、また海の神秘であるスーパーナチュラルとの親和性が高い。その空間転移能力はさかな博士やアルバートを凌ぐ。


 そのため、遠距離から、膨大な量のモンスターに一気に指令を出す時には、彼女たちのような、中継的存在が非常に有用なのである。


「不要な被害が減らせるといいが」


 アルバートは自分の内側に意識を向ける。


 ジャヴォーダン城のモンスターたちが、少しずつ被害の出ている区画から姿を消している。


 代わりにアルバート湖近くでは、繋がりの数が増加しつつあった。


 避難はうまくいってるようだ。


 『審判者』によって突破された西の第一城壁では、特にファングやレッドファング、そのほかの2,000頭近い数のモンスターが殺されている。


 当初の予定では、最終的に1,000頭前後は、あえて殺させるつもりだったので、途中経過でこの数はいささか被害が大きかった。


 特に被害を出す気のなかった荘園の奥で、非戦闘モンスターが死んだことは、アルバートにとってもショックだった。


 彼らはもう戦わなくてよかったのだ。


「第四騎士団と第三騎士団は指揮官を失って撤退を開始したな。暗殺部隊はうまくやったようだ」


 アルバートは戦場を天空から見守るドラゴン、山から城を監視するタイタン、また直接地上を駆け回っているニャオや、影害獣たちの視界を借りて、戦況を事細かに把握していく。


「第五、第六はダ・マンによりほぼ壊滅……おい、やめろ、勝手な事はするな、さかな博士。生き残りはわざと残してるんだ。ダ・マンの戦力情報を持って帰らせろ」


 思考に割り込んできた、さかな博士の興奮した声に返事をかえす。


「まったく、イカれたジジイめ」


 悪態を吐きながら、戦場を把握し終え、アルバートはようやく深い思考から戻ってきた。


 計画はおおむね順調だ。


 もし懸念があるとすれば、戦場に姿を表さない第一鬼席と第二鬼席、第六鬼席の存在だ。


「む」


 アルバートは床の血へ意識を向ける。

 血が蠢き、ちいさなコウモリになって、羽ばたいていた。


 高度な血の魔術で作られた眷属だ。


 アルバートが指を立てると、コウモリはそこに止まった。

 

 コウモリは喉奥から手紙を吐き出す。

 手紙は第二鬼席からのものだった。


 内容は……


「『第二と第六は戦いを降りる』」

 

 どうやら逃げたらしい。

 それもほかの騎士団を置いての逃走だ。

 

「ん、またコウモリが……」


 こちらは第一鬼席からだった。


「『学会長殿の首は高すぎるようだ。私の剣は届きそうにない。貴会の怪人を一人斬ってしまったが、こちらの騎士団も被害を受けたうえ手打ちにして欲しい。第一騎士団は撤退する』」


 コウモリは顎が外れるほど大きく口を開き、喉奥から青く太い腕を、ヴェッと吐き出した。


 もしかしなくても、ダ・マンの腕である。

 切断面は鮮やかである。


「盾の腕を落とすか。噂に聞く伝説は本当らしい」


 ただ、幸運なことに顔を見ずに済んだ。

 敵として死ぬまで粘られたら、あるいは危険な状況になっていたかもしれないが……彼にそこまでのリスクを掛けさせるほど、首魁にはカリスマ性がなかったらしい。


 誰よりも強いくせに、誰よりも慎重というわけだ。

 

 アルバートはジャヴォーダン城の城壁外で、ダ・マンが一体重症を追っているのを確認して、すぐさま近くの池を使って帰還するように命令を出す。


「さて、フレデリック、お前の味方たちはこんな具合だが、今どんな気分なんだ?」


 アルバートは怪書を開いて、閉じ込めていたフレデリックを速攻召喚で呼び出した。


 その瞳は愉悦に濡れている。

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