第6話 埋め合わせ 後編
「……それで、夕食ってどこにいくんですか?」
セイさんの淹れてくれた珈琲を楽しんだ後、しばらくしてやってきた彼と手を繋いで歩きはじめた私は、頭二つ分背の高い彼を見上げながら尋ねる。
セイさんはこちらを見下ろし、繋いだ手と逆の人差し指を立てふっくらとした唇に当て微笑んだ。
「……秘密」
陽は完全に落ち、昼は薄暗いビル街はその表情を一変させていた。
一定の間隔に立てられた街灯からはオレンジ色の光が降り注ぎ、そろそろ終業する店の看板はすでに明かりを落としている。
そしてその代わりに飲食店のものであろう、暖色系の
そんな温かい色の光に照らされた、セイさんの今日の格好はネイビーのシャツチェスターコートに白のオックスフォードシャツ、それに同じ色味のテーパードパンツと黒い革靴だった。
キメキメの彼と手を繋ぐ一方の私はというと、良心的な価格のチェーン店で買った、灰色のカーディガンに、これまた同じ店で買った白のブラウス、それに黒のストレートパンツに履き古したパンプス。
……まるで芸能人とそのマネージャー、もしくは王子様と召使い。
そんな風に見えるだろう私たちが手を繋いで歩くのに、すれ違う人たちはチラチラと好奇の眼差しを送ってくる。
私はそれが恥ずかしくて、隣を歩くセイさんに訴える。
「あの……セイさん、今日は追いかけられているわけじゃないですし……手を、離してもらっても…!?」
セイさんは歩きながら私を見下ろした。
「どうして?」
「いや、どうしてって……そのう、私たちは……」
彼の言葉に答えようとして、私はそのまま黙り込んだ。
私たちは……”何”だろう。
顔見知り?知り合い?そう言うには親密すぎる気がするし、友達……では絶対ない。セイさんみたいな腹黒二重人格の男友達なんて絶対に欲しくない。
でも、私たちは手を繋いで歩くような……家族でも、恋人でもない。
私たちの関係にとっさに名前をつけられなくて、私は視線を揺らした。
セイさんはそんな私に肩を竦め、その整った顔に皮肉げな笑いを浮かべる。
「全然知らない人に、どう思われるかなんてそんなに大事なこと?……きみは何が怖いの?僕はきみと手を繋ぎたい。これからも一緒にいる僕の気持ちとこれから一生会わないかもしれない奴らの視線と、どっちが大事?」
前を向いて歩きながら、セイさんは私の掌をぎゅっと握りしめる。
「…………」
私はその言葉に何も答えられず、黙り込んだ。
でも彼の言葉に傷ついたとか、嫌な気持ちになったわけではなかった。
彼は……セイさんは、私と”手を繋ぎたい”んだ。
なんだかそのことがひどく
セイさんはちらっと私を見下ろして、口元の
*****
セイさんに連れられて到着したのは、腰の高さほどの竹垣でぐるりと敷地を覆われた、二階建ての大きな日本家屋だった。
まるで料亭のような佇まいの外観を見て、私は言葉を無くす。
……どうしよう、めちゃくちゃお高そう!!
ぐるりとその建物に沿って歩いたセイさんと私は、ほどなく行灯のような形の白いライトが灯った入り口に到着した。
そこに書かれている店名は『蒲焼 白川』。
……どうやら鰻屋さんのようだ。
「こ……ここですか?」
恐る恐るそう尋ねるとセイさんは小さく「ああ」と答えて、竹垣の途切れた入り口から2メートルほど奥にある店の玄関に向かって歩き出す。
背の高い彼の肩越しに見えるのは、長年風雨にさらされてきたことが想像できるような、白っぽくなった木製の格子扉と紫色の暖簾。
扉の隣には私の身長くらいありそうな、大きく立派な
こんな店に入ったことのない私は思わず躊躇して足を止めそうになる。
しかしセイさんはそんな私の手を離すことなくその暖簾をくぐり、からりと格子戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
店に入るのと同時に声をかけられる。
その声のする方へと視線を向けると、扉近くに立っていたらしい中居さんのような格好の女性が、私たちに向かって丁寧に頭を下げていた。
セイさんは女性に向かってにこやかに笑いかける。
「……こんばんは。この時間に二名で予約しておいた
「
そう言いながら女性は笑顔を浮かべ、石張りの玄関土間と玄関ホールの間に設けられた式台の上に並べられているスリッパを揃えた掌で指し示した。
私たちはそこで靴を脱いでスリッパに履き替える。
立ち上がり、店の中へと視線を巡らせる。
正方形の縁なし畳が敷かれている部屋もあるようだが、目に付く机は全て背の低いテーブルと椅子に統一されている。
建物の外観は純和風だったが、中は何度かリフォームされているのかもしれない。
柱や階段の手すりなどは年月を感じさせる光沢を放っているものの、傷みやすいだろう廊下や壁紙などは新しく綺麗だった。
「どうぞ、お席はこちらです」
女性は私たちの準備が整ったのを確認して、その掌で奥を指し示しながらしずしずと先導を始めた。
店の雰囲気に呑まれた私は、きょろきょろ周りを見回しながらセイさんに連れられて歩く。
よ、予約なんていつの間に?!
それにいつもご来店…って、まさかセイさんっていいとこのお坊ちゃん……?
前回、セイさんは確か「僕の奢りで」と言っていたような気がするが、意地悪な彼のことだ。突然ヤツの気が変わったりした時、ここの支払いができるだろうか、と私は心配になって今財布にいくら入っていたか、考え出した。
……こんな高級そうな鰻屋さんに連れて来られるなんて完全に想定外だった!
正直彼の言っていた「埋め合わせ」は、せいぜいその辺の飲み屋とか、定食屋とか、ちゃんとした店でもイタリアンくらいかな、と思っていたのだ。
変な冷や汗をかいている間に、どうやら目的の場所に到着したようだ。
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたのは階段を上がった二階の一番奥にある個室のテーブル席だった。
その部屋に畳はなく、落ち着いたベージュ色の絨毯が敷き詰められている。女性に椅子を引いてもらい、私はそわそわしながら席についた。
同じように椅子を引いてもらい席についたセイさんは、メニューを手に取ることもなく、女性に向かって「いつものを二つ」と短く注文する。
女性は落ち着いた声で「承知いたしました。只今お茶をお持ちいたします」と微笑んで頭を下げ「ごゆっくりお過ごしください」と声をかけて下がっていく。
彼女の姿が見えなくなって、私はテーブルに身を乗り出した。
「ちょ……ココ、いくらするんですか?!私はいくら払えば?!」
混乱しながらそう尋ねると、セイさんは机に頬杖をついて私をじろりと睨む。
「……杏子ちゃんがどうしても払いたい、って言うならそうしてもらうけど。でも、言ったでしょう?これはあの日の”お礼”だって。僕がここにきみと来たかったんだし、きみはそんなこと気にせず食事を楽しんで」
……そうだよね、昨日のお休みはほとんどあの一件のせいでセイさんと過ごすことになったんだし……これはその「埋め合わせ」なんだから、とりあえず出されるお料理を楽しむことに集中しよう。
「うう……それなら……ご馳走になります」
顔を俯かせながら身を引いて上目遣いにそう言うと、セイさんはその瞳を柔らかく細めた。
「そんなことよりほら、今日は月が綺麗だよ」
セイさんはそう言って、テーブルの隣にある格子窓から見える月を指し示した。
閑静な住宅街の中にあるこの店の周りには明かりが少なく、墨を溶かしたような空に浮かぶ月は真っ二つに割れた上弦の月だった。
連れられてやってきた鰻屋の二階。その格子窓の隙間から見る上弦の月。
この光景を見たことはないはずなのに、なぜか既視感を覚えて首を捻ったその時、セイさんはそっと呟いた。
「『ご覧。あれはこれから見る間に肥え太り、あの光をすべて奪われやがて痩せ細って。最期は闇の中へ消えていく。まるで紡ぐ言葉を側から使い捨てられる我々のようじゃアないか』」
私はその言葉にぶるっと身体を震わせた。
「それ……まさか『ひゞき 隆聖』先生の……い、『井戸の中』?!もしかして……ここ!」
セイさんは私の言葉に答えず、ニッと唇の端を持ち上げる。
『井戸の中』の主人公は売れない作家で、その名前は作中で明かされていない。
しかし、そこに出てくる登場人物たちは作者である『ひゞき 隆聖』の周囲の人々にそっくりで、ファンの間では「あれは自伝的小説に違いない」と言われていた。
『ひゞき 隆聖』はその生涯を終えた後に見出された作家だ。
だからそのファンである私たちはその答えを、彼自身に問うことはできない。
皮肉なことに、それが彼の文学の価値をさらに押し上げていた。
セイさんが呟いた先ほどの言葉は、『僕』こと『井戸の中』の主人公が思い悩んでいるその時、友人でもある人気作家の『露木』が彼を元気づけるために鰻をご馳走する、という場面で月を眺めながら『露木』が放った台詞だった。
『僕』は出す作品がことごとく持て囃される『露木』に激しく嫉妬していた。
しかしそんな『露木』の放った言葉で、彼も自分とは違う壁にぶつかっているのだ、と理解し彼らはそこで親友になるのだ。
感動的なそのシーンを思い返していると、セイさんは椅子に深く座り、腹の前で両掌を組み合わせて懐かしそうな瞳でこう言った。
「あんまり知られてないんだけどね、『ひゞき 隆聖』はこの辺に住んでいたらしいよ」
「……じゃあ、やっぱり……ココ、あの場面のモデルになった店なんですか?」
「うーん、モデルって言うか……そこまで知ってるなら予想ついてるかもしれないけど、『露木』は日本文学界の至宝とか言われてる『露窪 大樹』のことなんだよね。だからちょうどあのやりとりはまさにここで起こったことらしい」
「……う、うあああううあ」
私は初めて知るその情報に感激し、泣いていいのか笑っていいのかわからず情緒不安定になって、半開きになった唇から母音を垂れ流しながら震える。
その時、ちょうどお盆を持った先ほどの女性が入ってきて「失礼いたします、お茶をお持ちしました」と声をかけてきた。
崩壊しそうな顔をぐぐっと引き締めた私は、静かにお茶を出した女性に小さく頭を下げる。
女性は私に、にこりと笑いかけ「もしよろしければ、一階にはひゞき先生の書もありますので、お帰りの際にでもご覧になってください」と教えてくれた。
私は優しいその言葉に涙腺が決壊しそうになって、ぶんぶんと大きく首を縦に振る。
セイさんはそんな私を見て困ったように眉を下げ、口元を隠して笑った。
*****
食事の前に、大好きな『ひゞき 隆聖』先生についての情報を得た私は、ひたすらその作品についての考察や感想をセイさんにぶちまけた。
セイさんはそれに嫌な顔一つせず、相槌をうち、時には反論しながら会話を続けてくれた。
そうこうしている間に、食事が運ばれてきた。
お盆から下ろされる丼から漂う香ばしいタレの匂いに、じわりと漏れ出した涎をごくんと飲み込む。
鰻が入っているらしい丼は黒光りする漆器で、その形は口元が少し反った大名型丼腕だった。中央に置かれたそれと一緒に、机の上には汁椀と漬物が並べられる。
丼と汁椀には蓋が付いていたのだが、丼からは照り照りの鰻がはみ出し、その蓋を押し上げていた。
「まだまだ話し足りないけど、温かいうちに食べちゃおう」
セイさんはそう言いながら蓋を開ける。
私は『井戸の中』で描写されていたあの鰻がこれか、とその感動を噛み締めながらそっと蓋を持ち上げる。
蓋の下から姿を現したのは焦げ目のついた、肉厚の鰻だった。
鰻は丼の下にあるはずのご飯をこれでもか、と言わんばかりに覆い隠していて、タレがかかった白米はその端の方からわずかに顔を覗かせていた。
私はごくっと唾を飲みながら箸を手に取り、手を合わせ「いただきます」と頭を下げる。
そんな私に、セイさんはくすくす笑いながら「召し上がれ」と返事をした。
肉厚の鰻は、箸を上から押しつけるとすうっと切れた。
ご飯と一緒に一口分に切った鰻を口に入れる。最初に感じたのはかりっとした歯触りだった。それを噛みしめると口の中でタレの味と共にさあっと、とろとろの身が解れ臭みのない上品な脂が広がる。
「んん……お、おいしいぃ……!!」
これが『僕』も食べた鰻の味なんだ!
小説の描写を思い出しながら私は感動して言葉もなく、鰻を夢中で頬張る。
結局、その味に魅了された私は全ての皿が空になるまで無言で箸を動かし続けた。
*****
「ふわあああ……お腹いっぱい!ごちそうさまでした!」
丼を食べ終わった後に出てきたデザートのマスクメロンをセイさんの分まで食べた私は、満足し切って膨れたお腹を撫でながら店を出た。
「満足してもらえたみたいでよかった」
セイさんはくすっと笑って私の掌にまた指を絡ませる。
その感触にドギマギしながら、そういえばこの後はどうするのだろう、とふと思い至った。
このまま……帰るんだろうか。
正直、『ひゞき 隆聖』先生の本についてこんなに話ができる人を見つけたのは初めてだった。だから嬉しくなって色々話してしまったが、本当は引かれたりしていないだろうか。
ちらっと彼を見上げると、彼は少し遠くを眺めていた。
不思議に思ってその視線の先を追いかけると、どうやら駅のそばにある喫煙所を見ているらしいことに気がつく。
「……煙草、いかなくて平気ですか?」
繋いだ手をくいくい、と引いてそう尋ねるとセイさんはバツが悪そうに掌で口元を隠した。少し考えるように視線を動かした彼は、観念したようにため息をついた。
「……ごめん、もし嫌じゃなかったら行ってきてもいい?」
「大丈夫ですよ、ウチの会社の人もよくご飯の後に行ってるので……あ、近くにベンチあるみたいなんで、私そこで待ってますね」
そう答えると、セイさんは「ごめん」と言いながら手を離し、ポケットから煙草を取り出して喫煙所の方へ歩き出した。
一方の私はというと、その喫煙所が見える場所に置かれたベンチに腰掛ける。
ガラスのブースで仕切られているそこに入った彼はまだ火をつけていない煙草を咥え、ひらひらと私に向かって手を振った。
それに小さく手を振り返しながら私は先ほどまでの、『ひゞき 隆聖』の小説の世界に入り込んでしまったような光景を思い返す。
そしてそんな空間を作り出してくれた、魔法使いのようなセイさんのことを考えた。
昨日、電車に一緒に乗った時。私は彼が好きな話題なんて思いつかなくて、ただ気まずい時間が早く通り過ぎればいいと思っていたのに。
今日、彼は私が好きなことや好きなものを用意して、私を楽しませてくれた。
彼の優しさや気遣いがひどく嬉しくて、まるで中学生のように胸をときめかせる自分がなんだか気恥ずかしい。
ベンチに座ったまま、私は喫煙所の中にいるセイさんを盗み見る。
すでに煙草に火をつけた彼はわずかに顔を俯かせ、半開きになった唇にそれを咥えていた。その煙草を長い人差し指と中指で挟み、色っぽく眉をひそめながら時折煙を吐き出す。
まるで映画のワンシーンのような彼の姿に見入っていると、顔を上げたセイさんと目が合った。セイさんは煙草のフィルター部分を噛み、私に向かってニヤッと笑って見せる。
その笑顔にどきっとして視線を逸らす。
でも、ドキドキはなかなか治まってくれなかった。
セイさんの彼女になる人はきっと、幸せだろうな。
……彼女でもない女にこんな風に優しくしてくれる人なんて、聞いたことないよ。
セイさんは腹黒二重人格だけど、本当は……
「ごめん、お待たせ」
顔を上げると、セイさんはすでに煙草を吸い終え私の目の前まで戻ってきていた。
その優しい笑顔が、甘い声が、先ほどまで繋がっていた掌の熱が。
なんだか胸を騒がせて、私は「おかえりなさい」も言えず瞳を揺らした。
セイさんは少し困ったように微笑んだまま首を傾げた。
「……もしかして、疲れちゃった?今日はそろそろ帰ろうか?」
「……う、うん」
本当はもっと一緒にいたい、そんな気持ちだったけれど……これ以上一緒にいるとなんだか勘違いしてしまいそうだった。
セイさんは、私のこと……少しは
*****
また手を繋いで帰途についた。
昨日別れたコンビニの前まではあっという間だった。
でもなんだかすぐに別れがたくて私は何か、セイさんに話すことがなかっただろうかと今までの会話を思い返し始めていた。
コンビニの前に到着して、セイさんはゆっくりと立ち止まった。
「それじゃあ、今日もここで」
にこやかにそう言ったセイさんは私の掌に絡めた指をすっと離す。
それをとっさに追いかけそうになって、私は自分の掌をぎゅっと逆の手で握りしめた。
「あっ、あの……!」
「ん?」
「そう言えば……何か、言ってませんでしたっけ?」
「……何か?」
「その……ほら、そう、話したいこともあるし、って……」
「ああ、悪徳セールスマンに引っかからないように、って言っていた時?」
「もう!!その話はいいじゃないですか!」
私が怒ったような顔を作ると、セイさんは楽しげに笑った。
だからあんなことを言い出すなんて、その時の私は思っていなかったのだ。
私は膨らませた頬を萎ませて、セイさんにもう一度尋ねた。
「ええと……それで、話ってなんなんです?」
そう尋ねた私に、目の前の男……セイさんはにっこりと口角を上げ、爽やかな笑みを浮かべた。セイさんの口元には色っぽい
「ああ、ごめんごめん、うっかり目的を忘れるところだった。僕たち、結婚したから」
「…………ハイ?!」
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