第4話 埋め合わせ 前編
「はああ……つかれた……」
駅徒歩10分、家賃7万5千円のアパートに帰ってきた私はジャケットすら脱ぐことなく、肩からかけたバッグと共にベッドにぼふん、と沈み込んだ。
うつ伏せになってふかふかの枕を抱き込み、緊張が解けたためか重くなってきた瞼を擦りながら窓の外へと視線を向ける。
街を彩るその光は、白熱灯のような温かい色をしていて……それが、私を振り回したあの人の店の照明を連想させて、ため息をつく。
ごろりと寝返りを打ち、仰向けになった。
そしてそのまま隣にある自分の鞄に手を突っ込み、買ったばかりの文庫本を取り出す。
ぱらりと開いた、適当なページからベッドの上へと落ちてきたのは、別れ際にセイさんが渡してきた、彼の名刺だった。
私は文庫本をそっと閉じてベッドサイドチェストの上へ置き、その名刺に書かれた彼の名前を見つめる。
「なんか、まるで現実感のない一日だったなぁ……」
*****
婚姻届を提出するフリをした、区役所を出たその後。
二人手を繋いでしばらく歩いた後、何度も後ろを振り返ったがあの女の姿は消えていた。
「……諦めてくれたんですかね?」
セイさんの体を盾のようにして身を隠しながらそう尋ねると彼はやれやれ、とでも言いたそうな呆れた目をして私を見た。
「杏子ちゃんは本当に分かりやすいね……そんなに『警戒してます!』って顔してたら、そりゃあ尾行しててもバレないように距離を空けると思うよ?」
「えっ、そんなに分かりやすいですか?!」
私が驚いてセイさんを見上げると、彼はその問いに答えず口元に掌を当て眉を下げながら、楽しそうに笑った。そしてふっと真顔になり、歩いてきた道を振り返る。
「……確かに、今日は諦めたみたいだね。でも心配だから、今度こそ家まで送っていくよ」
そう言いながら彼は手を繋いで私の家の方面へと歩き出した。
平日の静かな住宅街を歩く人はまばらだ。
談笑する主婦たち、道を横切る猫、日傘を差し買い物袋をぶら下げたおばさん、犬と散歩中のおじいさん。そうした人や動物たちとすれ違いながら私たちは二人、無言のまま歩く。
なにか話さなければ、という気持ちにはもうならなかった。
繋いだ掌の温かさはいつの間にか互いに馴染み、そうしていることが自然になっていた。
歩きながら、いつも通っている道へと視線を向けると、公園に植えられた金木犀の花の香りや、新しくオープンした店があったことに気がついた。
そんな余裕が自分に戻ってきて、ハッとして隣を歩くセイさんを見上げる。
さっきまで彼に引き摺られるように歩いていたけれど、今は彼が私の歩くペースに合わせてくれていた。
……さっきは、やっぱり追いかけられていたからあんなに早足だったんだ。
私の視線に気がついたのか、セイさんの真っ黒な瞳と目が合った。
彼は口元の
「……そういえば杏子ちゃんの次のお休みを教えてくれないかな。今日のお礼も兼ねて、埋め合わせさせてよ」
「えっ?」
「さっき言ったかもしれないけど、今日はどうしても外せない用事があって。よかったら後日、食事でもどうかな……もちろん、僕の奢りで」
「いや……でも……」
そんな話をしているうちに、自宅近くのコンビニの前に到着した。
流石に今日知り合ったばかりの彼に、自宅前まで送って行ってもらうのは危険な気がして立ち止まり「ここまでで良いです」と声をかける。
彼は唇をうっすらと上げて足を止め、まるで『よくできました』とでも言いたげに「ああ」と答えた。
向かい合って繋いでいた手をそっと離した。
今まで馴染んでいた熱が無くなり、少しだけ冷えたその掌をもう片方の手でぎゅっと握る。
不思議と、もの寂しい気持ちになった。
そんな私の様子に気づかず、セイさんはジーンズの後ろポケットに手をやり、そこに入れていたらしい財布から一枚、名刺を取り出した。
住所と店名、そして彼の名前とケータイ番号が印刷されたそれを差し出しながら、背の高いセイさんは私を覗き込むように視線を合わせる。
「……これ、プライベートな電話番号だから。休みが分かったら連絡して?それと、これを見せてくれたらドリンク無料で出すようにスタッフの子たちには伝えておくから……あと念のため言うけど、これは僕の個人情報なんだから絶対に落としたり、なくしたりしないように」
ちゃんと釘を刺してきた彼を見上げて、唇を尖らせた。
「わ、わかってますよ!」
そう言って、私はその名刺が折れ曲がったりしないよう、鞄から文庫本を出してその中へと挟み込む。
私にとって本は、命と財布やスマホの次に大切なものだからそこに挟めば絶対になくしたりしない。
本を閉じそれを鞄にしまうと、セイさんは一瞬真っ黒な瞳を丸くして、その後すぐに顔をくしゃっとさせた少年のような笑顔を浮かべた。
*****
「…………はあ」
今日何度目かのため息をついて、私は名刺を摘んだままの腕を、ぼふっとシーツの上へ力なく落とした。
彼のせいで妙なことに巻き込まれて、楽しみにしていた休日は台無しになってしまった。でも、これを見せればお気に入りのあの店で、あまりに美味しくて忘れられなくなった珈琲を飲むことが出来る。
……きっとセイさんは覚えていないだろうけど、あの珈琲を私に勧めてくれたのは彼だった。
私はまたごろんと寝返りを打ち、うつ伏せになって名刺を見つめる。
まさか、あんな腹黒二重人格男だなんてあの時は全然思ってなかったけど。
きっとあの店のほとんどのお客さんは、彼のあんな一面を知らずにきゃあきゃあ言ってるんだろうな。
珈琲を淹れながらそんなお客さんたちを眺め「チッ」と舌打ちしている不機嫌そうな彼の姿を想像した私はひとり、ふふっと笑みをこぼした。
そして、今日読もうと思っていた文庫本に大切に名刺を挟み、少しだけそれを読みはじめようか悩んで、そっと閉じた。
……明日、仕事帰りにあの店にまた行こう。
そして、セイさんに勧められたあの美味しい珈琲を飲みながらこの本を楽しもう。
カウンター越しに見た、セイさんを思い出すと自然と口元が緩んだ。
すごく変な一日だったし、疲れたけど……なんだかんだ言っても人助けをしたのだし、気分は悪くなかった。
それに、遠くから見ているだけだったセイさんの意外な素顔を知ることができたことも良かったのかもしれない。
そこまで考えてハッとした私は枕へ顔を埋め、足をバタバタと動かす。
べ、べつにセイさんに会いたいわけじゃ……!!ドリンク3ヶ月無料を楽しみに行くだけなんだから……!!
自分自身にそう言い訳をしながら、ぎゅっと瞼を閉じる。
その薄闇の中にいたのは一筋縄ではいかなそうな、意地悪な笑顔を浮かべたセイさんだった。
*****
昼休みを終え、うとうとしがちな午後二時。
オフィスで眠気覚ましにインスタント珈琲を飲んで、それでもうつらうつらしそうになった私はデスクから立ち上がり、届いたFAXに目を通し営業担当者ごとに振りわけはじめた。
「……瀬谷、お前さっき寝てたろ?課長笑ってたぞ」
そう声をかけられて振り返る。
大学時代、ラグビーをやっていたというがっしりした体躯に、精悍な顔。
外回りが多く日焼けしたその顔に穏やかな笑みを浮かべながら私に声をかけてきたのは、クレームを入れたお客様すら満足させて再契約させるという、凄腕営業担当者の田口さんだった。
私の勤める、『株式会社mizukami』は企業向けレンタルウォーターサーバーを専門に扱う会社だ。
その若手営業の中でも、田口さんの営業成績はダントツ一位だった。
もともと不動産の営業をしていたと言う彼は真面目で辛抱強く、穏やかな性格で大体の人から好かれている。
私は居眠りを目撃されていたことに苦笑いしながら口元を隠した。
「……うわぁ……ばれてました?もう、眠くて眠くて……あ、これ田口さん担当のお客様から来た注文書です」
そう言いながらFAXのほとんどを田口さんに渡す。
「さんきゅ。ほんと瀬谷がいてくれて助かるよ」
「……そんなに褒めても何も出ませんよ?」
来たばかりのFAXを受け取りながら、田口さんは私の顔を覗き込むように見つめた。
「なんか……いいことでもあったのか?今日は機嫌がよさそうだな」
「え、そんなにわかりやすいですか?」
セイさんに指摘されたことを田口さんにも言われて、私は頬に両手を当てた。
「まあ、お前のこと知らない奴にはわからないだろうけど、お前のこと気になってよく見てる奴は気づくだろうな」
田口さんは日焼けした頬を掻き、そう言いながら視線をうろつかせる。
私はその言葉にぎゅっと顔を引き締めた。
「ええ?!そうなんですね……気をつけます!」
「いや、そうじゃなくて……」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
田口さんはそう言って黙ってしまったので私は変な間に首を傾げた後、へらっと笑って口を開いた。
「ええと……今日、仕事帰りにお気に入りのカフェに行こうかと思っているんです。そこの珈琲がすごく美味しくて」
「へえ、そんな場所があるのか」
田口さんの瞳がきらりと光る。
もしかしたらウォーターサーバーの売り込みができるんじゃないかと考えているのかもしれない。
でも、セイさんはなんとなくこだわりが強そうだから、ウチのウォーターサーバーなんて興味なさそうだし、何よりとても真面目な田口さんと腹黒なセイさんが一緒にいるところが想像つかない。
私は思わず、頭の中で二人が話をするところをシミュレーションして、くすっと笑った。
……田口さん、絶対セイさんの舌打ちにびっくりした顔をしそう!
「……なあ、その店ってどこにあるんだ?」
田口さんは、ニヤニヤしはじめた私に苦笑を浮かべ、伺うようにそう尋ねた。
私はその言葉に目を丸くする。
「え、本当に営業に行くつもりですか?」
「営業?いや、そのう……瀬谷がそんなに気に入ってるなら、一緒に行こうかなと……」
「えっ、一緒に?」
私はあの店に本を読みに行くつもりなのだが、大丈夫だろうか。
驚いて尋ねると、田口さんは顔を赤くして首を振った。
「あっ、いや、そのう……!難しかったらいいんだ!」
「えっ……難しい?」
私がぽかんとしたその時、田口さんのデスクの方で固定電話が鳴りはじめた。
3コール続いたそれが転送され、田口さんの胸ポケットに入れた業務用電話が鳴り出す。
「あっ……すまん、この話はまた!」
FAXを持ったその手を振った後、田口さんは「はい、株式会社mizukami、田口でございます……」と電話に出てそのままデスクの方へと歩いて行ってしまった。
取り残された私は手元に残ったFAXを握りしめたまま、田口さんは何を言いたかったのだろう、と首を傾げた。
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