3章 2話 金龍寺薫子のとある一日 後編

 多忙な時間とは、驚くほどの速さで過ぎ去るものである。

 それは金龍寺薫子においても例外ではない。

「ふぅ……。疲れました……」

 薫子はそう言って伸びをした。

 すでに時刻は十一時となっている。

 帰ってきてから現在までぶっ続けの労働。

 薫子の声には疲労が滲んでいた。

 彼女は壁に体重を預けたまま天井を仰ぐ。

「お疲れ様です。薫子お嬢様」

「ふふ。お疲れ様です。氷華さん」

 氷華からねぎらいの言葉をかけられた薫子は微笑み返す。

 彼女は薫子が来るよりも早い時間から働き、この時間まで休んでいない。

 当然ながら仕事のクオリティに陰りが見えることなどない。

 同じ仕事をしているからこそ思うが、氷華は化物じみていると薫子は思う。

 かつて暗殺者に弟子として育てられていた時期がある、などと眉唾物としか思えない噂がメイド間で飛び交うのも無理からぬことかもしれない。

「氷華さんも今から寮に戻るんですか?」

 壁から背を離すと、薫子はそう尋ねた。

 一方で氷華は首を横に振り、

「いえ。これから伊織様と詩織様の夜食を作ろうと思っています」

「そうですか……」

 氷華の口から出た名前を耳にし、薫子はわずかに眉を動かした。

 金龍寺伊織。

 金龍寺詩織。

 二人は薫子の弟と妹にあたる。

 もっとも、五年前から一度も会ってはいないのだが。

 当然だ。金龍寺薫子はこの家にいない。

 いない人間が誰かと出会うことなどないのだから。

「氷華さん」

 心境の変化か、ただのきまぐれか。

 気がつくと薫子は口を開いていた。

「――わたくしも手伝っていいですか?」

「…………」

「……ダメ、ですか?」

 氷華が沈黙してしまったことで弱気になる薫子。

 すると氷華は無表情でありながら、どこか困ったような様子になり――

「……そうですね。せっかくですので、手伝っていただきます」

「! ありがとうございまひゅ……!」

 礼を言おうとするも途中で噛んでしまい、薫子は赤面した。

 そんな彼女を氷華は和やかな雰囲気で眺めている。

 そして氷華は歩き出す。

「そうと決まれば厨房に行きましょう。ここで喋っていても残業代は出ませんから」

「……はい!」

 薫子は笑顔を浮かべると氷華の背中を追うのであった。



「むむむ……」

 薫子は手中の三角形を眺めながら唸っていた。

「どうかなさいましたか?」

 そんな彼女を心配したのか、氷華が声をかけてくる。

 しかし、薫子が唸っていたのは彼女が原因である。

「なんといいますか……。いつ見ても、精密機械じみた手際ですね」

 薫子が見ているのは、氷華の前に並んでいる握り飯だ。

 作り始めたのは同時。

 しかし、薫子が作った数は氷華の半分以下だ。

 せめて見た目だけは整えたものの、それでも氷華ほど完璧な三角形ではない。

 数でも質でも敗北。

 言い訳のしようがない。

 料理の技術にはそれなりに自信があったのだが、それさえ打ち砕かれそうだ。

「これは慣れですよ。優れた技術のほとんどが反復練習の先にしかありません」

「……これでも、わりと自信があったんですけど」

「私は、これが仕事ですので」

 確かに、速水氷華は薫子が小学生だったころからメイド長を務めている。

 それこそ年季が違うのだろう。

「うふふ……。お姉さんぶっているくせに、大した料理の腕もないのですね」

「そんなことありませんよ。薫子お嬢様の作ったおにぎりは上手にできていると思います」

「……そうですか?」

「ええ」

「なら……嬉しいです」

 薫子は小さく微笑んだ。

「ですが、メイドとなる以上、ここで満足されては困りますね」

 そう言って、氷華は流れるような動作でおにぎりを握る。

 ほんの数秒の出来事だ。

「そうですね。これからメイド道を極めてゆきます」

「その意気です薫子お嬢様」

 氷華に元気づけられ、薫子はおにぎり作りを再開した。


「二人分ですし、これくらいで充分でしょうか」

「そうですね。むしろ少し作りすぎてしまったかもしれません」

 皿に盛られたおにぎりを見て、氷華はそう言った。

 そして彼女は握り飯を一つ手に取ると、そっと薫子に差し出す。

「余るともったいないですし、薫子お嬢様も一ついかがですか? 今日は忙しくて、思ったように食事をする時間が取れなかったんじゃないですか?」

「……さすがですね」

 実を言うと、薫子は軽食程度の食事しかしていない。

 メイドとして働いているのだ。

 夕食の時間前後は、もっとも忙しい時間帯である。

 だから夕食の後片付けが終わってからも、ほんの五分程度の休憩しか取れず、とりあえずメイド仲間と共に残り物で作った料理をかき込んだだけなのだ。

 それからもなかなか良いタイミングが訪れることもなくこの時間となり、今の薫子は満腹とは言い難い。

 だから多すぎた分を薫子に渡したのだろう。

 いや。案外――

「わたくしのために多く作ったんですか?」

「いえ。薫子お嬢様と一緒に作るのが楽しくて失念していました」

「……そういうことにしておきますね」

 ささやかな気遣いを無理に暴くのも無粋だろう。

 そう思い、薫子はおにぎりを口にした。

 食べる時間帯も考え、具は入れていないし、塩分も抑えたおにぎりだ。

 だが絶妙な握り具合だけで他のおにぎりと違うと分かる。

 薫子自身もそれなりに上手く握れているとは思うが、自分が握ったものとはわずかだが――確実に違うと確信できる。

 微妙な違いだが、これを埋める技術は今の自分にない。

「奥が深いですね」

「シンプルなものほど誤魔化しが利きませんから」

「いつか、こんなおにぎりを作れるようになりたいですね」

「そうなれば、お嫁に行っても怖くありませんね」

「うふふ……。お嫁に行けなさそうなのが怖いのですけれど」

「その卑屈なところを治せば大丈夫だと思いますよ。案外、そんな卑屈なところを好きだといってくれる殿方もいらっしゃるかもしれませんが」

「それはなんというか……将来苦労しそうな性癖ですね」

「理屈ではないのですよ。私も経験はありませんが」

「なるほど」

 そんな事を言っている間に、おにぎりが手の中から消え去った。

 しかしなんということか、まだお腹は空腹を主張している。

「……もう一個。食べてもいいですか?」

 わずかな羞恥を感じながらそう聞くと、氷華は小さく口元を緩める。

「そうですね。私も一つもらいます」

 そして薫子たちはお握りを手に取り食べるのだった。



「わたくしは……寮に戻りますね」

 そう薫子は言った。

 今、薫子たちは夜食を手に姉弟たちのいる部屋へと向かっていた。

 現在二人がいる廊下の先に弟と妹の部屋がある。

 そこで薫子の足は踏み出さなくなった。

 足は鉛のように重く、脳の命令を無視し続けている。

「も、もう時間も遅いですし……宿題もありますから……」

 薫子は空笑いと共に後ずさる。

 そんな彼女を見て氷華は――

「駄目です」

「え……」

「直接会えとは言いません。でも、感想を聞く権利くらいはあると思います」

「氷華さん……」

 彼女は憂いているのだ。

 金龍寺家と薫子の隔絶された関係を。

 なにより、

 だから逃げようとする彼女を引きとめた。

「……分かりました」

 薫子は肩をすくめて観念する。

 正直に言えば気が進まないが、氷華の提案を無下にもできない。

「それでは扉の前で待っていてください」

 そう小声で氷華は言った。

 そして彼女は扉をノックすると、部屋の主の許可を得て入室する。

「…………」

 薫子が扉に耳を当てると、中の声が聞こえてくる。

『ありがとう氷華』『いえ。これが私の仕事ですので』

 ほんの少しの空白。

おそらくおにぎりを食べているのであろう。

そして数秒が経って。

『やっぱり氷華が作るおにぎりは美味しいね』『……ありがとうございます』

 それから一言二言を交わすと、氷華が部屋から出てきた。

 皿を置いてきた氷華はどこか誇らしげな表情をしている。

「どうでしたか? 薫子お嬢様のおにぎりの感想は」

「……あのおにぎりの違いが分からないだなんて……姉として心配です」

「素直じゃありませんね」

 苦笑する氷華。

 でも信じて欲しい。

 決して、薫子が口にした言葉は嘘ではないのだ。


(だって……『家族』の心配をするのは……当然ですよね?)


 こうして、金龍寺薫子の一日は終わった。

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