第4話
気がついたらあたしは家に帰ってきていた。
いつも楽しみにしているお母さんの晩御飯も、頭の中が宇野さんに言われた事でいっぱいになって何を食べたかも覚えていない。ずっと上の空で、物事を考えれば行き着くところは今日のこと。気分が晴れることはなく、明日の学校がたまらなく嫌になっていった。
翌朝。本当は休みたかった。
でも、風邪でもないのに休めばお母さんたちが心配するし、学校は行かなければならないものと思っているあたしには、休みたいから休むなんてことは思いつかなかった。
重い足を引きずって学校に来て上靴に履き替えた。この時はきっと、心のどこかで何とかなると思っていたんだろう。昨日のことなんて一日経てば皆忘れていて、いつもと同じ生活が始まると。
だけど教室の扉の前に立って中から宇野さんの声が聞こえてくると、そしてそれがあたしへの嘲笑だと気づくと、途端に体が強張って動けなくなってしまった。
中からは朝のクラス特有の喧騒。ここに来るまで昨日いじめてきた人たちには誰とも会わなかったけど、この扉を開けば誰かがいるに違いない。わかっていたことなのに、そのことが目前に来ている事実に足がすくむ。
もしかするとあたしの顔を見た途端に掴みかかってくるかもしれない。どうなんだろう。いじめられるなんてこと、テレビの向こう側の、アフリカだとかの遠い世界の話みたいなものだと思っていたから、当たり前の感覚が分からない。
仮にそんなことがなかったとしても、やった人間が分からないよう、机や椅子にイタズラされているかもしれない。そういえば昨日は教科書を家に持って帰っただろうか。昇降口で履き替えた上履きにはなにもされていなかったけど、じゃあ今日は教科書の番なんだろうか。
唐突に周囲の音が消え去り、視界の中央に自分の机が浮かび上がった。鋏でずたずたにされた教科書が並ぶ。ページには赤や青のペンで「死ね」「帰れ」「学校来んな」の文字。それらはやがて意思を持つかのように踊りだし、あたしを嘲笑う。今度は文字が徐々に集まり、変化していく。新たに形作ったものは――宇野加奈の顔。
「ひっ!」
怯えた自分の叫び声で我に返った。それとともにあたしの耳に音が戻る。目の前には閉じられた扉。さっきから何も動いていない。変わっていない。しかし、あたしはもうさっきとは決定的に違ってしまっている。
怖い。
この扉を開くことが。
扉を開くとそこには教室が広がっていて、沢山のクラスメートがいて、その中にはあたしを敵と見なす人がいる世界が広がっているのだろう。
悪意を向ける人間ばかりではないかもしれない。それ以外もいるかもしれない。
だけど、今のあたしには悪意を抱く存在が大きすぎて、それ以外の存在に考えを巡らせることなど出来やしなかった。
そう思ってしまったら、この扉はもう、あたしには開けられない。
――帰ろう……。
諦め、踵を返して引き返そうとした時。
「どうしたんだ? 早く入れ」
目の前に、担任の先生が居た。
今更逃げ出すこともできず、あたしは先生に押し込まれるようにして教室に転がり込んだ。慌てて目を伏せたけど、その前に宇野さんと目があってしまった。
宇野さんは教室のまん中にいて、あたしを見て声を出した。声は決して大きくない。聞こえるはずのない距離。でもあたしには確かに聞こえた。
「へえ」
あたしの手は途端に震えだした。
「なんでいるの?」
放課後、あたしは昨日と同じ状況にあった。
「学校来んなって言ったよね? あんたが鈍いからはっきり言ってやったのに、なんで来てんの?」
怒気のこもった言葉があたしの心を食い破る。一言一言が的確に急所に振りおろされるナイフのよう。考えなしの行動をした自分を呪った。こんなことならば大人しく家から出て来なければ良かった。
「あ……う……」
緊張のせいか、喉が渇きうまく言葉が出て来ない。
胸倉を掴んだ手が揺さぶられる。
「答えろよ」
「ごめ……ん……な、さい……」
からからの喉から必死に謝罪の言葉を絞り出す。違う。あたしはこんなこと言いたくない。意味の分からない理由で簡単に人をいじめるような奴に屈する言葉なんて、言いたくない。それなのにあたしの口から出るのは思いとはかけ離れた惨めな単語だけ。この場から逃げ出したい、その思いから来る「ごめんなさい」。
そんな辛さを飲み込んだ行為も、この子には関係なかった。
「違うでしょ」
「……え……?」
「誰が謝れって言った? もう学校来んな。あんたに求めてんのはそれだけ。いい? 約束だよ。宮本、今度もし来たら」
足元ばかりを見るあたしの前に回り込んで、無理矢理目線を合わせてきた。髪を掴まれ、目を背けることもできない。覗きこんだ宇野加奈の視線から、不可視の悪意が流れて込んでくるようだった。
彼女は囁く。
「殺すよ」
涙が頬を伝った。一粒流れると、堰を切ったように次々と涙があふれ出す。立っていられなくなって、その場にしゃがみこんでしまった。顔を上げられない。
人が去ってあたしを見下ろす視線を感じなくなるまで、ひたすらうずくまり続けた。
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