第67話 河川敷目地して
アリスちゃんの着付けが始まって十分もしないうちに柊吾さんの黒い車が朝永屋敷の前庭に入ってきた。玄関の軒下で私の話し相手になってくれていた蓮さんは、その車の影を見るなりふっと風のように歩を進め、エンジンを止めて車から降りてきた柊吾さんに声を掛けた。
「来てくれてありがとう、柊吾」
柊吾さんは肩で溜め息を吐いて、疲れたように首を左右に振った。何か一言毒突きたいけれど、もう何も言う気になれない、そんな顔だった。
「花火って何時からだ?」
「七時半だよ」
「まだ一時間半あるけど」
「早く行かないと駐車場がすぐ満車になっちゃうんだよ」
「お前の弟と妹は?」
「拓真君の準備は終わってるんだけど、アリスの準備がまだ終わってないんだ。おれたちは後で行くから、柊吾は里奈さんと先に行っててよ」
「そういうことならさっさと行くぞ」
そう言って柊吾さんはほんの一瞬だけ私に視線を向けてすぐ顔を背け、車の扉に手を掛けた。
蓮さんは柊吾さんの目を盗んで私にひそひそと耳打ちをした。
「ほら、言ったでしょう? 柊吾は自分では褒められないから、まともに里奈さんを見ようともしない。こんなに綺麗に着飾っているのに」
そう言って柊吾さんをからかうようにわざと大袈裟に笑顔を作ってみせた。
「本当ね。褒めてくれなくてもいいから、ちょっとくらい私の方見てくれてもいいのに」
私も悪乗りしてひそひそ話していると、柊吾さんが私たちをじっとりと睨み、「さっさと乗らねぇなら俺は帰るぞ」と呆れたように言った。
「それでは里奈さん、楽しんできて下さい。あんな素っ気ない態度ですが、何だかんだで柊吾は上手に里奈さんをエスコートしてくれると思いますから」
本当かどうか信用ならないけれど、蓮さんらしい気遣いの言葉だった。
「色々とありがとう、蓮さん。また後でね」
私と柊吾さんは蓮さんに見送られて屋敷を出た。気持ちのいい夕暮れが妃本立の空に広がっていた。走り出す車のエンジン音が車内に響き、ボリュームを抑えたFMの音がかき消された。癖のように吐き出す柊吾さんの溜め息が大きく聞こえた。
「柊吾さん、ごめんね、強引に誘っちゃって。本当は気乗りしなかったんでしょう?」
柊吾さんは前を見たまま薄い唇を動かした。
「別にいいよ。車を出してやると返事をしたのは俺だし、蓮の言うこと聞いてやらないと嫌な仕返しされそうだからな」
私は思わず笑った。
「ああ見えて策士だもんね、蓮さんは」
柊吾さんはそっと溜め息を吐いて窓枠に腕を置いた。
妃本立の物静かな集落を抜けて国道へ出ると、辺りは花火客の車で一気に混み始めた。私たちと一緒で、みんな食品市場に車を停めて河川敷の花火会場へ行く。車はなかなか進まなかった。窓からちらほらと徒歩の人の姿も見える。蓮さんが気を回して早く出発させてくれたおかげで市場の駐車場にはまだ余裕があって、私たちはすぐに車を停められた。外に出ると、風と言うにはあまりに弱い大気の流れが髪の先を擽った。普段髪を上げることもうなじを曝すことも殆どないので何となく落ち着かなかった。
私と柊吾さんは他の花火客に混じってゆっくりと歩いた。桐下駄がアスファルトに当たってからころと音がした。
「お前、そんな歩きにくいもん履いて大丈夫なん?」
浴衣や髪型に言及する代わりに柊吾さんは私の足元を心配した。
「ちゃんと慣らしておいたから大丈夫だよ。足に合うように鼻緒も調整もしてもらったし、ちょっとくらいなら平気」
そう答えると、柊吾さんはもう私には興味を無くしたように遠くを見た。私もその視線に倣って、オレンジの光に呑まれる瓦屋根の家並みとその先に見える山の稜線を見た。小さな空がとても近い。深く呼吸をすると胸の中まで空の色に染まる。
からころからころ下駄の音を引き連れながら、私たちは短い坂を上って、川を囲む堤防に着いた。
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