第17章 夏

第64話 三つ目

 梅雨頃になると、アリスは『れん』とだけ発音できるようになっていた。僕や蓮兄さんと何度も唇や舌の動きを練習し、アリスは耳が聞こえるので、自分でも発音を確認しながら体得していった。それで自信がついたかこつを掴んだか、アリスは手持ち無沙汰になると口をもごもご動かして、『れんにいさん』と発音する練習を繰り返した。

 僕は付き人日誌にその様子を書いた。発音練習をするアリスなんて前代未聞だ。僕のアリスはいつだってそうだ。他のアリスとは違う。前代未聞ばかりだ。

 そうこうしているうちに僕たちは中学校生活二度目の夏休みに入った。蒸し暑い中、僕は剣道の練習に明け暮れて、アリスは佳歩さんの手伝いをしながらゆっくり過ごしていた。

 八月の夕暮れになると、裕次郎さんから種を受け取ったときのことを思い出した。あれから、一年になろうとしている。虫の鳴き声がぽつぽつ聞こえる森の中で、斜めに差し込む錆色の夕日に打たれながら、ひまわりのような小さな種を受け取った。あのときの泣き出しそうな裕次郎さんの顔が脳裏に焼き付いて離れない。不思議と夢には見ないけれど、懐かしい夏の香りと共に、何度も繰り返し思い出す。

「二年半前、君と出会ってすぐ。ああ、この子なんだなと思った。何となく、そう思ってた」

「こんな役を押し付けてごめん。君しか託せる人がいなかった」

 悲しく光る目でそう言った裕次郎さんの言葉が忘れられなかった。

 僕は付き人の部屋に仕舞っていた空種を握った。

 僕のアリスが継承の種を生んだら、今度は僕が蓮兄さんに種を渡すのだ。あのときの裕次郎さんが、僕にそうしてくれたように。

 あのときは何も分かっていなかった。付き人になり、継承の種を次の人に託す立場になってから、ようやく裕次郎さんのあの表情の意味が分かった。裕次郎さんは堪えていたけれど、僕は駄目かもしれない。悲しくて悲しくて、蓮兄さんの前で取り乱してしまうかもしれない。もしかしたら、泣き出しそうだと思ったのは僕の勘違いで、裕次郎さんも本当は泣いてしまっていたのかもしれない。

 僕は日誌を片付けて付き人の部屋を出た。

 お盆の終わりになるとこの市では花火大会がある。蓮兄さんも久し振りに行ってみたいと言うし、アリスも目を輝かせて行きたい! と言うし、それなら一緒に浴衣を着て行こうよと里奈さんも乗り気で、二週間後の花火大会のことで、屋敷は何となく浮足立っていた。昨日の日曜日には付き人の僕も交えて里奈さんとアリスで浴衣も買いに行ったし、その後買ってきた浴衣を試着して二人共楽しそうだった。アリスは薄桃色の朝顔柄の浴衣、里奈さんは水色の牡丹柄の浴衣で、蓮兄さんが「二人共、よく似合ってるよ」と褒めたように、はっとするほど華やかだった。

「当日は髪も結ってあげますからね」

 と着付けをした佳歩さんもご機嫌だった。傍から見ていた僕まで何となく楽しい気持ちになって、人混みは苦手だけれど、花火大会に出掛けるのが楽しみになった。

 付き人の部屋を出て一階の応接室に入ると、アリスがソファーに座って、しきりに右目を擦っていた。僕ははっとしてすぐアリスに駆け寄った。

「アリス? 空種だね?」

 アリスは取り乱すことなく静かに頷いた。僕はアリスの隣に座って背中を擦った。一つ目のときは短時間で出てきたけれど、三つ目の今回はなかなか種が目から零れ落ちず、アリスは長い間首を左右に振って目を擦った。「うう……うっ……」という苦しげな呻き声が応接室に響いた。

 三つ目の空種が零れ落ちたとき、明るかった空は青紫に暮れていて、アリスの瞼は赤くなっていた。アリスは僕の胸に縋って涙を零した。僕は空種を受け取ってアリスの背中を擦り続けた。

「アリス、大変だったね。君ばっかり辛い目に遭って、付き人の僕はなんにもできない。……ごめんね」

 アリスは僕の胸で首を左右に振った。

 乾いた種が僕の手の中で尖っていた。

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