第59話 二つ目

 開花した桜が雨に打たれてあっという間に散り始めた頃、僕らは当たり前のように二年生に進級した。一年生の頃は二階の教室だったのが、二年生からは三階の教室になり、窓からの見晴らしも良くなった。僕とアリスは謀られたように同じクラスになった。付き人としての使命は今まで通りアリスのすぐそばで果たしていける。僕は進級の緊張よりも、未知の学年に足を踏み入れてしまったことに対して恐れのようなものを感じた。本当にこのまま大人になっていくんだろうか。確かにここ数ヶ月で体付きは変わった。背が伸びて、同じ目線だったアリスをいつの間にか見下ろすようになった。声だって出しづらくなって、佳歩さんは「声変わりが始まったんですね」と喜んでくれたけれど、普通の話し方ですら高音や低音が定まらず、自分の喉が堪らなく不快だった。心は臆病なまま何も成長しないのに、体だけが勝手に大人になっていく。大きすぎるぶかぶかの殻を押し付けられて不格好に被っている、惨めな巻き貝のようなものだった。僕は本当に大人になっていいのだろうか。しんとした夜になると、迷いと戸惑いが生まれた。

 僕と一緒に進級したアリスは、一見、自分の成長に何の疑問も不安も抱いていないようだった。時の流れに身を任せ、新しい学年をアリスなりに楽しんでいるように見える。二年生の教室にも迷いなく入るし、あまり同級生とは関わらないけれど、毎日読書を楽しんでいるし、心は安定しているように見えた。だけど、それは多角的に出来ているアリスの、たった一面を見せられているに過ぎなかった。

 ある夜、アリスは泣きそうな顔をして僕の部屋に来た。いつもの元気に似合わず俯き加減で僕に歩み寄り、意味ありげに強く握りしめた右手を差し出した。そして無言で俯いたまま、花の開花のようにそっと白い手を開いた。柔らかな手の中に収まっていたのは、二つ目の空種だった。静かな日常生活が続き、ともすると継承の使命を忘れることすらあるけれど、僕らはまだ継承の渦中にあるのだ。目の前の空種がそれを物語っていた。本当の継承の種ではないから僕たち二人や蓮兄さんには何の影響もないけれど、これが本当の継承の種だったら、蓮兄さんが犠牲になってしまう。アリスは自ら生み出した空種を見ながら、その現実をまざまざと感じたらしかった。僕の目の前でみるみる涙の粒を膨らませていき、恐怖に肩を震わせながら訴えた。

『本当の継承の種ができてしまったら蓮お兄さんが死んでしまう。……わたしが蓮お兄さんを殺してしまう』

 アリスの訴えに僕は鳥肌が立つほどぞっとした。アリスの継承というものがどういうものなのか、今までにないほど現実的に感じられた。僕は付き人を継承した者として前任者の裕次郎さんを見送ったけれど、あのとき以上に人の命の重さ、死というものの重大さを突き付けられた。

 人の生死に関わる継承の種を生み出す者として、アリスは僕以上に責任を感じているらしかった。蓮兄さんが死んでしまうのは、決してアリスのせいではない。蓮兄さんだってそう思っているはずだし、アリスを責める人なんて誰もいない。僕はアリスを人殺しになんてしたくなかった。

 アリスは空種を強く握り直し、ぽろぽろ涙を落としながら僕の胸に縋った。僕は確かに背が伸びた。裕次郎さんから託された継承の種をこの子に呑ませて『アリス』にしたあの秋の頃は、僕ら二人は同じくらいの背丈だったのだ。それなのに、今、アリスの頭は僕の目線の位置にある。僕の方が背が高くなったのだ。

 僕はアリスの背中を擦ってやることしかできなかった。蓮兄さんの思惑を僕なんかがどうにかできる道理はないけれど、アリスが罪を背負うなら、付き人の僕だって同罪だ。この子を一人にしないために、僕は付き人でいるのたから。

「大丈夫だよ、アリス。君は蓮兄さんを殺したりしない」

 僕は空種を握り締めたアリスの右手を両手で包んで握った。

「僕が付いてるから、何も心配いらないよ」

 それが、未熟な僕に言える精一杯の言葉だった。

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