第43話

 彼女の努力の甲斐もあって本棚は空っぽになった。はじめは紙袋三、四枚あれば足りるだろうと思っていた僕の目測は大きく外れ、入りきらなかった本があふれてしまう事態となった。結局、段ボールを投入し事なきを得たが、それでも二箱必要だったし蓋ははち切れそうに盛り上がっている。

 本棚の整理が終わると、次は音楽・映像ソフトを同じように袋詰めしていく。アントリアのCDは売ってしまうのは惜しいけれど、ここに置いていても二度と聴かれることはない。それならば新しい買い主に聴いてもらう方がCDも喜ぶだろう。

 ソフト系は書籍と異なり時間もあまり掛からなかった。それに、それほど量もなかったから今度は紙袋だけですべてを賄うことができた。

「CDとDVDは全部終わりましたけど、これはどうします?」

 野宮が持って来たのはゲームソフト類だった。僕は据え置き型のゲーム機を持っていたが用途としてはそのほとんどがDVDプレーヤーとして使っていて、あまりゲームはしなかった。だからゲームソフトもほとんど持っていない。野宮が今手に持っている名作と呼ばれているソフトたちだけだ。

「それも売っていいよ」

「じゃあ、このゲーム機もですか?」

 野宮がテレビの下に置いてあるゲーム機を指さした。

「うん。売って……」

 その時、妹が言っていたことを思い出した。


『お返しはゲームでいいよ。DVD見れるやつ』


 このゲーム機は妹にあげよう。そうだそれがいい。それならソフトもあった方がいいな。

「天原さん? どうしたんですか? 急に固まって」

「……やっぱり、ゲーム機とソフトは売らない」

「何でです? ここにはもう帰ってこないんでしょ?」

 野宮は首を傾げた。そして不思議そうに僕を見る。

「ゲーム機類は妹が欲しがってたんだ。だからせっかくなら売らずに妹にあげようと思ったんだ」

 僕が言うと野宮は頬をほころばせた。

「天原さん、妹さんいましたもんね。私より……一つ下の」

 彼女が不自然なところで言葉を切った。いや、単に年齢を思い出していただけか。

「そう。その妹が誕生日プレゼントにゲーム機を要求してきたんだ。反抗期のくせにこういう時だけは調子がいいんだから困ったもんだよ」

 すると野宮はふふっと唇に手を当てて小さく笑った。

「天原さんは妹思いなんですね」

「そうさ、僕はいつか野宮が言ってくれたみたいに『優しいお兄さん』なんだ」

「私、そんなこと言いましたっけ?」

 とぼける野宮に僕は「言ったよ!」とツッコミをいれた。野宮は笑い出すのを堪えるように喉を鳴らした。

「どうした?」

 僕の一言で彼女は堰を切ったようにブハァーと吹き出した。

「……そこは『なんでやねん!』じゃないんですね。『言ったよ!』って普通ぅー! わざとボケてあげたのにぃー」

「君は大阪人に期待しすぎだ。あーあ、せっかくほっこりとしたいい雰囲気になったのに台無しだ。はいはい、片付け再開」

 なんだか馬鹿らしくなって僕まで笑いが込み上げてきた。

 ほっこり気分は台無しになったけど、代わりにくだらないことでバカ笑いしながら家具家電、衣類、食器類など残りの片づけを進めていった。

 すべてが終わったのは日もとっぷり沈んだ後だった。幸い古本屋とリサイクルショップはまだ開いている時間だったから、不用品の数々はその日のうちに部屋から姿を消した。

 リサイクルショップからの帰り、僕は野宮を家まで送っていくことにした。暗い夜道に街灯が等間隔に並んでいる。そんな景色を見ていると、つい三週間前、僕らはこんな風景の中を死に物狂いで走っていたことをふと思い出す。

 野宮もそれを思い出したのか僕のシャツの裾をぎゅっと握った。

「大丈夫だよ、野宮。奥本はもういない」

 僕は野宮の肩を抱いてこちらに寄せた。体と体が触れ合う。華奢な彼女の肩は不安そうに震えていた。

「……もう大丈夫です。でも家までこのままでもいいですか?」

「野宮が安心なら、このまま行こう」

 野宮の希望なら肩を抱いたままでも吝かではない。しかしよく考えると、この姿を側から見ると好き合った恋人同士のように見えないだろうか。そう思うとなんだか急に耳の後ろの方が急に熱くなってきた。

「天原さん、明日のことなんですが」

 僕は空想から現実に意識を引き戻した。隣を見ると野宮は進行方向を向いたまま喋った。

「私、地元に帰るの初めてなんです。私の町が今どうなっているか楽しみです」

「初めてってことは三年以上は確実に経過してるってことか、それなら町の様子も結構変わっているかもな」

 その時、僕の脳裏には帰省した時に見た幼稚園があった。廃園になり園庭が荒れ放題の幼稚園。野宮の町もあんな風に変わってしまっていることだろう。

 野宮の家の前まで着くと、彼女は名残惜しそうにシャツの裾から手を離した。

「送ってくれてありがとうございました。明日、楽しみにしてますから」

「うん、僕も楽しみにしてる」

「おやすみなさい」

 彼女はぺこりとお辞儀すると寝静まった家に入っていった。


 クタクタになりながらようやくアパートまで戻ってくると外廊下で加賀さんと鉢合わせした。

 加賀さんはジェラルミンケースを肩からぶら下げて、部屋の鍵を開けていた。どうやら今帰ってきたところのようだ。

「やぁ、こんばんは」

 太陽のような朗らかな笑顔の加賀さんに僕も「こんばんは」と軽く会釈した。

「ライブ、楽しかったです。ありがとうございました」

 お礼を言うと加賀さんは両手を顔の前で振った。

「いいよいいよ、お礼なんて。どうせ使わないチケットだったしね」

「いやぁ、ホントいいライブでした。席だって結構前の方でメンバーが良く見えたんですよ」

「それはよかった。満足してもらって光栄だよ」

「あっ、それから会場でばったり娘さんとも会いましたよ。糸川麻里奈さん」

 すると、加賀さんの目がパチパチと瞬いた。僕の口から糸川さんの名前が出たのが意外という表情だ。

 僕は慌てて彼女との関係を説明した。

「糸川さんは僕の友達の友達なんです。この前、その友達と遊びに行ったときに知り合ったんです」

 本当は石山は友達でもなかったし、糸川さんも石山の友達じゃなくて恋人だ。しかしここでそんな話をしても余計ややこしくなるだけだ。少々簡略化しても不都合はないはずだ。

 僕の説明に加賀さんは納得顔で頷いた。

「それにしても世間は狭いね。まさか君が娘の知り合いとは……。奇妙な縁もあることだ」

 それから加賀さんは思い出したかのように「あっ!」と声をあげた。

「そうだそうだ! 『縁』で思い出したけど、今、私の知り合いの写真スタジオが手伝ってくれる人を探していてね。給料も出るそうだけど、君やってみないかい? 写真撮るの好きだろ?」

 写真スタジオの手伝いか……。どんな仕事かわからないけど写真に触れられるの楽しそうだ。でも僕は明日、ここを旅立つ。二度と戻らない旅だ。せっかくの誘いを断るのは心苦しいけど、僕には無理そうだ。

「せっかくのお話ですが、写真好きって言っても素人ですし……」

「何を言ってるんだ」

 痩せこけた顔で加賀さんは僕の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は黒く活気に満ちた色だった。

「みんな何かを始める時は素人だよ。そこからだんだんプロになっていくんだ。新しいことに踏み出すことを恐れちゃ、もったいないよ」

 加賀さんの言うことはもっともだ。だけど人生に絶望しきった今の僕には踏み出す気力も残っていない。

「それでも、やっぱり僕には無理です」

 加賀さんは残念そうに肩を落とした。ジェラルミンケースが揺れて、玄関ドアにガンッと音を立ててぶつかった。

「そうかい。それなら仕方がない。他の人を当たるよ。でも気が変わったらすぐに行ってくれよ? できるだけ写真好きの人に頼みたいから」

 僕は「はぁ……」と無難な挨拶をして加賀さんと別れた。

 しかしよく考えてみると今まで生きてきて誰かに必要とされたのは野宮以外では初めてだ。なんだか死ぬと決めてからの方が運気が向いてきている気がするのはどういうことだろう。

 自分の部屋に戻って、周りを見渡す。部屋の中は調度品もほとんどなくなり、がらんとしている。残る物は少しの本と音楽・映像ソフト、カメラ、そして必要最低限の生活用品だけだ。

 空っぽの部屋は越してきたばかりの時を思い出させる。キャンパスライフに特に胸を躍らせるわけもなく、ただ日々の定期代と家賃が変わらないのなら通学時間が削減できるという理由だけでここに越してきたあの時。まさかここが終の棲家になるとは一年前には思わなかっただろう。

「明日の荷造りして寝るか……」

 ポツリと呟いた一言は、物が少なくなった部屋によく響いた。

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