第14話 「トーブズ農園の四季」(7)

 いるはずのない者がそこにいた。

 驚いた――など生易しいものではなかった。頭の中が真っ白になり、眼の前の男が現実のものとは思えなかった。

「……お前、ネロス……か?」

 記憶の奥底からその男の名が浮かび、無意識に口にしていた。その時、空っぽの腹が盛大に鳴った。そしておそらく、頭ではなく別の器官が彼の口を動かしたのだろう。

「は……腹が減った……ネロス、肉、肉を喰いたい……」

 一瞬ぽかんとしたネロスが、次の瞬間、腹を抱えて大笑いをした。朝霧が振動した。


「……っておくが、わ、私が……腹がへ……ったと云ったのは、あくまで、昨夜から何も……食……べていないためで……あって……決して口いやしいからでは……かんちがいするな……そして笑う……な……笑うなと云ってるんだ!」

 厨に設えられた食卓で羊肉のももを焼いたものにかぶりつきつつ、ハデスはにやにや笑っているネロスを怒鳴る。ところどころ聞きとりがたいのは、咀嚼に忙しいためだ。

 屋敷に入りこむと、食事ののこりがいくらかあったので、ネロスはとりあえず冷めた羊肉を焼いたものをハデスの前に置いた。飢えた野良犬のように、ハデスはむしゃぶりついた。

 その間にネロスはかまどの火で、大鍋にのこっていた内臓の煮込みと粥を温めはじめた。

「腸詰もありますよ、喰いますか?」

「……食べる!」

「はいはい」

 大鍋の隣に腸詰を並べると、たちまち皮がはぜて香ばしい匂いが立ちのぼる。酒杯に酒を注ぐと、ハデスの前に置き、自分も立ったまま勝手にやりだした。

「人の顔見て、真っ先に肉喰いたい……とはねぇ。肉、喰いたかったんだ?」

「……違う……と……云ってるだろう!」椀につがれた煮込みと粥も、ものすごい勢いで腹におさめつつ「私がそんないじきたな……いわけがない……だろう」

「はいはい、しかし思ったよりのこっててよかったよ、俺もひと晩あんたを探し回ってはらぺこだ。連中、おそらく改めてやってきて、根こそぎ奪ってくつもりなんだろうな」

 熱々の腸詰をかじりながら、ネロスは酒杯を干す。

 ハデスの手が止まった。

「お前……何でここにいるんだ……?」

「あんたの護衛が俺の仕事だ、殿下」

 ハデスは酒杯を手に取った。

「こんな遠くに……どうやって……」

「殿下、あんたが大使館の部屋からかどわかされたとき、部屋の外に下女がいたの、憶えていますか?」

「……いや、記憶にない」

「ポウ河に舟を準備していると、大使たちが口にしているのを盗み聞きして、俺に教えてくれたんですよ」

 はっと顔を上げた。その下女とは、ひょっとしたらネロスといい仲になっていたことを叱責したあの下女のことか?だとしたら、自分は知らないうちに彼女に助けられているのだ。

「それからは追っかけっこだ」ネロスはお手上げという風に手を上げてみせた。「舟の後を追えば行方がわからなくなってるし、もしやと思って探ってみると、どうやら河賊にさらわれたらしい。ロスの奴隷市場で訊ねりゃ神殿に売られたって云うし、その何とかって云う神殿に行きゃ、また売りとばされたってことだし、結局ここに行き着くまで二年もかかっちまったよ、まったく奴隷になってるなんてよ、呆れてしまうぜ」

「む……」

 憮然とするハデスに、ネロスは皮肉な調子でつづける。

「運がよかったぜ、あんた。奴隷として売られて、行方が知れることなんてめったにないんだ」

「私を探してくれたのか……?」

「マールとの契約だ。だがな、ロスでは河賊や奴隷商人どもと、とんでもなくもめちまってな、もう一生あのあたりには近づけなくなっちまったよ」

「……ネロス……礼を云う……」

 絞りだすように、ハデスはかろうじてそれだけ口にできた。我知らず、右手の甲を左手で隠していた。

「契約だ。後はあんたを送り届けりゃお役御免だ……っと、ホントじゃ駄目だ……本国までか?」

「……そうだ、イオはどうなっている?」

「マールの云ったとおり、王派と王弟派だったか、内乱になってるようだ。最近どうなっているのかは、知らない。このあたりにはそんな話も噂でも入ってこないからな」

「……そうか」

 ハデスは深く嘆息した。カーペルはイオという国の名さえ知らなかった。このあたりでイオの情勢を知ることなどできるはずもないのも、当たり前か。

「それよりも、腹がいっぱいになったら急いで出立するぞ。ここはまだ危険だ」

 ネロスがそう云いつつ、じりじりと勝手口の方へ後退した。不審に思う間もなく扉を蹴開けると、陰に隠れていた人影の腕をつかみ、引っ張りこんだ。あっという間もなく、口をふさぎ動きを封じる。

「……カーペル!」ハデスは驚愕した。「……やめろネロス、離せ!」

 ネロスが身を離すと、カーペルはへたりこんだ。

「生きてたのか……」

「……お前も、キア……」

 カーペルの顔色は、もうほとんど死人のようだった。

「スイレイたちは……?」

 訊ねたが、カーペルの顔を見ただけで答えはわかった。みんな……とだけ云うと、うつろに首を振った。

「ネロス、カーペルにも食べさせてやってくれ」

 カーペルはその巨躯の傭兵を見上げて、不審そうな表情を浮かべた。今、ハデスが使っているのはホントあたりで使われるイースター語だ。このあたりとはまるで違うが、この方がハデスは流ちょうに使うことができる。

「カーペル、こいつ、おれの知り合いだ。助けに来てくれた」

 このあたりのなまりで、説明をしなおす。

「助け……?キア、お前は助けに来てくれる人がおるんか……」

 呆然とカーペルはつぶやいた。

「……カーペル」

「……頼むキア、おれも、おれも連れて行ってくれ……何でもする、ここからおれも連れだしてくれ!」

 必死の表情で懇願する。その絶望に満ちた表情は、ハデスの胸を痛くさせた。

「駄目だ」

 ふたりはネロスを見上げた。

「ネロス、言葉がわかるのか?」

「俺はもともとタラで傭兵稼業だったんだ」ネロスが答える。「ここからあんたを無事に連れ帰れるかどうか、それだけでも賭けみたいなもんだ。だがふたりは面倒みることはできない。駄目だ、足手まといだ」

 ネロスの眼は冷徹であった。軽薄にしか思えないこの男の、現実的で計算高い腕一本で戦場を渡り歩く傭兵としての面を、ハデスは初めて見た。

「キア、頼む」カーペルは必死にハデスにすがりつく。「親父もお袋もスイレイもセーレイも、ヘレネももうみんなおらんようなった……この農園ももうおしまいだ……もう死ぬるしかない、おれはこがいなところで死にとうない、お願いだ、何でもするけぇ、おれをここから連れだしてくれ……約束したじゃろう?もしお前が自由になるとことがあったら、おれも連れて行ってくれるって……約束したじゃないか……」

「……ネロス……」

「駄目だ、あんたひとりだけでもぎりぎりなんだ、わかってくれ」

「……ネロス!」

「駄目だ」

「頼む、カーペルは私のたったひとりの、友人なんだ……見捨てて行けない。私もカーペルも足手まといにならないようにする、何でもする、約束する。だから頼む!」

「あんたねぇ、自分の立場わかってんのか……?」ネロスはいまいましげに首を振った。「……こんな厄介ごとあるかよ……くそっ……ついてこれなきゃ、置いていくからな、ふたりとも泣き言云うなよ!」

 カーペルが声もなく涙を流した。両手を合わせてネロスを拝んだ。そんなことをされて、ネロスは見たこともないほどの不機嫌な表情となった。

「このふくろう野郎、とっとと喰え!このばか、ちょっとこっち来い!」

 カーペルは席に着くと、涙もぬぐわずに卓上の肉にむしゃぶりつきはじめた。

 ふたりは屋敷の家人の部屋に押し入る。ネロスはのこった家財道具をひっくり返しはじめた。

「何をしてる」

「路銀だよ、少しでも金目の物、かき集めろ」

 そう云われて、ハデスは初めてそのことに思いいたった。イオまで何か月かかるかわからない。路銀なしでは帰ることなどできない。ひとり増えたなら、その分余計にかかるの当たり前だ。

「ネロス、すまない。カーペルのことは感謝している」

「今さら!自分の身は自分で護ってもらうぞ、それからもどるまでは俺の指示には従え。あんたの身分を気取られたら一巻の終わりだぞ」

 たいしたもの、のこっちゃいないな……と愚痴りつつ、ネロス。ハデスも行為の後ろめたさにはこの際眼をつぶり、化粧台の引き出しを次々と開けていく。多少安物でも指輪や耳飾りをかき集める。

 そのとき、先刻まで彼らがいた厨から、人が争う激しい物音と悲鳴が聞こえた。飛びだしたふたりの眼に、床に倒れ伏したカーペルとふたりの男が映った。

 ネロスはそのまま止まらなかった。抜剣すると同時に、ひとりの胴を切り裂くと、返す一閃でもう一人の胸を深々とえぐっていた。ふたりが倒れるのも見ず、窓から外をうかがう。

「他にはいない、だがもう危険だ、出立するぞ――そいつは?」

「カーペル、カーペル!」

 ハデスが抱え起こすと、すでにカーペルの上半身は血で染まっていた。首筋から、どくどくと音をたてるように血は止まらない。

「……キア……キア……痛い……おれ、死ぬんか……やっぱりここで、こがいなところで、どこにも行けんで……おれ、死ぬんか……」

 抱いた身体の重さを感じなかった。これはまずいと直感したが、それでもハデスは叫んだ。

「大丈夫だ、いっしょに行くぞ、おれの国に行こう、いっしょだ、海も見よう、美味いものも喰わせてやる!」

「キア……」カーペルが指をハデスの頬に伸ばす。「いやだ、こがいなところで死にとうない……いやだ、いやだ……おれ、結局、ここから逃げだせんのか……そがいな……あんまり、だ……おれ……」

 指が無残に床に落ちた。ハデスは自分の頬に触れた。カーペルの血がついていた。

 カーペルはハデスが持つことのできた、ただひとりの友人であった。

 彼との記憶と共判するものは、いつも腹を減らしていたことであり、何かの折に口に入るぜいたく――セーレイが持ってくるもののおすそわけ、ヘレネがこっそり食べさせてくれた豚肉、ちょろまかした魚を焼いた泥くさい白身の熱さ――であった。隣にはいつも彼がいた。

 彼とはもっとも辛く濃密な時間をすごした、手に入れがたい本当の友人と云うべき存在であった。

 息をしていないカーペルの身体を床に横たえる。手を胸の前で組んでやり、意を決して立ちあがった。

「ネロス……行こう……」

 どうしようもなく涙が流れ、視界がぼやけていた。


 後は機械的だった。大急ぎで金目のものを集められるだけ集め、食べのこしもありったけを包みにして背負いこんだ。

 とりあえずまっすぐ敷地を北へ進む。別の屋敷が大人数で本格的に略奪されているのを遠目に見た。危ないところだった。

 途中で馬に乗ったやつらに出くわしたので、ネロスがあっさりと斬り捨てて馬を奪った。ひとりづつ騎乗すると、格段に楽になった。

 途中、バランカスの手勢と思われる連中と出くわすこともあったが、向こうが徒歩ならば無視をして馬の脚で引き離し、あるいは隠れてやりすごした。一度だけ、立派な軽甲冑をまとった者と鉢合わせになり、どうしてもやりすごせなかったことがあった。ひょっとしたら相手はバランカスの息子兄弟だったのかもしれないが、まるでネロスの相手にならなかった。

 トーブズ農園近縁から離れるまでは、常に危険と隣り合わせだった。とにかく人目につかないように慎重に路を選んで、それでも一刻も早く遠ざかる必要があった。彼らは別に手配されているわけではないので、役人連中は気にならなかったが、トーブズ農園の者を皆殺しにしようとバランカスがもくろんでいるのなら、油断はできない。

 少しずつ農園が遠ざかっていく。たった一食のために人が何をしなければならないか、生きるという単純な行為がいかに困難であるか、二年近いトーブズ農園の日々は、王族のハデスが一生かかっても知ることのできない経験を彼にあたえた。その日々が、農園との距離とともに遠くなっていく。

 ようやく人心地ついたのは、七日ほどたってからだった。その日、出立して初めて小さな街道筋の町で宿をとった。これだけ離れれば、もう大丈夫だろうと思ったのだ。気を付けないといけないのは、ハデスが逃亡奴隷と思われることだ。ネロスはいつも手甲をしておくように指示をしているし、万が一を考えて、人目のあるところではハデスを馬から降ろした。馬に乗る奴隷などいるわけがないからだ。

 粗末な木賃宿だったが、念を入れて大部屋をさけて部屋を取った。昨夜まで野宿だったので、屋根の下で寝ることができるだけで、ハデスはありがたかった。互いの寝台に腰をかけ、堅焼きのピェンと燻製肉だけの食事だったが、これでも農園にいたころよりずっとましだ。

「そういえば、気になっていたんだが……」燻製肉に苦戦しつつ、ハデスが訊ねる。「ひょっとして、ネロスお前、前日から農園の様子うかがってなかったか?」

「前日?もっと前からだよ」革袋から濁り酒を一口ごくりとやるとネロス。「あのあたりに着いたのは十日ぐらい前だったかな……逃げるときの経路なんぞを調べながら様子を探ってた。あの寒空の中、野宿だぜ。見つかって追っかけられたのは何日目かだ」

「じゃあやっぱり、あれはネロスだったんだ?」

「あんたからも追っかけられたのか、俺?」

「みたいだな。追っかけていったウルケって末っ子が殺されて、それであの騒動だった」

「俺じゃないぞ、あんな素人連中、あっさりまいてやった」

 心外だと云いたげにハデスが云った。

「知っている、どさくさにまぎれてウルケを殺したのは、あのカーペルだ……待てよ、ということはトーブズとバランカスのいくさのきっかけとなったのは、ネロス、お前じゃないか?」

「とんだ言いがかりだぜ」

 鼻の先で笑い飛ばしたネロス。

 その時、部屋の外で他の泊り客の話声が聞こえてきた。何杯かひっかけているようで、声がでかい。

「……ドロウで何がおきとるって?」

「何やかやだ。何とかいう農園同士のいざこざで、あのあたり一帯、めちゃくちゃらしい。勝った方が近隣を差配しようとして反発食ろうて、役人も手を出せんらしい」

 ドロウと聞いて、聞き耳をたてていたハデスは、眼を丸くした。

「州からも調停が来るかもしれんけど……あのあたりの連中は血の気が多いいけぇ、上手くおさまるじゃろうか……」

「なんでまた、そがいな……?」

「噂じゃ、もともと仲は最悪じゃったけど、一方の農園主の末子がもう片っ方の連中から闇討ちのなぶり殺しにあって、それから全面抗争だったらしいぜ」

「ほう……くわばらくわばら、当分近づけんな」

 ハデスはネロスに視線をもどした。

「……ここまで噂は伝わってるみたいだが……闇討ちのなぶり殺しときたか……ずいぶん話に尾ひれがついたな。ネロス、原因はお前らしいぞ」

「濡れ衣だ、俺が誰を助けに行ったと思うんだ、理不尽だぞ」

「やっぱり……」ひどく不審な眼でにらみつける。「とんだ“疫病神”だな、お前は」


(第14話 了)

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