第14話 「トーブズ農園の四季」(1)
鶏鳴――
あぁ……
はるか彼方の山妖のささやきのようにかすかであったそれに、ハデスの意識の奥底が、無情にも反応した。
鶏が……鳴いている……
つまり……
身体は疲弊しつくしているはずなのに、到底再び目覚めるとは思えないほど泥の底に深く深く沈みこんでいたようにしか思えないハデスの意識を、無理やり払暁へ呼びもどす。
泥の中から浮かびあがってくるにつれ、きりきりと胃の腑を責めさいなむ疼痛もまたよみがえる。ここのところ、毎朝こうだ。
いやいや薄目を開けると、粗末な板壁の隙間から、まだ昇りきっていない陽光がうっすらと山野を明らめている様がうかがえた。
鶏の声に反応するように、奴隷小屋のあちこちで人のうごめく気配がする。
「……くそったれ、くそったれめぇ……もう朝じゃと……」うんざりするようなうめき声も聞こえだした。「パーンの存在しない千ともうひとつめの顔にかけて……カラカラ神の二枚舌にかけて……疫病神のふりまく災厄にかけて……馬頭神イェルファンの黄金のたてがみで編まれた鞭で鞭うたれる罪人にかけて……」
ご大層な名なのに、その愚痴や不平から不平屋というあだ名でしか呼ばれない男である。毎朝、十も二十ものうらみごととともに、ぐずぐずと起きだすのが習いである。
「不平屋よぉ、お前さんのご立派なおふくろの貞操にかける必要はねぇのかよ?」
誰かがいつものようにからかい、周りの者が鈍く笑い、それを合図にするように一同はいやいや身体を起こしだす。毎朝のことだ。
ハデスも湿っていやな匂いのしみついた寝藁から、のっそりと身体を起こした。 この農園に来て三月ほどになるが、身体はようやくこの生活に慣れつつあるようだ。それでも身体はいつも熱っぽく、頭はかすみがかかっているように働きがにぶい。
奴隷には便所もない。奴隷小屋の脇の手つかずの木立で彼らは大小便をすます。その匂いから、誰も好き好んでこの辺りに近づく者はない。ハデスもまた木立に入る。他の者の排泄物を踏まないように注意しつつ、いつもの樹の幹のかたわらに立つと、ズボンを引き下げ排尿をする。木立のあちこちで、他の奴隷たちの気配がする。
――また朝が来た……
また一日がはじまる。先の見えない一日がだ。
重くのしかかる絶望と諦め、決してぬけることのない疲労と空腹、そして胃の腑のしめつけるような痛みにさいなまされたハデスにとっては、朝が来てしまった、動きださなければならない朝が来てしまった……とでも呪詛の声をあげたくなる朝がだ。
* * *
あの日――ホントの大使館で国王派の大使に拘束されて本国へ連行される途中、河賊にかどわかされハデスは奴隷として売り飛ばされた。
最初に彼を買ったのは大きな神殿であった。下僕として買われたが、すぐ高位の神官の手がついた。教義により女人禁制であったその神殿では、そのようなことが当たり前であった。
意外であったのは、彼をめぐって複数の神官が争う事態が発生したことである。ハデス自身信じられなかったが、衆道好みをそそらせるものがあったのだろうか。
それにしても、徳をつんだ老いた神官たちがさかりのついた犬のようにハデスを争ったことは、呆れるほかはない。ついには流血沙汰がおきたことにより、ハデス自身には何ら咎はなかったが、諍いの原因とのことで、半年ほどで再度売り飛ばされる羽目となってしまった。
奴隷市場で買われた先が、ベルセーヌ大陸の内陸タラの大平原に近いトーブズ農園であった。先の神殿領よりもさらに南下し、ホントからも、そして無論イオからはもさらに離れた。
* * *
初秋の朝は明けかけている。ここ数日、夏の気配が薄まりつつある。
まだ薄暗い時分、ハデスたちは母屋の勝手口で、使用人から朝食の木皿が渡される。彼ら外働きの奴隷は、母屋へ入ることは禁じられている。
それを屋外で、立ったまま、あるいは座りこんで食べる。木皿の中身は、使用人用に焼かれたピェンのさらに半端ものだ。薄い粥のときもあるが、これにあぶった小さな魚の干物でもつけば、よいほうである。投石にでも使えそうなほど硬いピェンは、時折発酵の失敗で、すえたものすらあり、口の中でやわらかくしなければ容易に腹の中におさまってくれない。かつてはあれほど嫌いだったすえたピェンが、ここではひとかけらでも多く腹におさめたくてたまらないものである。満たされない空腹は、井戸にでも行って、水でも飲むしかない。
空腹であるが、胃の腑の痛みで食欲はまるでない。それでも食べるのは、生きるため、身体が命じているようであった。
ぼそぼそとした無言で陰気な朝食とも云えない腹満たしが終わった後、使用人頭からその日の仕事が割り振られる。
この時期は、春植えの麦や豆の収穫や冬に備えての準備で、一年で一番忙しい時期だ。
トーブズ農園は代々一帯に根を張る豪農であり、それこそ見渡す限りの畑では、地平線まで黄金に実る麦たちがこうべを重くして収穫を待つ。使用人だけで三十人、奴隷たちを入れれば百人近い働き手が、この時期、広大なトーブズ農園の刈り入れに従事することとなる。
もちろん刈り入れから束ね、荷運びといった重労働に真っ先にこき使われるが奴隷たちだ。使用人たちは荷馬車に乗って農園に向かうが、ハデスらは犂や鍬を肩にかついで、徒歩でその後をついていく。
「キア」
耳元でそっと声をかけてきたのは、カーペルである。背丈はハデスと同じくらいであるが、もっとやせている。幼いころからの畑仕事で細いが仕事慣れをした身体である。赤みがかった黒髪で、柔和そうなたれ目、頬にはあばたがのこる。農園に来た当初から、歳が近いこともあってか、気をつかってくれている。
ハデスとは違い、奴隷の両親から産まれた彼は、産まれながらの奴隷である。
キア――最初にこの地に来た際、言葉が通じにくかったため、ハデスがからかわれた言葉――「誰?」――が今はここでの彼の呼び名である。
「今日は東のマトン丘の下の畑から刈り入れるって云うとったけぇの、できるだけ南端に近い方に入るんじゃ」
「どうして?」
「傾斜がねぇんじゃ、そっちのほうが楽じゃ」
予定していた畑に到着すると、使用人頭の指図で刈り入れ組たちが大鎌をかついで一列に並ぶ。ハデスやカーペルもこの組だ。
「お前ら臭ぇんじゃ、もっと向こうへ行け」
使用人のひとりが顔をしかめながら、ハデスたちに居丈高に云いはなつ。
使用人たちは特別に性根が悪いわけではないだろうが、身分が低く臭く汚いものを見下すのは当然だ。奴隷たちには自然と横柄な態度となる。
ろくすっぽ身体を洗うこともできないハデスたちは、確かに垢だらけで異臭を放っている。農園に来たころはハデスもできるだけ川で身体を洗ったものだが、じょじょに億劫になっていった。離れた川まで行く余裕があるのなら、少しでも寝藁に身を横たえたい。
肌は幾重にも垢がたまり、髪は脂くさくなっていく。
身体中、常にのみやしらみがたかり、虫のかみ痕だらけだった。かゆくてかきむしり、かいたところが膿となり血がにじみ、かさぶたとなった。
手や脚はひび割れて土や灰で真っ黒となり、もういくら洗ってもおちない。
それにすり傷や切り傷、打撲の跡の青あざ――荒れてない箇所など、身体のどこにもない。
食べるものも粗末なうえに満足に口にできないので、裸になればあばらが数えることができるほどに痩せてしまっている。畑仕事をする部分だけはしっかりと硬くなるが、それ以外の箇所は衰えていくようだった。まるで身体が、わずかな喰い物を効率よく配置しているかのようだった。
これが奴隷の身体なのかと、ハデスは愕然としたものだ。
カーペルとハデスは、使用人が邪険にしたことをよいことに、一同からうんと離れる。見てみると、使用人たちも他の奴隷たちもカーペルが云った傾斜のある方で鎌を使いはじめた。ハデスも片腕ほどもありそうな大鎌を使いだした。しばらく刈りすすむ。
残暑の中、一刻も作業をつづけていると、使用人たちからはうらみがましい声が聞こえだした。すぐにはわからなかったが、確かにハデスは自分がそれほど疲れていないように感じられた。
「ばかじゃ、使用人どもなんて、毎年毎年同じこと繰り返しよるのに、どげぇすりゃ楽に仕事できるなんて、これっぽっちも考えちゃおらん」
カーペルがぽつりとつぶやいた。その表情はいらだしげであった。
「みてみぃよ、この時間は使用人頭は別の畑は回っとるけん、連中、すぐに休憩をはじめて、おれたちに仕事をおしつけるでぇ」
カーペルの云ったとおり、それからしばらくすると、使用人たちは奴隷たちに仕事を命じると、一服と称して木陰に腰を下ろした。奴隷たちは不満げだが、逆らうことはできない。のろのろと刈り入れをし、荷車へ積んでいく。不平屋の文句が風の中、切れ切れに流れる。
使用人たちは使用人頭が回ってくるころには、要領よく仕事にもどる。あまつさえ、仕事のすすみが遅いことを奴隷たちが動かないからとごまかそうとする。
このような光景は、この農園に来てからハデスはたびたび目撃をした。使用人たちは仕事ぶりを監視する者がいないと、平気でさぼる。要領よく立ち回ろうする。給金をもらっているのにだ。無論、奴隷たちも同じだ。できる限り手をぬこうとする。
意外だった。下民たちは指示をされれば、牛のように愚直に諾々に従うものとばかり思っていたからだ。しかし上の者がいなければ、彼らは平然とずるをする。
自分が使っていた者たちも、そうだったのだろうか?奴隷の身分に堕ちなければ見えなかったものだ。
使用人たちがどこかで手をぬいていようと、農場主にとっては刈り入れしなければならない分については、きっちりと収穫しなければならない。
早朝から暗くなるまで、彼らは麦や豆の収穫に追いたてられる。刈り入れた麦は粉に挽き、同時に次季のための種蒔きの準備をすすめなければならない。穀物にしても、挽いた後の殻はふすまにして豚や鶏に喰わせる。そうこうしているうちに、冬の蓄えのため豚をしめて腸詰や塩漬け肉作りがはじまる。
種を蒔くにしても、毎年同じ畑を使うわけではない。麦を作る畑、野菜を作る畑、その年ごとに入れ替え、何年かごとには休ませて地力の養生もする。森の開墾も井手の開削も、計画にそってすすめられている。毎年漠然と種を蒔き、刈り入れをするわけではない。
牛や豚、羊や鶏も養う数、つぶす数も管理されている。農場主は何年もかけて計画をたて、それにそって経営に従事している。ハデスはそのことを初めて知った。
眼がまわるような日々の中、初秋はいつの間にか晩秋へと移りつつあった。あれほど強力な日差しが、いつか衰え、風の冷たさが感じられるようになった。
ここに来た当初は、何とか逃げ出せないかといつも考えていた。だが一日一日がすぎていくにつれ、それが途方もなく困難なこととわかってきた。
まず自分がどこにいるのかすら、わからない。イオからどれぐらい離れているのか、想像もつかない。イオからすれば、途方もなく遠く感じられるホントからすら、トーブズ農園がどれほど離れているのか見当もつかない。
ベルセーヌ大陸の中央に、タラ大平原があることは知っている。トーブズ農園がそこに近いということは、奴隷市場から連れてこられる際に、まわりの者の話で何となく理解した。だがトーブズ農園がタラに対して北にあるのか南にあるのか、それとも東か西か、それすらも不明だ。そしてタラの大平原は、ハデスの知識ではイオの十倍の広さはある。
奴隷たちの話では、農場主すらホントへは行ったこともないらしい。
彼らが口にする神々の名も、ホントのあたりでは聞いたこともないものがある。
夜の星すら、イオとは異なる。海竜座や双子の黒羊座など、初めて聞く星座が夜空に広がっている。
また言葉もろくに通じない。ハデスの学んだイースター語は、主に都であるホント周辺の正統な半島語であった。以前買われた神殿は半島に近かったので難なく通じたどころか、一部では古典でも使われる雅なイースター語であった。しかしタラ大平原の縁辺のこのあたりで使われる言葉はなまりがありすぎ、ほとんど通じない。イーステジアほど広大になれば、当然のことであろう。
最近はどうにか意思の疎通ができるようになったが、キア――「誰?」――と今は呼ばれるように、とても流ちょうに話しをすることなどできない。
さらに、この広大なベルセーヌ大陸を逃亡する手立ても金もない。右手の甲には、奴隷の焼き印が痛々しくのこっている。野や山には飢えた山犬がうろうろしており、所によっては群れをなして、騎馬すら襲われかねないという噂だ。身ひとつで逃げ出しても、十日と生きのびることもできないだろう。
現実をひとつひとつ理解していくにつれ、そして毎日ろくに食べることができないことから朝から晩まで消え去ることがない空腹と、奴隷仕事による耐えがたい疲労は、ハデスの若い肉体から気力や反抗心、矜持を少しづつ奪い去っていく。
今は、崩れ落ちてしまいそうになるイオへの帰還の意思を保つのに精いっぱいだ。
(――このままここで朽ちていくのか……?)
考えるだに、背筋が凍るほどの恐怖に襲われる。しかし彼が突きつけられている現実の重さは、その恐怖すらも押しつぶしてしまう。
毎日がその繰り返しだった。疲れ切ってくさく湿った寝藁にもぐりこんでからも、この煩悶がおとずれず、胃の腑のきしみとならない夜はない。
それでも奴隷仕事の疲労は、その煩悶すらや疼痛もやすやすと呑みこんでしまい、ほんのわずかな恩恵であるわずかな眠りを、残酷にもたらすのであった。
(つづく)
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