第2話 「賢帝略伝」(前編)
「エリア・アエリウス・ヴァイドゥーリア・ファ・アデナ・ヲ・カタロイウス。
イーステジア帝国四十四代皇帝。父はアレニウス四十代皇帝、母はアデナ氏。
黒曜暦五一二年生、六〇一年崩御、享年八九歳。
(中略)
性仁愛にして賢俊なること甚だし。以って賢帝と謳われり」
『黒曜讚史「賢帝略伝」』より抜粋
* * *
深更――静まりかえった寝室は、常夜灯のほぞが、かすかにはぜる他は何の音もなく、薬湯の匂いが、ぷんと強くただよっていた。
紗幕に覆われた寝台に、ひとり横たわる老爺の相貌には深い皺がきざまれ、かつては豊かに波打っていた漆黒の髪も髭も白く染まり、その体躯は豪奢の臥台の中にあって驚くほどにか細かった。
賢帝と讃えられた至高の者は今、病臥の中にいる。
病臥にあって、意識はなかば夢幻の中にたゆたっていた。
夢をみているのか――と、想った。
死ぬ瞬間、人は生まれてから死ぬまでの人生を須臾の間に心の中で再現すると、したり顔の学者が云っていた。いや、あれは卑屈な眼をしたトラス神殿の高官だったか……?若いころ、やつめ王宮で権勢をふるったものだったが、いつか失脚して、もうとうに姿も見ていない。
彼だけではない。あまたの者が現れ、消えていった。生を全うした者、血の代償をはらった者、さまざまであったが、老いた皇帝には理由など、もはやどうでもよい。
今は、妙にふわふわした心持ちで自分の生の、残滓めいた薄さを感じているのみだった。
あぁ……うめいた声は彼の脳髄の奥でしか響かなかった。
茫――と何かがおしよせる。
また来た、と思った。
漣に似たものだ。何度もくる。静かに、しかし執拗に、大事なところを乗りこえようとして乗りこえられず、また引いていく。遠い景色がちらついていた。
これは見た憶えがある。憶えているぞ。
どこであったろうか?
憶いだそうと努めるより先に、どこかで見た景色、光景はたがいにぶつかりあって、無数の破片となり、また異なるものをあらわにする。
これはどうであったか?――わからない。
また来た……弛緩した感覚で記憶をたどる。間に合わない。
記憶が紗幕でおおわれている。その向こうに何があったか?
何とまどろっこしい。幻に触れようとしているようだ。薄明るい景色の中にとけこんでいく。
やはりこれは夢なのか。
今自分がみている夢――正確には脳裏にうかぶこれらの光景、記憶――は断片が刹那にひらめき、あるいは妙に間延びし、あるいは静止をし、時には自身の経験とは別の視点でとらえたりと非常に不規則だ。
夢は追いつけない速さで舞う。
舞い、そしてきらめく。
これは夢か?
引く。引くのも、砂にしみこんでいくかのように引く。しみこんで、どこへ行ってしまうのか?
きらめく。また散華した。そしてまたきらめく。
やはり追いつけない。
かたわらに、誰かが立っているような気もする。かわりに、手を伸ばしてくれないかと思うが、そう思った途端、やはりひとりであったことに気がつく。誰もいない。何も見えない。
また来る、そう思った。
そして来た。無数のゆらめきがあった。
わかった。あのときのことか。思いいたった。そうか、今宵はあのときのことが来たか……
自然と笑みがこぼれていた。
漣のようなものが、賢帝を呑みこんだ。
* * *
日の没することなきイーステジアの香都ホントで、その至高の座に座した者は、エリア・アエリウス帝で四十四人目となる。治世は五十年以上にわたった。
幼少より学を好む賢能であり、温厚かつ公正な人柄で情が深く、芸術を愛する華やかな容貌は、帝国領民からは非常な人気を博し、この上ない尊崇を以って讃えられた。
その反面、日和見で優柔不断でもあり、皇祖レムスや帝国の版図を倍増させた武帝シベリウスなどにくらべれば、その政治手腕は凡庸なもので、まずまずは及第点と云ったところであったと思われる。“賢帝”とはいささか誉めすぎであろうと自身苦笑せぬでもないが、しかし周囲もいくらなんでも“凡庸帝”などと讃えるわけにもいくまい。
父である四十代皇帝が崩御した後の六年間で、ふたりの兄とひとりの甥がその座を得たが、いずれも皇宮の権力抗争の挙句に、短命に終わっている。
その後の、妥協と権力抗争の停滞の意味合いが強かったエリアの即位であった。 四十代皇帝の五男として長じたため、本来ならばその座に着く可能性は少なかったはずだが、帝国の長き歴史の中でこのような事例は決して珍しくはない。しかしその治世において、帝国がしばしの小康を得たのも事実である。ゆえにエリア帝は、中興の祖と讃えられる。
実際、およそ五十年にもわたるその治世は寒暑ときを違えず、規模の大きな動乱も少なく、比較的安定していた時期である。これは彼の功績というよりも、ベルセーヌとノイマンド、巨大なふたつの大陸でくりひろげられていた動乱が、たまたま下火となった時期であったためであろう。またそれまで皇宮を中心とする陰湿な権力闘争も、エリア帝の即位により、とりあえず落ち着いた観があった。
幸運にめぐまれたのであろうが、その座に甘んじて政務に興味を持たない皇帝も数多いたことを考えれば、かたわらをかえりみない無謀な野心こそはなかったが、自身の責務に対しては強い自負と矜持があった。
ソーヌのアヴェラ銀山の規模を拡大し、収益を大幅に増やした。またそれまで野放し状態に近かった近隣海域の海賊の取り締まりを強化し、街道の整備を積極的におこなった。銀行の制度を整備して貨幣の流通をうながすとともに、商人の株組合にも強引に介入して、確実な貢納による税の増収をはかった。一方、神殿の特権に手をつけると同時に、多くの所領を寄進して隆盛をはかっている。
長年の懸案であった財政上の危機は、とりあえずひと息ついたかたちではあったが、国威の維持については彼の手に余り、必ずしも成功したとはいえないようだ。
帝国の威に従わぬラベリアナやヌアール、イオなどの国境を接する諸国は、大規模な衝突こそないものの、近年ますます力をつけ、もはや蛮族などと軽視することのできない確固たる国である。国内においては、弱体化する十王家に対する抑制を強めるものの、伸張してくる帝国内諸公の影響を排除しきれなかったことが、賢帝の死後帝国の衰亡をまねいたと、後の批判も大きい。
その一方で風流を解し、詩篇や絵画、彫像などにも非常に興味をしめしている。自身いくつもの優れた詩をのこし、多くの芸術家たちのパトローンとして芸術の振興も推しすすめた。爛熟のきわみにあった香都の文化は、彼の代でみごとなまでに花開き、退廃にいたる最後の瞬間のあだ花と云えよう。その爛熟の中で賢帝自身、美姫との交歓に耽溺をし、公式に知られているだけで五十九人の子をなしている。
このように、政策は表面的にはおしなべて意欲的であったが、その反面、八方美人的で情緒に流された面もあり、ある意味彼自身の日和見的性格をあらわすものともいえるかもしれない。
このエリア賢帝の治世を、俗に「エリア帝の治」と云う。
その治世はおおむね安定をしていたが、やはり衰えゆくものを再度盛りかえすまではいたっていない。そしてイーステジアの国力は賢帝の死を境として、それまでかろうじてくいとめられていた衰退に、急激に拍車がかかることとなるのだった。
ゆえに「エリア帝の治」とは、後に動乱前の最後の平穏期をあらわす言葉ともなっている。
いかに小康状態であったとはいえ、その中で重要な局面も限りなくあった。賢帝自身がとりわけ強烈な野心に燃えていたわけではないが、まつりごとの中でぬきさしならぬ決断を迫られるときがある。
まずあげられるのが十王家の一王家、カレーナ家の取り潰しである。
創建時、功績のあった諸王のうち、もっとも強大な勢力を持つ家を、帝国は十王家として皇家に次ぐ家格として重用した。しかし後に、皇室の藩屏たるその権門は国体の維持のためにむしろ障壁となり、皮肉なことにある時期から皇帝にとってその勢力を削ぐことが重要な課題にもなっている。
無論、十王家も黙って拘狗煮らると云うわけにもいかないので、当然そこに熾烈な抗争がくりひろげられることとなる。その抗争こそが、帝国の弱体化の一因でもあった。
そのとき現存していたのは五王家のみであり、カレーナ家の取り潰しにより、のこるのは四王家となる(しかし、以降も十王家と呼ぶ習わしはのこる)。
また賢帝の治世を語る場合、特筆すべきがカイネウスの謀反であろう。
発端は瑣末なことであった。およそ二十年前、権力争いに敗れた重臣ストゥが、実入りの少ないカイネウス地方一帯を拝領し左遷されたことであった。
賢帝自身は抗争に介入をしていなかったが、周囲の重臣たちはひとたびホントから放逐し、後にゆっくりと権力を剥奪し牙をぬきとるつもりであったようだ。
しかしカイネウス公ストゥの動きは俊敏をきわめていた。
カイネウス一帯はもともと土豪の力の強い地方であったが、どのような手管でか、ストゥは有力部族たちを取りこむことに成功し、その影響力を広げていった。
帝国領内には、同様に強力な武力で領邦化した公領がいくつも存在するが、カイネウスの伸長は信じがたいほどの勢いであった。彼が他領のように数十年かけるのではなく、なぜあれほどまでに急激に推しすすめようとしたのかは、彼がみまかったことによりもう誰も知るすべはない。
従三位の高位にあったストゥを、無論賢帝は知る。年長ではあったが、都での彼に、さほど才気を感じたことはない。それが生の最晩年で、突如変異のごとくにかような猛々しいふるまいに走るとは、想像もつかなかった。
無論ストゥのこのおこないは、帝国を揺るがす大事となった。
明らかな謀叛である。
賢帝にとっても晩年になり直面する、最大の難事であったろう。
ストゥによるオルニア周辺の掌握を、反逆の罪をかぶせて排除するにはむしろよい口実だと当初は甘くみていた重臣らも、これにはたまげてうろたえたという。あわてて対処しようにも、陰湿な政治闘争が尾をひく宮廷は機敏に動くことはかなわず、報からひと月もたつのに、討伐の責任者を決定することすらできないありさまであった。
結局、強大な領邦が誕生するのを好まない周囲の公領主たちによる個別の戦線が展開され、みっともなくも帝国はその尻馬にのるかたちで、北へ兵をすすめる。
ここで迅速な措置をとることができていたら、事態はもう少し違ったかたちになっていたかもしれないが、この件については俊敏さを欠いていたのは事実である。
しかしこれは殿上人同士の権力争いから発したものであり、賢帝のもとに話があがってきたのは、事態が悪化した後である。風通しの悪さが、最悪な事態を招いた。賢帝はそれを長く悔やむこととなる。
そのくせ、北の小国の謀反など一陽来復のまつりまでには終わるだろう、新年には凱旋するであろう――などとホントの重臣たちは、ものごとをあまりに安易に考えていた。
出陣前に殊勲の談義をするなど、まことに呑気なものであった。
バトゥ率いるカイネウスの叛軍の抵抗は、皇宮に巣くう重臣どもの予想もできなかったほどの手ごわさであった。
攻められる側が、おとなしく首をたれて待ってくれているとでも思っていたのか?彼らにも牙も爪もあろうというのに。
精鋭を派遣したビルドやクロシアなどと比較しても、具体的な指針もなく出陣した皇軍の質の低さは目立った。
指揮をとったのは皇族のひとりであったが、後に賢帝がひそかに、やつを出すぐらいなら、剣もろくに振るえない自分が親征した方がまだましだったか……と憮然としたほどの体たらくであった。
そのくせ権高な意識はそのままで、あまたの諸侯豪族たちを仕切ろうとするも、やることなすこと筋をはずし、表向きの慇懃無礼とは逆に、連中の手綱をとるどころか触らせてももらえないありさまで、ひそかな失笑をかっただけだあった。
とにもかくにもこの戦役により、帝国中枢の危機に対する鈍感さ、弱体化は多くの者の眼にあきらかとなっていった。
戦線は容易に収束せず、あしかけ四年にもおよんだ。それどころか主力のビルドの公叔とストゥの嫡子が戦死するなど、戦局はますます泥沼化していくことになる。
かくも長き停滞となろうとは、誰も予想はしなかった。
斬りつけた側は、肉にからめとられた刃を引くことがかなわなくなっていた。
斬りつけられた側は、間合いをとられることを恐れた。
戦陣はどうしようもないぐらい、膠着した。
誰もが倦みぬいているにもかかわらず、もはや一歩も引けない状況となってしまっていた。
(つづく)
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