第1話 「禿頭公子の冒濫」(4)

 通報してきた町役に警吏らがいざなわれたのは、オルニアの中心を流れるクスニエスカ川の堰のひとつである。真北から流れてきた川は、オルニアを通過すると南西に進路を変えてヲリア海へ流れこむが、市内のあちこちには川港が設えられている。オルニアがカイネウスの本貫地となったのも、元々はこの立地の条件のよさである。

 川港や堰ごとに、周囲の街並みにより異なった気風が生まれ、たとえば東の弐番杭から伍番杭にかけては、近くの神殿の荷揚げや頻繁な巡礼者の乗り降りがあるため鷹揚で裕福な気質が育ち、逆に西の外れの河岸では貧民が寄り集まり荒っぽい気風が醸造される。その日、朝早くから警吏らが町役に案内されたあたりは、オルニア街中でも物騒な一画である。

 警吏らは垢くさい野次馬を横柄にかきわけ、桟橋からのぞきこむ。半ば凍結した川面から突きでた桟橋の木杭に、男の背中がかすかにゆれていた。こんな朝っぱらから物見高い野次馬たちは、厄除けの印を形ばかりに切り、ちちと数度舌打ちをすると、これでもう安心とばかりに身を乗りだしてその様子をうかがう。

 男は何もまとってはおらず全裸であった。いつから水につかっていたのであろうか、薄皮一枚の下は、はじけそうなほどにぶよぶよと膨れあがり、気色が悪いくらいまっ白な肌は、巨大な蛞蝓のようであった。

 早朝のため、凍てつくような寒さである。人死には珍しくはないが、かと云っておもしろいはずもない。水気をたっぷり吸って重くなった屍をこれから引きあげる面倒を考え、警吏たちはうんざりと同輩同士で顔を見合わせた。


 別件の審理の打ちあわせをすませ部屋を出たコルネリウスに、部下の検事官が駆けよってきた。

「先日の殿下の件で」小柄なコルネリウスに合わせて腰をかがめ、耳打ちをする。「行方のわからなかった東宮の従僕の遺体が発見されました」

「……間に合わなかったか」

 コルネリウスは小さく嘆息した。

「遺体の具合から、失踪直後には殺害されていたと考えられます。腹の急所を一突きにされていました。まず間違いなく口封じでしょう」

「ぬかりはないということか」

 つぶやき、コルネリウスはそのまま沈思する。

 唯一の手がかりを絶たれてしまったと思った。おそらく尻尾をつかまれるような真似はしていないだろう。彼には事件そのものが、紗幕の裏側に消えてしまったように感じた。自分はその向こう側でささやかれる演技者たちの声やしわぶきをかすかに聞き、ひそやかに動き回る気配をわずかに感じとることしかできない。彼らが何を演じようとしているのか推し量ることしかできない。

 ふと、あの公の部屋を訪ねた夜のことを憶いだした。すでに近侍していた将軍アイマスの端正な、しかしどこか自分をあざ笑っていたかのような顔がうかんだ。彼らが考え命じ、彼ら以外の誰かが実行する。動かぬ者は高みの見物である。自分のような立場の者が右往左往するのを、笑いながら見ているのだ。

 あの夜、公子襲撃の報を聞き、彼が公の元へ急いだのは、たとえ公であろうとそのような傲慢さに対する容認しがたい怒りゆえにであった。いかに公とはいえ、子殺しなどは人倫にもとり、国を乱す。

 だが公はまるで厚い壁のようにそびえ、コルネリウスの心情などでは微塵もゆるがなかった。

 自分たちがあずかり知らぬところで、この国は彼らのような立場の者によって動かされていくのか……そして今また、彼らの都合により無造作に人の命が失われ、公位の継承をめぐって血なまぐさい争いがおきようとしているはずなのに、それはまるで特別に設えられた部屋で、限られた立場の者しか参加することが許されない遊戯のようだ。

 自分は何と無力なのかと、コルネリウスは疎外感にさいなまされる。自分は糾弾する立場としてさえ、その争いの中に組み入れられていないのだ。

「司法官様、これから……いかがいたしましょう?」

 検事が戸惑いがちに声をかけてきた。我にかえると不安そうな表情に気がついた。

「実は現場の警吏たちが、この件に関わるのを厭うております」

 彼の及び腰ももっともだと、コルネリウスは自嘲ぎみに思った。公族の醜聞に介入することへの恐れが彼らにはある。これ以上の捜査は徒労に終わる可能性が高い。従僕の捜索までは何とか引っ張ってきたが、その死により彼らから急速に熱意が失われていくだろうことは想像に難くない。

「殺害された従僕――彼の者の意思であったか、理由があったか、あるいは強要されたのか、それはわからぬが――陛下と殿下の確執の果てに血が流れている」コルネリウスは低くさとす。「手を引くことはできぬ。職責は果たさねばならぬ」

 部下の苦しい立場も、彼にはよくわかる。しかしこの件、ないがしろにはできない。

「……ひとりふたりほどは、何とか動いてくれそうな者はおります……」

 ためらいながらも、検事は答えた。

「……頼む」

 それでも従僕の殺害も含めての再度の捜査を命じ、検事を下がらせた。ひとりのこされたコルネリウスが見上げる回廊の小さな窓から、冬の空を背景として宮の屋根がわずかに垣間見えた。

 そこは親子で争う狼の巣であった。親が子を弑虐しようとしている。子はその親の喉笛を喰いちぎろうとしている。バトゥとダゴン、両者にいかなる崇高な理念があろうと、それはもう汚されてしまっている。

 事件の背後にある公と公子との根暗い確執と、それがもたらす不吉な将来の予感に、矮躯の司法官は暗澹たる想いにかられた。


 一方、ナボコフの屋敷に滞在しているサダナの動きはあわただしかった。何度か屋敷をぬけ出し数日留守にしたかと思うと、いつの間にか戻ってきて、与えられた部屋でどこの誰とも知れぬ者と何やら密談していることもあった。何度かダゴン自身がナボコフの屋敷を訪れたが、都合によってはドーレが従えない日もあり、彼をやきもきさせた。

 ナボコフとサダナとはよく杯を交わすことがあったようだが、話の内容はもっぱら愚にもつかないものばかりであった。

「東宮の従僕が見つかったそうだな」

 ある夜のことであった。ナボコフが鼻を鳴らしながら杯を乾す。

「予想どおり、これだ」

 サダナは手刀で頸をとんと叩くと苦笑する。

「まぁ生かしてはおけんだろうな。金にでも眼がくらんだのか、愚かなことをした」ナボコフは酒のつまみとして準備させた、香辛料で辛く焼いた羊肉をつまみつつ「手を下したのはバルドールの手兵か?王も酷なことをさせる」

「仕方あるまい。それより、こちらがバルドールのことをつかんでいること、あちらは察しているのか?」

「さて……だがおそらくお主のことは知れているだろうな」

「まいった」サダナは酒甕を傾ける。「これで俺もめでたく逆臣か。後戻りできなくなったようだな」

「首が飛ばんように、せいぜい気張るのだな」

「む……」サダナが酢を飲んだような表情になった。「時に、殿下はどのように仕掛ける腹なのか?」

「わからん。何しろ今のままでは手出しできぬしな。しかし長引けば殿下の方が不利だ」

「まずは狐を巣穴から引きずり出すのが先決か、それとも危険を承知で巣に潜りこむか……」


 同じころ、ダゴンもまた私室でドーレを相手に酒盃をかたむけていた。もっとも酒に弱いドーレは、もっぱら酌をするばかりであったが。

 その夜は雪も風もなく、窓の外は静寂をたたえていた。窓板ごしに梟の声がかすかに聞こえてくる。

「例の従僕が屍体で見つかったとのことです」

 ドーレが報告をする。酒盃を持ったダゴンの手が、一瞬だけ止まる。

「申し訳ございません。買収されていることに私が気がついていれば……」

「気にするな、そやつでなかろうと、いずれ誰かが寝返る」

 そう云ったダゴンはしばし沈思する。

「それよりも殿下、ナボコフの屋敷へおもむく際は必ず私をお連れください」

「急な話もあるのでな、なかなかお主との都合がつかぬ」

「それでもです」やや語気を荒げ、そして彼には似合わず乱暴に酒盃を乾した。「殿下、それよりもあのサダナと云う男、なにとぞ気をおゆるしになられませんように」

 今度ははっきりとダゴンの手が止まった。

「いかにナボコフ殿のご推挙とは云え、殿下がなそうとしておられることの重大さを考えたら、どのような者でも二の足を踏むのは必定。怖気づく可能性もあります。無条件で信用してよいものか……」

 ドーレは慎重に言葉を選ぶように云う。ダゴンはそのような彼を凝視するが、やがて酒盃を無言で乾すと静かに口を開いた。

「あいにくと私は、借りられるものなら猫の手でも借りたいところだ。シレーンやアレースの加護が望ましいが、人たる身、お主らに頼る他はない」

「くれぐれもご油断めされますな。俗にホントへ至るにはどのような道もあるとは云いますが、ホントへの道にも蹴つまづく暗闇があるとも云います」

「わかった、気をつけておく」

 苦笑した。

「ところでもうひとつ……」と今度はわざとらしく咳払いなどをしつつ「昼に妃殿下にお会いいたしました」

「む……?」珍しくダゴンの表情に狼狽がはしった。「何と云っていた?」

「最近、ことにご多忙のご様子ですが、たまにはご機嫌うかがいなどしていただきたい……とのことです」

 カイネウス公子ダゴンの妃は、イーステジア帝国の今上帝の娘である。公式には五十四人の子をなした帝――ひそかに認知をしている、もしくは認知をしていない、また気まぐれに情を得た挙句、その存在すら知られていないのではないかと推測されている尊き黄金の血脈は、この他およそ百人はくだらないと噂される――の三十三人目の子にあたり、カイネウス“公家”に嫁した。生家の威風を鼻にかけ、降嫁した先で、もめごとの絶えないのが皇室の女性の悪弊との風聞もあるが、彼女は例外的に人柄がよく、まだ子こそいないもののダゴンとの仲は悪くない。

「何を云っておる。別に他の女子を側に置いているわけでもないのに、いらぬ邪推でもしているのか?」

 ダゴンは憮然と云う。確かにここ数日は軍務の他にサダナとの密議に追われて、東宮内の奥の宮を訪れていない。

「今は多忙だ。いずれおとなうと伝えておけ」

「ご自分でお伝えください。恨まれるのは私でございます」

「おい」

 奥の深い眼を大きくむいたダゴンであったが、年少からの付き合いであるドーレにはその威容は通用しない。

「ご夫婦の間柄のことまでは存じあげませぬ。殿下のご裁量次第でございます」

 立ちあがると「私はこれで……」と逃げるようにさっさと退室してしまった。

 室内に不意の静けさが訪れた。酒盃を手にしたまま、ドーレが消えた扉をあきれたようににらみつけるダゴンであったが、その眼が徐々に強い光を放ちはじめた。

 無言で席を立った。廊下に出ると、冷え冷えとした夜気が満ち、所々に灯された夜灯もそれを払拭することはできない。ダゴンはほの暗い廊下を歩みだす。すでに息が白い。いくつも分岐する複雑な廊下を数度曲がり、奥の宮と表とを隔てる扉にたどり着くと、躊躇なく手をかけた。

 奥の宮は表とは異なり、廊下の夜灯までもがやわらかく暖かい。女性しか立ち入れないその区画には、かすかな脂粉のかおりすらただよう。

 突然のダゴンの来訪に、夜勤の女官が慌てて、しかし裾をおさえつつ、しとやかに駆けよってきた。

「お妃様はすでにご就寝でございます」

「殿下なりませぬ。なにとぞ今宵はお引取りください」

 妃が降嫁してきたとき、ともについてきた女官たちが、血相を変えて権高に口々にダゴンをいさめる。しかし彼は意に介さず、彼女たちを押しのけて進んでいく。

 彼が目指すその部屋の扉は大きく開け放たれ、その前には夜着の上に肩掛けをはおった彼女が、すでにいた。

 ふっくらとまろやか味をおびる顔の輪郭に、薄く小さめな唇がやや不均衡である。額が広く、やや切れ長な眼はイーステジアの今上帝よりもむしろ母親に似たものであろうか。明るい黒髪が豊かに腰まで波打ち、肩掛けが隠しきれない首筋や二の腕の肌合いは、成熟したなめらかさを持つ。決して並はずれた美姫とは云いがたいが、落ち着いたあでやかさがにじみ出ている。

 制止する女官たちを押しのけると、ダゴンが彼女の前に立つ。小柄な身体はダゴンと並ぶと優に頭ひとつは違う。

「いかがされましたか殿下?」穏やかに微笑みつつ訊ねる声。「このような真似をなされるとは、まぁご酔狂な」

 ダゴンは太い唇をほころばせる。宮中でその奇怪な風貌から恐れられている公子が、その時だけは歳に相応しい若々しくたくましい表情を見せた。

「ドーレのやつから叱られましてな、ご機嫌伺いにまいりましたぞ、妃殿」

「ま……」彼女が頬を染めて眼を見開く。まるで大輪の花が開いたかのように艶やかさであった。「私は今宵などと云ったおぼえはございませんのに。はしたのうございますよ」

 ダゴンが寝室内に脚を踏みいれた。妃が指を軽く振ると、女官たちが扉に手をかける。重々しい音をたててゆっくりと扉が閉まると、室内は廊下の騒々しさとは無縁のものだった。

 先ほどまで彼女が横になっていたのであろうか、寝台はかすかに寝乱れており、艶めかしい匂いがただよっている。灯も細い常夜灯のみの寝室は、ようやくお互いの表情をうかがえる程度にほの暗い。暖炉の炎が、ふたりの半身をほんのりと照らす。

 胸の中に収まるような妃の指がダゴンの頬をなで、その輪郭をなぞる。張り出した額の奥の瞳をのぞきこむようにして見あげていたが、その指が止まり表情がいぶかしげに曇った。

「本当にいかがされました?ご様子がおかしゅうございます」

 ダゴンは答えなかった。妃の指におのれの指を重ね、しばしそのままであったが、不意にその小柄な身体を抱きすくめた。妃は怪訝そうに、しかしそれでも公子の身体の重みを受け止め、広い背中に腕をまわす。

「申し訳ない、しばらくこのままでいさせてもらえないか……」

 ダゴンの表情は彼女からは見えなかったが、その声音は平素の彼と何ら変わるところはなかった。しかし妃はわずかにためらった後、自分に身体をあずけている公子の禿頭を両腕で抱えこみ、優しくそっとなでさすりながら小さくつぶやいた。

「本当にどうしたのですか?……今夜のあなたはとても変……」


(つづく)

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