枢軸の世紀

衞藤萬里

第0話 「楽士来訪――黒曜暦六〇〇年 十の月のつごもりの夜 アザレにて――」(前編)

 百年期の最期の年の最期の月、そして夜が明ければ新年になろうという一陽来復のその夜に来訪者があろうなどとは、その村はずれの陋屋の主である貧しい農夫は考えてもみなかっただろう。

 幸い風のうねりは耳に遠く、雲はいずこにか失せ、月は厚く降り積もった雪を皓々と白銀に染めてしんと静まりかえってはいるが、北国の晦日の夜など、およそ出歩きたくなるような風情ではない。このような晩は、新年の晴れ着とささやかな馳走や香の用意だけを簡単にすませて、早々に寝床に入るのがよい。ましてや女房の腹が大きく、新年にも六人目が産まれそうな気配なのだ。

 その農夫は後にいくつかの名で呼ばれることとなるが、その夜の彼の名はヨナスと云う、貧しい小作人にふさわしいごくごく平凡な名であり、それ以上のものではない。女房の名もいろいろな説があるが、どうやらよくわからない。少なくとも貴族のような大仰な名ではなかろう。


 来訪者が農夫の家の扉を叩いたのは、さほど遅くはない。むしろ最期の薄暮が、完全に消え去ってからいくらもたたない頃合、ヨナスは五人の子鬼みたいな我が子と、年寄った父母とともに食卓へ着き、ちょうど皆で豊穣をつかさどるイナンナへの簡単な祈りをすませた時だった。

 一番年長の息子が耳ざとくその音を聞きつけてわめき出し、たちまち下の子らもそれに加わって、獣脂の匂いのきつい灯明と暖炉の炎が照らす、薄暗い室内は騒然となった。

「誰がのぅ?」

 騒ぎたてる子らを怒声と拳骨で静め、ヨナスは扉の向こうの来訪者に訊ねる。その問いに、来訪者は自分は旅の楽士であり、道に迷ってしまい途方にくれている、今夜一晩の宿を借りたいとの旨を口にした。その言葉は自分たちのものとは異なるなまりがあったが、元来人のよい農夫であるヨナスは、さほど疑うことなくその者を室内に招き入れることにした。

 その男は雪の染みがうかぶ漆黒の外套をまとい、このあたりでは見かけることのない幅広の帽子も黒く染めあげられている。襯衣やズボン、長靴こそは渋みのある焦げた土色であるが、あまりにも見た眼が黒色に支配されているので、夜の精霊と見間違われかねないだろう。竈神ヘパイトスの神所への巡礼者が黒衣を身につけると聞いたこともあるが、この男もそうであろうかとヨナスはふと思ったが、背に負った四本弦のシラーが、妙に現実的な代物に見えた。たしかに楽士なのだろう。

 背は高く、肩も胸も頑健である。そのくせ腰はすんなりとしており、敏捷な印象を与える。

 そして年齢のはかりかねる顔。面長で頬骨も鼻も高く彫りが深い。瞳も髪もまた漆黒。日に焼けた肌はなめした皮のようになめらかで強靭さを感じさせるが、ほとんど表情が知れない。ヨナスは年のころは四十ぐらいであろうかと見当をつけたが、次の瞬間にはその見当に自信がなくなっていた。もっと年かさのようにも思えるし、ずっと若いようにも思える。ただ両の耳から髪の毛のように細い金の輪が下がっており、その輝きがヨナスには強烈に印象にのこる。

 ヨナスは後によく村の男衆に話したものだった。整った顔立ちであり忘れがたい風貌であるが、しかし奇妙なことに眼をそらしたらたちまち忘れてしまい、どのような顔であったか憶い出せなくなるような気がしたと。

 元々こんな北の辺境に余所者が来ることなど珍しいが、平凡なヨナスですら来訪者が自分たちのような貧乏百姓とは――街の抜け目のない商人や工夫たちは無論のこと、領主たちに仕える兵士や騎士たちとくらべてすら――どこか種類が違うことを、何となく感じとったのだ。

 貧弱な彼の想像力ではそのことを充分に説明することはできなかったが、来訪者はただ単に余所者と云うより、いずこの者でもないように思われた。だが彼はその違和感を、来訪者は流浪の民――ディラスポラであろうと解釈して、勝手に納得をした。それならばこのあたりにも、脚の短い毛長馬に牽かせた馬車に乗って訪れたのを、何度も眼にしている。

 事実この男は正しい意味でまさしくディラスポラであるのだが、もちろんヨナスなどには、そんなことはついぞわかることはなかった。

 しかし、全身に黒衣をまとったその夜の来訪者のことを、そしてその後のできごとを生涯忘れなかったのは事実だった。

「見てのとおり、狭ぇ家だが」

「納屋の隅でもかまいませぬ。雪風がしのげれば、文句は云いません」

 男はこともなげに云う。

「そんな無茶を云うもんでねぇ。あったどごろでは凍えでまるがな。母屋だら火もある。こっちに泊まるどええ。ただ、女房の腹がでがぐてのぅ、今夜にでも産まぃるがもすれはんで、それは覚悟すてもらうがの」

 ヨナスは冗談めかして云う。男はうなずくと、懐の隠しから幾枚かの銭をヨナスへ差し出した。

「今夜の宿代代わりです」

 宿屋がもらうほどの金額だ。

「こだらにもらったきゃいがんのぅ」とヨナスはしぶったが、再度うながされて、さほどこだわることなく受け取った。男は炉縁へ行き、雪で濡れた帽子と外套と長靴を脱ぎ、物干しにかけた。

「おふくろや、ソップがまだあったるべ。出すてけるどよがるべ」

 ヨナスの年寄った母親が暖炉にかけた大鍋から、湯気のたったソップをたっぷりと椀につぐ。男は小さく礼を云う。

「おめさまは運がよぇの。今夜は年追いのつごもりじゃから、羊をつぶすたんじゃ」とヨナス。「楽士どのは、こった村さ何の用がの?」

「ここの領主は古い馴染みです。明後日の新年の祀りに呼ばれてきました」

「ははぁ……楽士どのはモナ大奥様さ呼ばりで……こりゃ失礼ば。こね汚ぇ家で申す訳ねのぅ。何だば今がら名主の処さ移りますかのぅ。あそごならうぢよりがは、ますばってのぅ」

「いや」とかぶりを振る。「差し支えなければここで充分。身体も温まったし、また寒空に外に出るのは閉口ですな」

「まぁ、おめさまがそう云うだば、わすらは一向にかまわんが」

「かたじけない」

 そう云うと、楽士はヨナスたちの知らない印をきると、湯気のたつ木椀にさじをつける。そんな来訪者を、子どもたちは興味の尽きない眼で遠巻きにしている。楽士の方は気にする様子もなく、無表情で黙々とさじを口にはこぶ。

 ヨナスは五人の息子たち(一番下の子はようやく言葉をしゃべるようになったばかりだ)を追いたてて、奥の小部屋――アルコーブに押しこむ。毛布にくるませるためにまた怒号と拳骨を使ったが、子どもたちは一年の終わりの夜に訪れた未知の男への好奇心をおさえきれず、垢だらけの毛布の中から眼をぎょろぎょろさせている。ヨナスが食卓にもどってきた時には、すでに楽士は一椀の食事を終えていた。

「騒々すくてすまんの」

 楽士は問題ないと云うように、小さく首をふった。

「女房がおればよぇんじゃが、もう臨月でふせっておってのう」

「具合が?」

「いや、そうでもなんじゃが、産気づかぃるど、ぢょいど困るもんだはんでのぅ、村でだった一人の取りあげ婆が、自分の娘の子ば取りあげるだめに街さ行ってまって、たいげぇ迷惑じゃ。そっちこそ他人さ任せりゃよがろうに、まっだぐあの婆は信用だばんわい。だいだぇ女房が産むだんびに、死にがげじゃ。腕が悪ぇんじゃ」

「産むたびに?」

「おお、そうじゃ。女房のやづも、こぃまで五人も産んでおるぐせに、毎度々々難産じゃ、まったぐ」

「そうですか……」

 楽士は少しだけ眉をよせた。


 夜のしじまをやぶり、あきらかに危急を告げる気配があり、部屋の隅に藁をしき外套にくるまり横になっていた楽士は、あさい眠りを脱ぎすてたようだった。

 半身をおこす。寝室から女性のものとおぼしき苦鳴と、男の狼狽しきった声、扉のすきまからは灯明がこもれ、それがうろたえているかのように激しく揺れ動いていた。石のような眼でしばし扉を凝視していた楽士は、静かに立ちあがった。

 扉を開けると、苦痛の激しいあえぎをたてる腹の大きな女が寝台の上で悶絶をしていた。ヨナスがおろおろとその背中をなでさすっているが、激しくもだえるために何もならない。

「あ、楽士どの……」

 気がついたが、顔の色は蒼白で言葉も思いつかないようだ。

「何事だ?」

「おごすてすもうて……いやその、女房が急さ……」

「もしや、産気づいたのか?」

「はぁ……もしかしたら、しかしその……まさが……」

 答えつつなでようとした女房の身体が、突然背をそらして硬直し、ヨナスは思わず声をあげた。口からもれるあえぎが、気色の悪い鳥の鳴き声か笛のように甲高くなった。

 楽士が寝室に入る。灯明の灯りがゆれ、影もゆれる。

 毛布をはぎとると、満月のようにふくれた寝間着の腹に掌をあててあちこちを押してみる。女房の口からは甲高い壊れた笛のようなあえぎが間断にもれ、顔は土気色になり額には脂汗がねっとりと浮いている。

「今夜、取りあげ婆はいないと、お主云っておったな」

「まさが?」ヨナスは顔を引きつらせる。「産まぃるまでまだ二旬はあるはずじゃ……そった、どうすりゃええんかのう……取りあげ婆はおらんす……」

 その時女房のあえぎがさらに苦悶に変わり、突然とだえた。

「あっ?」

「どけ」

 楽士がヨナスを押しのけて顔をのぞきこむ。悶絶していた女房の身体は意識を失い、弱々しく痙攣しているだけだ。白目をむき、口からは気のぬけたうめき声が小さくもれている。

「おそらく月足らずだ。間違いない、産まれるぞ。村に取りあげのできる者に心当たりは?このままでは女房どのも腹の子も二人とも死んでしまう」

「おらん、おらん……楽士どの、何どがならんでだがいぬべ?」

「経験のある取りあげがおらねば、どうしようにもない。このままでは女房どのももたんぞ」

 成り行きでその場に立ち会うことになった楽士だが、ふくれた腹をなで、ふと手を止めた。

「妙だな……」楽士は首をひねる。「頭がなぜこんなところにある?女房どの、難産と云っておったが、ひょっとして逆子だったのではないか?」

「へ……」ヨナスが呆けたように「へぇ、そう云えば取りあげ婆が、そったごど云っておったような……」

 楽士は女房の腹から掌を離した。視線は鷹のようにするどく、ヨナスの肝をちぢませた。

「おそらくこの子も逆子だ。女房どのの身体の質かもしれんな……このままでは死産のおそれがある。それに女房どのの命も危ないかもしれん」

「羊の仔が逆子じゃったっきゃ、脚さ縄くぐりづげで引っぱるんじゃ。お、親父、隣さ行って男衆ば……」

「人間の子は羊とは違う」ヨナスのうろたえを、楽士は一喝してさえぎる。「へその緒が首に巻きついていたら、間違いなく死ぬぞ」

 楽士の表情は険しい。ヨナスは力なさげに、がたついた椅子に腰をおろすと、泣きだしそうな顔で笑った。

 貧しい農夫は両掌で頭をかかえこみ、しばし身体を震わせていたが、やがて何かをはぎとるかのように顔あげた。血の気は引き、まださして老いてはいない農夫の面に、べったりと暗いおりがはりついていた。

「そいだばせめで、女房だげでも助げらぃんか…… 腹の子はええ、あぎらめます。子どもならまたでぎる。わすには女房のほうが大事じゃ……」

 楽士が扉に眼をむけると、いつの間にか起きだしたヨナスの年老いた両親と幼い子らが、寝台の上の女房とヨナスと楽士とのやりとりを不安そうに見つめている。楽士は彼らの表情を暗い眼でしばし凝視していたが、やがて渋々と口を開いた。

「……あきらめるなどと、簡単に云うものではない」楽士の言葉は硬く、陰鬱のひびきをもっていた。「……そなた、万が一があってもうらむなよ。どの子でもよい、わたしの荷を持ってきてくれぬか。枕元に置いておいたのだが」

 楽士が静かにそう云うと、一番年かさの少年はぎょっと跳びあがるように反応し、そして彼が寝床にしていた場所へとあわてて探しにいく。少年が彼の荷を持ってくると、中をまさぐり小さな皮袋を取りだした。

「部屋を暖めろ」楽士が確たる口ぶりで彼らに命じる。「湯をうんとわかして、新しい手ぬぐいをありったけ持ってきて、熱湯で一度消毒をしなさい。汚いままでは使えぬぞ。消毒に使うのとは別に湯をわかしておくのも忘れないように」

 楽士の指示に腰の曲がった老母が、広間の暖炉にかけたままになっている大鍋にさらに水を足す。年かさの子どもたちは背中を押されるように家中の布切れを集め、老父は手あぶりにさらに炭をおこす。

「亭主、甘いものはあるか?」

「あ、甘ぇもの?」

「そうだ」

「わすらはそったな贅沢なものは買えんだわ。あるのはせいぜい乾燥させだ甘藷の蔓ぐぇなもので……」

「ならばそれを使って重湯を作れ。甘く薄くするように」

「甘ぇ重湯?へ、へぇ……?おふくろ、おふくろ、頼んまれでぐれんかの」

 楽士が脂汗にまみれた女房の頬を何度かはたくと、白目にようやく焦点があう。息も絶え絶えだ。

「あぁ……」

「気をしっかりもちなさい。産気づいておる。逆子だが産むしかないぞ」

 眼の前の男が誰かまで気がまわらないようで、女房は楽士の言葉にうつろにうなずいた。楽士は女房の膝を立たせ、ヨナスが持ってきた熱い手ぬぐいで手をぬぐうと「ゆるせよ」と、脚の間に腕を差しいれた。女房がうめき声をあげる。

「やはり産み口が開いておる。何としてでも産んでしまわないと危険だ」

 そう云うと、今しがた荷から出した皮袋から、何やら乾燥したひねこびた木の根のようなものを取りだし、細かく砕きはじめた。

「さてさて、一晩の宿代には高価すぎるしろものよ」

 自嘲するようなその小さなつぶやきは、誰の耳にも入らなかった。楽士は荷の中から乳棒と小さな薬研を取りだすと、砕いた木の根をすりつぶしはじめた。子どものヤモリほどの大きさもない木の根は、たちまち薄汚い粉末となる。

「重湯がでぎますだぞ――」

「こちらへ」

 ヨナスの老母が湯気のたった木椀に、粉末をまぜる。

「楽士どの、それは……?」

「案ずるな、身体に悪いものではない」

 楽士はヨナスをうながし、がっしりとした女房の上半身を2人がかりでおこすと、椀を口許に持っていく。女房の豊かな胸が大きく不規則に隆起する。楽士が慎重に椀をかたむけると唇の端からちびりちびりと、少しずつ流しこんでいく。 苦しいのか、朦朧としながらも女房は顔をしかめ、いやがるように顔を振るが、楽士は慣れた手つきでおとがいを押さえ、こぼれないように長い時間をかけて、ようやく中身を飲ませてしまう。 不快気に顔を振るが、女房は何とか嚥下した。

 楽士は女房を再び横たえる。灯明のゆらぎが陰鬱な陰を浮かびあがらせ、ぜいぜいと荒い息が粗末な部屋の中に響く。幼い子どもたちが息を呑んでいる気配がする。

「楽士どの、今のは薬で?」

 息苦しさに我慢できずヨナスが訊ねる。

「心の臓に気付けを与える薬草だ。このままだと女房どのの身体がもたん。甘いものといっしょに摂ると効きが早い」

「楽士どのは、薬も使えるはんで?」

「薬師ではないが、旅をかさねると、あちらこちらでまねごとをするようになるのだ。これが効けばなんとか……」

 楽士が女房の頬を軽くはたくと彼女の身体はびくりと震え、まぶたが大きく見開かれた。しかしその瞳は焦点があっておらず、目じりは細かく痙攣している。

「むぅ……どうにかいけるか……?」

 楽士は、脂汗が浮き青黒くむくんだ女房の耳元に顔をよせる。

「女房どの、よいか――?」

 静かな楽士のささやく声。その瞬間、その声に呼応するように、風が吹きこまない寝室で灯明皿の炎が何の前触れもなく激しく揺れ、部屋のおちこちに深いかげりを落とし、何やら得体のしれないぞっとするものをヨナスに感じさせた。

「今、産まなければ、お主も腹の中の子も命はないぞ」

 まるでその言葉に引きずり上げられるように、意識をなくしたまま虚ろだった女房の瞳に突然弱々しい光がもどってきた。

「わかるな?」

 血走った眼が楽士を見上げる。楽士もまた女房を見下ろす。見たこともない楽士から見下ろされ、長い時間をかけてヨナスの女房は、ようやくに自分のなすべきことを憶いだしたかのようだった。

 何かを云いた気に、ひび割れた唇がかすかに動いたが言葉にはならなかった。しかし苦痛にゆがんだ顔は、おびえながら弱々しくはっきりとうなずいた。


(つづく)

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