同人誌にしたやつ
釘
問いに答えるものはいない
恋人が消えた時の風景は忘れられるものではなかった。
『宙に浮いている』
人と人の間にある関係性をとって
僕に言わせてみれば、あれかこれかのような問題に立ち入るつもりもないし、理論と実証における数学と物理の悩ましい関係性が宇宙の紐のように漂い気まぐれに立ち上がることもできない。
人を理解するために、幾つかの手順と習慣だけが小さな指標になる。
『私が私であることを、智久が捉える私は良く知っている?』
彼女の言葉こそ宙に浮いて、他者に理解させる気配りのような物が足りていない。
いつも考え込んだ末に唐突で、説明が必要な台詞ばかりを口にしていた。僕は距離の取り方が分からず、答えるまでに時間が掛かる。彼女は目を見つめて答えが出るまでじっくりと待ち、僕は黙り、思ったままに彼女について知っていることを答えた。
『智久が知っていることとの差異はちょっとしたものだ。私の第二の脳を見せたいけど、
そう言った彼女の言葉通り、彼女の第二の脳を覗くことが出来ている。彼女の記憶には多大な疎外感と、自分自身でない自分が全て行動の初端を持っているように思えてくる。ある映画のように物理的な距離は感情的な距離感を越えて思いを膨張させるが、第二の脳から覗く彼女から感じ取られた僕自身を見ていると、嫌悪感と苛立たしさしかない。
自分が滑稽な道化のようで、その反応を楽しんでいる彼女、僕は本当に彼女と恋仲同士だったのか分からなくなってきてしまう。思考も理解も何も及ぶ所がない。
どうして彼女が居なくなったのかを説明するのは容易い。納得するかを別にすれば、彼女は北極での実験によって消えた。
「人の始まりを追うと宇宙の膨張する速さすらきっと追い越せる。相対的である時間が絶対的であると感じさえすればその間はなくなる」
不意に上がってきた彼女の思考を口に出していた。
その声を耳聡く聞きつけ、同居人がこちらに顔を向けて変に顔をしかめる。
「お前が何を言っているのか俺にはわからない‥‥また繋いだのか、止めとけ」
同居人の
端的に情報端末の情報を読み上げるようなその姿は傍から見ると、機械的な動作にそっくりで不気味な不快感が強まるそうだ。僕は第二の脳である
「そりゃ当たり前だ。だって僕にも分からない」
そう言うと、方汰はそういうことじゃないとばかりに溜息をついて、僕の方へ向き直る。
「特別な人の記憶に入り込み過ぎると取り返しのつかないことになる。止めとけ」
彼は肩に乗せたモモイロインコを一瞥する。そして、その鳥を指して口を開く。
「俺にトミコちゃんがいないと駄目になってしまうように、おかしな嗜好や思想、果ては脳障害に繋がる。俺の場合は覗いている途中にぶった切られたせいだがな」
モモイロインコの背中の鼻をこすり付けて彼は言う。良い匂いがするからと、インコは逃げようと羽ばたく。人の記憶を覗くことは危険が伴うために、基本的には緩衝機器を使って制限された記憶を覗くこと以外は法の下で禁じられている。
「それはそうかも知れない‥‥それで方汰、お前はいつこの部屋から出て行くんだ?」
彼は僕のルームメイトだったが、引っ越すと言いながらも部屋から出ていかない。方汰は口ばかりで現実的な行動に移すことが無い。思うことこそが絶対的な行動として外身に現れる。そんな誰が言ったか不明の屁理屈を言う方汰に僕は呆れ返っている。
「お。言うの忘れてた。俺明日実家に帰るんだわ。なんか許婚が居るらしくて、一ヶ月くらいは戻れない」
方汰は何処吹く風で、置いてある家具や俺の荷物頼むな、などとインコと戯れている。
「それなら引っ越せ。僕にとってはゴミだから、自分の荷物くらい処理してさ」
実家に一ヶ月も帰るとなれば、別の部屋を借りる時間くらいはあるだろうと、僕はこの機会に方汰に引っ越して貰いたかった。いつペットがばれるとも限らない。
「駄目だ。許婚などトミコ以外に許すものか。俺は戻ってくる、智久。だから頼む。そうしたら絶対に引っ越す。お願いだ」
方汰は正座をして力強く頭を下げた。抱いた猫はそれに驚いて開いた窓から出て行った。
「‥‥一ヶ月経って戻らなかったら処分するから、それまでは」
こじつけの理由だが珍しく方汰が頭を下げるものだから、僕は渋々承諾してしまった。
「俺は絶対戻ってくるぞ! お前は彼女の下に戻らないのか?」
一言余計だ。彼は自分の世界以外に無頓着な男だからこそそんなことが言えるのだ。
僕は彼の言葉を無視した。答えたくないものには反応をしないことも自分を守るためには必要だ。悪質な路上勧誘においても、下賎な客引きにおいても、目を合わせず、そこにいないものとして扱うことが往々して大切になってくる。
「しょうがない奴な。おし、明日の荷造りは終わった。また明日来るわ」
突然気を悪くした僕と話していても不毛が積みあがるだけなのを察知したのか、ペットのモモイロインコを肩に乗せて外へ出て行った。どうしてあのインコが逃げないのか、それは不思議なことだ。
「戻る。戻れたらいいのか? 膨大な時間と空間が僕らに横たわっているというのに」
翠に会うには第二の脳を覗けばいい。とても簡単に彼女を実感することが出来る。
果たしてそれを翠と呼べるのか、待った所で時間も空間も彼女に近づくことはない。
「数万光年、数万年、空が落ちてもありえない。彼女には関係の無いことだ」
開きっぱなしの鳥かごが寂しげに揺れた。勿論感傷的に、気持ちがどうとか、そんなことでもない。感情が人を引き付け、引き離すことは間々あれど、僕らの関係はそんな人間的なことからはかけ離れていた。
もう意識のある翠には出会えないのだろう。けれども、僕は翠が昏睡し続ける部屋に行くことを、彼女の記憶を覗く事をやめることが出来なかった。
彼女と最後に交わした約束は守れないままに。
――彼女について、過去に存した関係性と記憶――
翠は自らの疑問を解消するためだと言って一ヶ月前から連絡が取れなくなった。
『画面の上だけでなく、実際に会って話がしたい』
彼女は実際に人と会うことを多く望んでいた。何かの媒体を介してしまうことが無駄なすれ違いを生む。その間を補完することは出来ないし、する必要はない。分かっていても気持ち悪いことは避けたい。そんなことを彼女は言っていた。
だからと言って、連絡が取れないのはおかしいとは思う。
僕が布団の中で目を覚ますと、目の前は真っ白で見えなかった。僕の第二の脳にある記憶の風景だろうか、吹雪の中に僕は一人で取り残されていた。
第二の脳と常時繋いでいると、寝起き時にこうした接続エラーが発生することがある。夢の残滓とも呼ばれ、これは人が夢で感じる直接的な思考とも前頭葉との記憶調整とも違ったもので、全くの偶然で生じるそうだ。
しばらく残る夢の残滓から抜け出て、携帯端末の画面を見ると入院していた翠の
『ドクサが治る頃に私が戻れればいいんだけど』
猫が帰って来ると聞いて
「ようやく戻ってくるか」
伸びをしながら秋の日差しを受ける。夢とは違って外は暖かそうだ。
思えば、翠との出会いは彼女の奇妙な質問と、方汰という繋がりがあったからだ。
『どうしていつも宙に浮いているの?』
翠は儀式的にある程度親しくなった人に対してそう尋ねる。大抵は軽い冗談か別の話題で流されると嘆いていたが。
それに対しての僕は、詩的でも叙事的でもなく、つまらない答えをしたのは覚えている。マカロニの中空構造だか、ドーナツの穴との関連性だとか、そういった類のしょうもないことだった。
『私達が感情を取りこぼさないように一生懸命に対話と時間の共有を行うのには、そうした理由もある。環境やこれまでの積み重ねによって脳は多種多様に変わってしまう。個性、これも疎外感の一つ。一時期、個性に現れる疎外感を恐れるがあまり、私は人を過度に拘束してしまった』
拘束されていた方汰はそのこと自体を自ら望んでいるようにも見えた。しかし、翠と同化するため思考の均一化を図ろうとして彼は彼女の第二の脳と無理に繋がった。
翠が外出した数分の出来事だったが、帰宅してすぐに危険だと判断した彼女によって強制的に接続を切られた。方汰はその場で気絶したものの方汰は幸い大事に至らずに済んだ。
『知ろうとすること、正常な状態においての知恵は正しく作用するが、恐れなど別の要素が含まれると不正となる。そんなことをアリストテレスは言っていた気がする。だから、私は恐れもあったためか彼を拘束し同一化を図ろうとしたことを今は深く反省している。私には周囲の人々のように宙に浮くという感覚がわからない』
今更ながら翠の言葉を思い返して、彼女は他者との疎外感を調律することを宙に浮くと表現しているように思えた。
翠との出会いは特筆することもなければ、隠すようなことだってない。方汰が部屋に帰ってこなくなった時、
ただ、彼女はヒステリックでも精神が不安定という訳でもなかった。
間違えた思慮と行為に及んだだけだと僕は思っている。
『恋愛をしてみたら私の抱く疎外感もなくなると思ったんだけど、そうじゃなかった。友達のアドバイスもなかなかに悩ましいね』
そういって快活に話す彼女を見ていると、不安から過度な拘束に及んだわけでないと僕は信用した。
僕は翠が方汰との事件の後に分かれたことを知り、翠の容姿に惹かれていたのもあって、積極的に彼女と関わり、晴れて恋人同士となった。
『私の顔と髪型が素敵で、考えていることも一緒にいて楽しいから、素敵な好奇心と一緒にいたい。何を言っているか分からないけど、好きなんだ、付き合ってくれ、なんて。もう少しスマートな告白があってもいいじゃない。私も、智久の事が好きだよ』
告白は緊張のためか喉の先で用意した言葉が氾濫を起こして、焦った挙句に出た言葉に翠は半ば呆れていたようにも見えた。我ながら上手くいかないものだ、彼女は今に言うぞ、何を言うのか、どうやってこれまでの日々に名前を付けるのかと、気に入らなかったら断ろうと僕が意識し始めた時から思っていたらしかった。
そんな彼女から面倒を頼まれた猫を迎えに、僕は自分の「第二の脳」と共に外に出る。彼女の
『ドクサと一緒にいるという両親との約束は果たす必要があるけれど、この子が死んだら、私が第二の脳を持つ理由はないよ』
生体であるからこそ第二の脳は必要だったのに、自らの情報、記憶、経験を保管してなんのためになるというのだろう。と、彼女が言うには人工物の第二の脳は本来のコンセプトから外れて、別物になっているらしい。
そうして、これまでの翠との思い出に耽りながら、僕はアパートを出る。
アパートの階段を下りる途中、敷地を仕切る石壁に寄りかかっている人を認めた。その男は階段を降りる音に気づきこちらに手を上げて逆光の中眩しそうに目を細めていた。
「彼女からのコンタクトはまだないのか?」
何度注意してもアパートの近くで僕を待つことを止めないのだろう。翠の後見人と名乗る秋津寛久:あきつひろひさ:は斜交いに僕を眼鏡の外から確認する。まるで、視力のない目には自分の意図を隠すことが出来ると信じているかのように。彼の鞄からはいつものように猫が顔を覗かせている。
「宇宙人じゃああるまいし。そもそも僕にも分かりません。僕が貴方に対して距離を置くように翠との関係も変わらない」
言いながら僕は歩み去ろうとするも、彼はそれに追いすがってくる。
秋津の鞄に入れている猫は以前見たものと違い、黄色い義眼が機械的に忙しなく動いている。おそらく新しい第二の脳だ。どうして彼は彼女のことを必死で真似ようとしているのだろう。眼鏡と髪型も翠と似ていて、得体の知れない気持ち悪さが彼にはあった。
僕は彼が連れている猫の下半身を見せたことがない。その鞄の中に本当に下半身はあるのだろうか、猫の上半身だけが不吉にゆらりと動く。空は青く、日差しの照り返しが強い。
「それならどうして、翠が失踪した理由を教えないんだ。誰に尋ねてもお前に聞け、おかしくはないか? 後見人の俺に何も知らせないことが異常だと思えないのか?」
翠からは、私の後見人なんてものがいたことはなかったし、私の両親が亡くなった時からおかしくなった、遠い親戚。危なかったらすぐに警察を呼んだほうがいいよ、と。
その男は翠居なくなってから、どうしてか僕に彼女の居場所をしつこく聞いてくるのだ。
「何度も言ってますが、彼女が消えた理由はわからない。僕は何も知らないんです」
誰が僕に彼女の情報を持っているなんて戯言をこの男に吹き込んだのだろう。これ以上付いてくるようなら警察にでも連絡しようか。そう思ってポケットの携帯端末に触れる。秋津はそれを目聡く見つけて、立ち止まった。
「ああそうかい。知らないなら知らないではっきりと言えや」
不貞腐れたようにぶつくさとつぶやきながら秋津は去っていった。通報すれば即座に付近の監視カメラの映像が警察に送信され、不味い状況になることは分かっていたらしい。
僕は彼に何があったかを知らない。少なくとも同情できる人格の持ち主ではなかった。
出鼻を挫かれた時のしつこい倦怠感を引きずりながら動物病院行きのバスに揺られ、海沿いの道を通り過ぎていく。
砂浜には不釣り合いな地中海で見られるような白い建物が一帯を囲う。それは人の来ない砂浜の一角を利用して、話題作りの為に作られた仮想空間体験施設だった。
この施設が出来た当初はわざわざ砂浜まで来て、実際に海に入るわけでもなく仮想的な体験をする必要性がないと口々に言われたが、物の質感や触感をほとんど違和感なく再現することが出来る装置のため、人入りはあった。
翠とも一度ここに来たことがあった。
『結局のところ仮想現実だって情報の扱い方が変わっているだけで、私と他者と世界とを取り巻く距離について測ることも、明示することだって出来やしない。ねえ、どうして私を好きになったの?』
折に触れて翠は好きになった理由を聞く。
そして、当然の如く僕が答えた後、彼女は決まってこう言うのだ。
『裏側は想像するしかないから、私について律儀に考えてくれる君が好き』
仮想現実や拡張現実によって受け取る情報が変化しても、分かり合おうと考えること。
人との関係はここに終着する。
『次は辛嶋動物病院です。最先端の動物医療は辛嶋動物病院へ。次、とまります』
バスのアナウンスを切っ掛けに物思いに耽っていた目を外にやると、無機質な薄い灰色をした二階建ての建物の前で停車する。
バスから降りて病院に入るとすぐに名前を呼ばれ、診察室に通される。
平日の昼間だったためか人は少なく、動物の鳴き声も聞こえなかった。
「お宅の猫ちゃんですがね、右の後ろ足が上手く動かないのはどうする? 換装すれば楽になるとは思うけど」
コートとマフラーを膝に置いて座り、診察結果を待つときのなんともいえない改まった感覚と、年を召したフレンドリィな医者。何故か個人病院には美人な看護士が一人は居る。ここでは髪を赤く染めた女性がそれだった。
「いえ、体調が良くなれば、それで構わないです。ありがとうございます」
一度。翠はドクサの足を義足にしようと病院に連れて行こうとしたことがあったがその時、普段大人しい彼女の猫が必死にそれを拒むように腕からすり抜けて逃げた。
それが病院には行かないぞと言う無言の抗議にも思えて、翠は義足にはしないと決めた。
「そうか。しかしだね、第二の脳として使われる分その愛猫への負担は大きいんだ。今は別に生体を使う必要もないし、飼い主にはちゃんとそのことは知っておいて貰いたいから、わかったね?」
今では第二の脳は生物に適用されることもなくなった。やはり別の動物を媒体とするには方々からの批判が多く、人工に作られた脳にとって変わられてしまった。だから、ドクサに対して非難されることもあるが、ここの医者はそういったことには興味がないようだ。
「わかりました。ドクサ、帰ろうか」
僕は猫を受け取り、お礼を言って受付でお金を払う。
第二の脳は、ぼんやりと曖昧な記憶を留める記録媒体として初めて世に現れた。その頃流行っていた人工知能とは一線を画し、人間の記憶などに対して、そのときに自分がどう感じたか、何を言い、どう行動したかを逐一記録することを外部においた擬似的な脳で補い、生活や様々なことに役立てようと試みたものだ。
最近ではその脳自体を持ち歩くこともなく、小型の記録装置があれば自宅かどこかに置いた第二の脳へと記憶を送信することも受信することも可能になっている。
はじめ、第二の脳は記憶容量も少なく、身近な動物の脳を借りる粗末なものだったが、開発を続けるうちに動物を使うことがなくなり、今となっては生活の役に立っている。
猫は弱弱しく鳴いて、ペット用の鞄に収まっている。綺麗な灰色と緑のオッドアイが光る。これでようやく彼女に会える。僕は漠然とそう考えていた。
病院を出たところで
『始めまして、相良愛美です。横溝翠さんの親友ですが、これからお話できますか?』
出るなり少しばかり舌足らずの愛らしい声が聞こえ、緩くウェーブの掛かった黒髪が印象的な鼻の通った女性が画面に映し出される。突然、見知らぬ人からの連絡に僕は戸惑いつつも答える。
「えっと、何が目的? 誰から? 今手が離せませんし、後にしてくれませんか」
半ば独白のように声を出しつつ気持ちを整理しながら、やんわりと断る旨を告げた。
『突然の連絡ですみません、和久井智久さん。お知り合いの笠井君の友達の
恐らく笠井が僕のプライベートアドレスを見留という人に教えたのだ。
「詳しくは後で聞くから、何を話したいのかを教えてくれませんか」
必要ない話であれば後で聞くこともなく、無視してしまえばいいだろう。僕は突然の連絡に警戒していた。
『それはとても混沌としていて、何から話していいか分からないのですが、ミラーニューロンどうとか、パノプティコンの再来だとか、とにかく、翠がいなくなってしまうんです』
端末に向かって頭を下げるものだから、画面一杯に黒い髪が広がる。そこでようやく彼女、相良愛美も混乱していることに気づく。彼女の言っていることにはまとまりがないのだ。
『お願いします。死にたいなら死ねばいいなんて言わずに、私を助けると思って』
一旦落ち着くべきだ。話を続けるほど、相良の様子が悪いほうへ傾きつつあった。
「……分かった。一時間ほどでAutum Leavesに行けるから、待っていてくれますか?」
そのまま無視してしまっても良かった。思い込みの激しそうな感じを受けたが、相良愛美という名前をどこかで聞いた覚えがある。
それに、相良が口にしたAutumn Leavesは翠も気に入っていた喫茶店の一つだ。
悪いことが起きる訳でもないだろうと、僕は警戒しつつ彼女の訴えに応えることにした。
――翠の親友と彼女達の研究について――
どうして女性の研究者が多いのか、その理由を考えてみると単純だった。
感情と言う高級なコミュニケーションが得意であるほど、第二の脳を使いこなすのにも不自由しないのだ。
第二の脳はミラーニューロンのような原理で当事者の脳の情報を記録する。人の脳は非常に手軽な量子コンピュータとして機能するため、一か零かといった情報に拘る必要はなく検索効率も非常に良い。
また、実際の量子コンピュータのように大掛かりな設備も、エネルギーも必要ない。
その分、第二の脳を毎日フルで使うために、劣化から交換するまでのサイクルが早く、幾つもの第二の脳を使っている人は認知機構に何らかの異常をきたすとされているが、比較的安全に運用できるのも女性の利点だった。
「それでですね。ふとした弾みで湖の真ん中で落としてしまった。さて、どうしよう。私だけ取り残されて、翠はいないし、斜交いのお兄さんなんかが頑張ってくれた。悲しいかな、そんなことを私は貴方に望んでいる。翠がどうしていなくなるかなんてどうでもいい、貴方が
静かな店内で、それなりに整った顔の女性が静かな声で、思い込みの激しい攻撃的な言葉を紡ぐ。怒っている風でも、感情に任せて話をしているわけでもなさそうだ。
電話の時と違ってはっきりとした口調でとても口が回る。電話口で声が変わることはあるが、何も舌足らずな口調にまでならなくても良いだろう。
「気づいた? 私に対して貴方は猛烈な不信感と若干の恐れを抱いてる。瞬きが増えて、視線移動距離が初めに顔を合わせたときの二倍以上も長くなっている。でも、どうして翠が消えるのか、そのことに関しては彼女がやろうとしていることに焦点を当てなければならない。ミラーニューロンについては何か知っている?」
ミラーニューロン。実際に行動している訳ではないのに、頭の中で見た動きをシミュレートする脳の働き。相良さんは試しているのか、人をくったような話で楽しんでいた。
「簡単に言えば梅干を口にした人を見て唾液が出ることと同じ。知覚の再生産を頭でしているの。パノプティコン的にそれを第二の脳で行ったら、どうなると思う? そんなことを聞きたいんじゃないんだけど、彼女の脳がそれをビッグブラザーのように秩序を定め、統合的に星へと繋ぐ。全ては相対的に求まる相似形カオスの集合。面倒な話はこれくらいにしておいて」
冷め切ったミルクティーを一気に流し込むと、彼女はホットミルクを注文した。僕はお冷のおかわりを貰う。
「カフェインが苦手なのは翠から聞いてる。どうして私が貴方をここに呼んだのか、その理由が聞きたい? 私の慈善的良心に従って、翠の居場所に連れて行ってあげようと思っているの」
口の右端を引き上げて笑う。癖なのだろうが、その素振りが人に不信感を植え付けることは自覚していそうだ。
「研究と私的領域はできるだけ切り離すのが、翠のポリシーだった筈だ。勝手なことはできない」
僕が否定すると、相良さんは双眸を開きやはり口の右端を引き上げて笑う。静かにホットミルクが運ばれてくる。それに彼女は付いてきたシロップを入れて、置いてある角砂糖を口に放り込む。
「勝手なことをさせるのは私。それに、貴方が翠を待つ間に第二の脳を覗き見ることの方が勝手だと思うけど?」
実際に見たわけでもないものの、相良さんはそうすると確証があるようだった。翠は僕のことを彼女にどんな風に説明しているのだろう。
「わかった。それで、翠はどこに居る?」
僕の返答に彼女は笑顔のままにミルクを啜って、眉を吊り上げる。
「それはお楽しみ。まずは翠の周囲について知る必要がある。ところで。翠を覗くならば、翠も等しくおまえを見返すのだ」
そういって相良さんは僕の目を覗き込む。近くで見ると、彼女の斜視気味の瞳は黒と茶色だった。
「深淵を、に続くニーチェの言葉だったね。哲学は身の回りの世界を表現しようとしたが、そんな彼は狂った」
見つめられる緊張に耐えかねて僕は水を飲み、ドイツの哲学者の言葉を頭で反芻する。ある現象を覗き過ぎると奇妙な同一感によって人は狂い、自分というものは曖昧でなければ駄目になってしまう。
相良さんは顔を離し、ふざけたような半笑い。とにかく笑うことが重要だと考えているようだ。
「これらを知識として持っているだけで、私にとっては焼き魚と目が合う時に考える妄想とあんまり変わらない。言葉を借りると、私達自らが受け取る世界を適切に表現しようとフッサールの現象学が土台を作った。他者の経験、いわば認識論的なものを言語化することで意味を付けた。だからなんだっていうのか、私達は第二の脳で簡単に他者との繋がりを乗り越える。他者との感情と運動感覚の共有が人の距離感を掴む、では、この間を埋めるのは?」
僕が考えようとテーブルに目を落とすと相良さんは不意に立ち上がって会計を済ませ、ドアの鐘を鳴らして外へ出て行った。鐘は涼やかな音を店内に響かせ、遅れてそれに気づいた僕もそれに続いた。
「考える時間をくれてもいいじゃないか」
実際のところ、彼女は僕に対しての回答に期待をしていなかったようだ。僕を見て用意した言葉を吐き出す。
「彼女のちっぽけな作品が母親によって捨てられ、翠が泣いているとき、たまらず私も泣き出した。表出は同じでも意味合いは異なるものを、私達自身が埋めて、差異を感じて、楽しむ。それだけだと翠は納得しなかった。第二の脳を使って実験をしていたのは、こうした人との距離感を効率的に掴むことだった」
相良さんはベージュのコートから煙草を取り出して火を点ける。一口吸うと不味そうに携帯灰皿に仕舞った。
「酷い味ね。全部捨ててやって正解だった。あいつら全員NOxでも吸えばいい。面倒な話は抜きにして、翠の猫さんを連れていきましょう。良い面ばかり切り取ったままの貴方は信用できないし、初めに言ったけれど、翠はいなくなるの。私より知らない貴方が受け止められなくてもいい、少ない友人を大切にしろって父は仰った」
猫は自宅にいる。口ぶりから相良さんは僕の部屋に一緒に向かうと決めて掛かっている。
「もう夕方だし、明日でもいいんじゃないかな」会って数時間もしない人を部屋に入れるのは御免だ。
「それは出来ない。もう約束しているし」愛美は笑って否定する。
「翠が何を考えているのか、貴方を通して類推するのも面白いから、早く翠の家に行きましょう」
まずはドクサを連れに僕の家へ、その後に翠の家へ。僕は流されるように彼女に続く。
・・・
『どうしてドクサなんて名前を猫に付けたか言ったかな?』
翠の猫の名前はドクサという。ギリシャ語で臆見、根拠のない主観的信念といった意味がある。
「猫が根拠のない主観的信念に基づいていると、大人しく鞄の中に納まっているドクサを見て思い当たった」
ドクサが小さい声で鳴き、それを見た相良さんは鞄の中に手を入れて柔毛の感触を楽しんでいる。
「翠は何でもそうやって象徴的にしたがる。そうして目印をつけないと、どこを歩いているかも分からない遭難者か子供のように戸惑ってしまう。自分との繋がりをそうした形で意識しないと不安になる、変な趣味」
僕はそんな姿を見たことがない。と言うと彼女は鞄から手を出しながら、僕を鼻で笑い飛ばした。
「それは当たり前、
幅広の手提げ鞄に納まったドクサはその中からじっと相良さんを見ている。やや無機質に感じるその目で。
「愛くるしい表情で私を見ても駄目、私に媚びても何もしてやらないから」
さっきまで触れていたくせに何を言う。という言葉を飲み込みつつ、バスのダイヤを確認する。
「ここのバス未だに自動運転じゃないから遅れるし、いい加減新しいバスに変えれば良いのに。目先の利益よりも、長期的な目で物事は眺めないといけない」
相良さんは愚痴をこぼした。最近導入された自動運転のバスはあくまで主要な見通しの良い経路に限られているが、人と比べても事故率は低いことが知られている。
見ようと思えば、自動化されているバスの運行状況、事故状況や事故率は公開されている。間違いなく人よりも問題が少ないことが証明されつつあるものの、完全導入に至るのは難しいだろう。
「確かに便利だ。けれど、人の仕事が自動化されているのを見ると、不安になる」
僕にとって人の不在のようなものが身近にあることは気持ちの良いことではなかった。
「ハンドルが勝手に動くのが見えるわけじゃなし、不気味の谷は越えないのに」
あくまで相良さんは見た目上の話だと思っている。
「違う。はっきりとした不気味さにはない、ぼんやりとした喪失感というか」
僕は翠のある言葉に思い当たった。
『人の繋がりみたいなものがなくなると、宙に浮くことが出来ず消えてしまう。浮遊感は喪失感のよう』
翠が同じようなことを言っていた。人であることの喪失感、社会性動物は孤立すれば死ぬだけだ。
「また翠のことを思い出して、そんなにも過去のことが気になるなら、ずっと第二の脳を覗いていればいい。それこそ老いてロボットのように良かった記憶ばかり漁る老人か、何かのように」
愛美は物思いに耽ろうとした僕の顔を見て不満げに呟く。
「別に記憶にしがみ付いてはいない。何か翠の行動の理由の指標があると思う」
言い訳のようになってしまったが、ふとした思い付きが翠を理解する糸口になるような気がした。
「だからと言って私を見る視線を遠くにやられるのはいや。バスが来るよ」
そんなことは関係ないとばかりに、好きな人のことを考えてぼんやりしてしまうことを愛美は咎めつつ道路の先に目をやった。
昔から変わらない形のバスがやって来る。こちらの逸る気持ちとは対照的にバスは落ち着いた速度で進み、バス停の前で空気圧が抜ける音をさせて停車した。遅れてドアが開く。
僕と相良さんは右側の一人掛け用の椅子に縦に並んで座る。車内は後方に人が固まっており、密やかな婦人のささやきと、驚いた表情で外を見ている子供、居眠りをしている老人とが座っていた。
「私と貴方では二人掛けの椅子はまだ早い。そう思わない?」
前に座った相良さんはシートの上から顔を出し、僕を見下ろして口の端を吊り上げた。
「相良さんとはこれくらいの距離が丁度だと思う」
近づきすぎず、離れすぎず。相良さんの挑発的で人を小馬鹿にしたような表情は近すぎると嫌味のように聞こえる言葉が耳に残らない。
「それ、翠にも言われた。表情とか話し方からしてこの距離が最適だって。二人して嫌なやつ。後、相良さんって言うのは止めて欲しい。永久に遠い距離感が確立されつつあるのは恐ろしいことでしょう、何より馴染まない」
知り合って間もない人の呼称は距離感を図るため。相良さんは僕の呼称は好いていなかった。
「相良さん。相良。愛美さん。愛美。三番目が馴染む」名前を口に出して自分のイメージとの齟齬を確認する。
「……良いや、それで」
ぼそりと呟き、諦めた様にシートの上に乗った顔が下に消えた。四番目か別のあだ名が良かったようだ。
僕らは西日に照らされながらしばらくバスに揺られ、翠の自宅を目指した。
・・・
翠の自宅に着く頃には日は沈み、不安定な赤紫色が西の方に見えるだけとなっていた。
「ただいま。美佐雄さん、由美恵さん! 居ないみたいだけど、まあ上がって」
翠の自宅だというのに、愛美さんは鍵を持って我が家のように振舞う。親御さんはどうやら外出中のようだ。
「愛美さん、どうして鍵を持って」
理由を聞こうとした僕の言葉を遮るようにして愛美さんは言う。
「私はここに間借りして住んでる。二階に私の部屋もあるよ、リビングで待とう」
家の照明は付いておらず、玄関以外暗いままだ。靴を脱いで愛美さんに続く。ドクサの入っている鞄を玄関に置いて。
鞄の中に入ったドクサはいつの間にか眠っていた。
翠の自宅は二階建ての一軒屋だった。僕が住まう地域とは違って、大きな通りが一ブロック先にあるためか外を走る車の音が目立っている。
内装は特筆することもなく、暖色の照明が白い壁紙を優しく照らしていた。
リビングに続くドアの磨りガラスは時折光り、小さく話し声が聞こえた。それを感じ取ってか、愛美さんはリビングの扉を恐る恐る開いていく。
「愛美、お帰りなさい。それと、彼氏の智久君でしたっけ。翠がお世話になっておりますが、今は駄目です」
丁寧であるが早口で焦っている女性の声。
「静かにっ。君達は二階へ行って!」
その隣の男性が小さく鋭い声を発する。
真剣な表情で一方向を凝視している中年の二人がソファに腰掛けていた。女性は垂れ目で柔らかい雰囲気を持ち男性は短髪で色黒の体格の良い体をやや縮込めている二人はゲームをしているのだった。
「……」
愛美さんは頷きながら口を開かずそっとドアを閉じて、愛美さんは玄関まで引き返し階段を見やる。
「お二人は今は忙しいので、先に翠の部屋を見ておく? 翠の秘密、プライベートを知ることで、翠を分かった気になりたい、そう思っていない?」
愛美さんはふざけているのか、口の端を歪めた。
「勝手に入るのは良くない、何考えてるんだ」
無神経な提案に僕はつっけんどんに答える。
「考えるも何も当たり前のことじゃない。好きな人のことを全部知りたいと思うのは」
眉を上げて純粋にそう思っているかのように振舞う。愛美さんはそうやって行動してきたのだろうか。
「当人から聞けばいいじゃないか、隠れて知る必要はないよ」
それには答えず、愛美さんは階段の横にある引き戸を示す。
「仕方ない。そこの引き戸の所が客間だから待っていて」
愛美さんはそう言って軽やかに階段を登って行く。客間に入る前に玄関に置いて来たドクサを連れて、客間に入る。
他人の家で一人取り残されると軽い緊張感がやってくる。こういったプライベートの濃い空間は例え親族で合っても好きにはなれない。客間と言っていたが、中にはキッチンダイニングと共用のためか六人掛けのテーブルが中央にあり、奥にキッチンと大き目の冷蔵庫が見えた。テーブルもキッチンも、使い込まれてよく馴染んでいる。
家具や雰囲気から分かる生活感は翠と愛美さんが長い間一緒にここで暮らしていることを伺わせた。
椅子を引いて座り、天井を見上げる。翠のことを知りたいとはいえ、流れのままに彼女の自宅に連れられることもなかったのではないかと僕は後悔し始めていた。
愛美さんはどうして翠の両親に会う約束を取り付けたのか。この家に住んでいるからして、親戚かそれに類する関係を持っていることは分かる。だからといって、翠と出会って数ヶ月の僕に言うことなどあるのだろうか。
「貴方のためにしょうがないから持ってきた。まず、これを見て。今、翠は北極で実験の準備をしている」ぼんやりと考えている内に戻ってきた愛美さんは右手に抱えたノートPCを開いてテーブルの上へ置く。
日誌、イメージを現実に引きおろすための作業。モニタの上部にそう表示されていた。
「好奇心を自制する言い訳は置いておいて、翠が何をしていたのか、ここに書いてある。見られることも知った上で翠はこれを書いたから、とにかくまず読んで」
愛美は僕と目が合うと何か言う前に先んじて翠の日記を読むように促した。
『どうせ愛美は私のPCを覗くから、私が今何をしようとしているか、戻ってこれない可能性もあることを含めて記録しておく、今日の日付の日記を見て欲しい。端的に言うと、星渡りを引き起こし第二の脳を媒介に地球と宇宙の思考に繋がることにした。その際に私は消えてしまうかも知れない、生身の体を残して』
翠の日記の冒頭はそう始まり、翠の居なくなった日の前後の日記に自らの研究と実験を説明した場所があった。
『愛美と智久へ。私のしようとしていること。星渡り、地球と宇宙の思考について』
という文章から始まって、研究についての簡単な説明が続く。
『海の生物達が光を放つプランクトンを纏って空の星々を模倣し海面に現れる現象のことを星渡りと言う。この星渡りが最後に放つ光の波と共に地球の思考、記録とも言うべき情報と私達が繋がる。世界は一つの柱の眠りから出来たのか、単なるエネルギーの拡散か、それすらも知ることが出来る』
唾棄すべく愛美さんは口の端を吊り上げて笑いながらも、苛立ちを隠せないのか、やや早口で呟く。
「地球の思考、記録……そんなものが実際にあるのだとしたら、この世界は何らかの大きな力の流れで動いていることが証明されるのかな、神はいないが神はいる、でも翠はいなくなる。地球や宇宙の記録をのぞき見る、なんて他人の第二の脳を覗くだけでも自我崩壊を引き起こす可能性があるから、慎重になるのに馬鹿げてる」
二人でモニタを覗き込みながら文章を読み進めていく。
愛美さんのその顔には、何か決意のようなものが浮かんでいるようにも見えた。絶対に翠のすることを止めてやろうと、そう思っているかのようだ。
『次に、星渡りを発生させるには第二の脳を使い、地球へのアクセスを試みなければならない。この手法については簡単に説明すると、世界中の第二の脳をグリッドコンピューティングして仮想的に巨大な脳を作り、高高度放電現象へ干渉する。その作用が星渡りへと繋がる』
僕が読み進めるのと同時に、愛美が横から口を挟む。
「何の説明にもなっていない。巨大な第二の脳が作れたとして、それがどうして地球の放電現象と干渉するのか、大体星渡りなんていう現象についても、説明がない。分かってるくせにいつもそう、何も言わないで、勝手に消える。許せない」
喫茶店で出会った際の言動からして翠に執着を持っている愛美さんであるから、事前に翠のこの日記を読んでいるだろう。それでも苛立ちを隠せない愛美と翠の間には何があったのだろうか。
感情を吐き出す愛美に掛ける言葉もなく、僕は黙々と読み進める。
『次に、地球の情報について。先ほどから何度も言っている、この地球の情報とは、地球の高高度放電現象を私達の脳内の電気反応が同じものだと言う仮説に基づいて、俗称したもの。これらの反応を幾つか観測した結果、人の脳で発生する電磁反応に良く似ていて類似率は簡単に標準偏差を取ってみても0.9ポイント以上になることが知られている』
統計的に人間の脳内の電磁反応が地球の高高度放電現象と似たような動きをしている。それならば、地球も脳のように何かを思考して、記憶することが出来る。この仮説が確からしいことが何かで示されていたのだろうか。
「ウィーリー・マルコフの研究。今回の北極での実験の参加者。翠は一度、彼と話し合うために米国に行ったこともある。共感覚に詳しく、第二の脳を使って、地球の高高度放電現象と同じ反応を引き起こし、地球の情報の一端を得たと発表していたのを覚えてる。一瞬だけ、太古の地球のイメージを映し出していたものの、再現性がなく信用できるものではなかったし、とにかく隈が酷く時々白目剥いてて気持ち悪い奴だった」
嫌な感情が渦巻き吐き捨てるようにではあるが、愛美さんは僕が読んでいて詰まると、そのことを察して補完してくれた。
『最後。第二の脳を使って地表上で再現出来る脳内のネットワーク、高高度放電現象が再現する脳内反応、星渡りによって再現される宇宙の星星、その全てがこの地球上で再現されることは、電磁誘導のように一つの流れが出来ることに他ならない。その流れが磁場のように北極と南極を突っ切るため、三者を統合することが可能となる』
人間と地球と宇宙とを繋ぐ。それは、概念的な意味でなく、直接的に、知ることが出来る。そうしてこの世界の成り立ちを理解して、翠は本当に納得しているのか。
その理由は聞いておく必要があった。愛美さんはしばらくして、僕の方を向いた。
「空と地上と海、いわばそれが混ざり合い原初の混沌を再現するとどうなるか、わかるでしょう」
愛美さんがイメージしているのはギリシャだろうか、聖書だろうか。そうした物語の中で、全ては混沌であるが故に、知ること自体意味のないことだと思っているのだろうか。
翠の文章からは別の次元にある情報を無理やりに統合していくようにも思えて、愛美さんの言葉に僕は首を振った。彼女はそのまま続ける。
「混沌は混沌でしかない。カオス理論によって導き出される自然現象は、原初の混沌をその内に秘めている。それは何も分からないのと同じ。実験が出来たとしても、翠が混沌の海に沈むだけで何も意味がない」
空、地上、海が同じ流れを生む、北極から南極の直線的な流れによって。乱暴な言い方をすれば、誰もが知っている電磁気学のアンペールの法則のような関係性を持つことになる。電流と磁場の関係のように単純な関係性にはならないと、僕は思ったし、愛美さんも思っているだろう。
『この統合によって、人類、惑星、宇宙における相関性と、全てに共通する情報が第二の脳から得られると考えている。膨大すぎて、私自身が飲み込まれて仕舞うかも知れないけれど、私も直接アクセスする。この実験が正しい結果を生み出すことが出来た場合、私個人には知らされない可能性が高い。もともとは、第二の脳をグリットコンピューティング出来るか確認するための実験なのだ』
果たして彼女をそうまで駆り立てる理由とはなんなのか。
「やっぱり翠に直接話を聞かないと、僕には分からない事だらけだ」
愛美さんは不思議そうに僕を見返し、口を端を歪めた。
「人は社会的でも自閉的でもあることが出来る。人との間に生じるずれ、境界面が分からないのが後者で全ては完結している。前者はこの世界のあり方、相対的なものとなっているというのが生来のイメージだけれど、この世界の起こりはどちらなのか。モチーフや元型があるなら、それを知りたいって、翠はよく言っていたけれど」
知らない筈はない、貴方は何を考えているの? とばかりに鼻で笑い愛美さんは続ける。
「相対性の間に横たわるものが全ての物事に存在するのであれば、全ての存在がとても曖昧なものになる。位置と運動が波動関数に基づいて量子的広がりの雲を作り、外乱によってどちらかに収束させる。この曖昧性というものは、膨大な情報を扱う上でも役立つけれど、宇宙の始まりに際してそういった何らかの対象性、境界面が存在しないとすれば局所的に存在し得るものが全ての創出となる。馬鹿げた話でしょう、笑っちゃうくらい」
有名なもので言えば、特殊相対性理論が思いつく。時間の流れ方は相対的なもので、一つの指標として光速がある。物事には全てそういった相対的な側面を持っている、絶対とは相対の包括的表現の一つに過ぎない。
宇宙の始まり、それは何らかの外乱要素もなくただただ絶対的なものだと、翠は考えているようだ。
「貴方は人類、地球、宇宙の全ての記録を得ることで何が分かるのか、考えたことはある? 私は絶対的な物は大嫌い。神曲の天国編には神の叡智に取り込まれた人間達が現れるけれど、彼らには個性が存在していない、道端にある石と同じ。翠は全てが絶対的なものであると証明したいの、そうすれば安心できるから」
確かに、翠には不安定なもの、曖昧なものをはっきりとさせたい性格をしている。そのため、一緒に居る時は様々な疑問を投げかけ、考えていた。
傍から見れば鬱陶しく見えていたのかもしれなかったが、僕はそういった些細な疑問を広げて、時に空想のような話をする会話が楽しかった。思っていることを口に出しあうことは、安心感にも繋がっている。
「けれど、そうやって小さな疑問を考え、積み重ねてきたから今回の実験に取り組むと思っている。肝心なのは、翠がどうしてそこまでして危険を冒そうと思ったのか、僕はそれが知りたい」
突然、我慢の限界とばかりに、愛美さんは矢継ぎ早に僕に質問を浴びせかける。
「宇宙が蓄えてきた情報から翠が見つかるかもしれない。そうすると何? 私と翠との距離がなくなって、私が好きであることも理解して貰える? どうしてなのか貴方は説明できる? 私でなく、毎回毎回貴方なのも気に入らない、貴方って冷たいのよ、結局のところ、翠が居なくなってもいいんだから」
愛美さんはそう話しながら読んだときのことを思い出して、感情を吐露する。その時の動揺を僕にぶつけてきたが、それだけ言うと椅子を引いて立ち上がりテーブルの周りをぐるぐると回り始めた。
彼女は違う、違う、とぼそぼそつぶやいていた。
『面倒な話でとても退屈したかもしれない。長くならないよう、原稿用紙二枚程度に削ってしまったから、説明不足になっているところはごめんなさい。私が実験する頃に間に合えばいいけれど、今から一ヵ月後には北極で実験をする。出来ることなら、智久とも会っておきたかった。もしかしたら、もう会えなくなるかも知れない。ドクサは智久が引き取ってくれればと思う』
そこで日記は終わっていた。僕が読み終わるのを確認すると、愛美さんは何も言わずにPCを持って階段を上がっていった。その顔に表情はなく、泣いてはいなかった。
簡単に言えば、地球と宇宙の記憶を覗き見たいということなのだろう。人間の脳が、宇宙の縮小図であるかのように振る舞うには理由がある。
宇宙にも記憶があり、全ての始まりを知ることが出来る。翠はそう信じていた。
「こんばんは。おもてなしもせず、申し訳ない。お茶でも入れようか」
愛美が階段を上って行った後、数分くらいしてリビングの引き戸が開き翠の父親と思しき人物がやってきた。
先ほどは薄暗く容姿がぼんやりとしていたため分からなかったけれど、改めて見ると背は高く体格の良い精悍な顔つきをした男性で、僕を見るとその顔は人懐っこく綻んだ。
「初めまして、和久井智久です。こんばんは。こちらこそお騒がせして済みません」
僕が挨拶をするのを尻目にせかせかと湯を沸かし、茶碗を用意する。どことなく慌てたその様子に、リビングの方を見ると開いた戸に体を預け、髪が緩く波打っている女性がその様子をじっと見ている。
「こんばんは智久君、由美恵と申します。気にしないで下さいね。私は置物だと思って、夫と話をしていてね」
翠の父親の様子からして、好ましい事態ではないようだったが、由美恵さんはこちらと目が合うと微笑んだ。
翠の両親は彼女がすでに成人していることから考えてみても、年は五十に近いものの若く見えた。三十台後半と言っても過言ではないほどに。
「愛美は情緒不安定なところがあるが、暴言はあまり吐かない。自分でも分かっているから、そんなに心配しなくても大丈夫だ」
翠の父親は話しながら茶を急須へ注いでこちらのテーブルへ持ってきて、僕の隣に座った。隣に来ると威圧感が強く、見上げるような形となった。
「気持ちが不安定なのは、やっぱり翠が居なくなってからですか?」
僕は愛美さんが翠に対して並々ならぬ関心を抱いているように感じていた。
「今日会ったばかりというのに分かるか。それに、自己紹介が済んでいなかったか、俺は美佐雄。聞いていると思うが翠の父親だ。愛美が君を連れてくると言った時は驚いたよ、何せ昨日突然言い出したからな」
そう言うと美佐雄さんは妻の由美恵さんの方を見て首を振る。由美恵さんは何も言わず、佇んでいる。
「愛美はいつもこうだ。自分が考えたことは周りも承知しているし、止めることはないと考えている。翠がふさわしいと決めた人にあれこれ文句を付けるのは止めろと言ったんだがな」
茶を啜りながら美佐雄さんはそう言う。自分の考えに自身を持っているのか、その顔は自慢げだった。
「だから和久井君、そう硬くならないで話をしよう」
言いながら美佐雄さんは気を良くしたのか握手を求められ、つられて手を握ってしまう。
「そんなのは体の良い言い訳。美佐雄さんは愛美には強く言えないの。何をどうしたら娘に言い負かされる父親がありますか、私と二人で気楽にゲームすることすらもままならないなんて」
それを見て呆れたように溜息をついて、由美恵さんは僕の方を見てそう言った。
「済みません。本当に、お邪魔してしまって」
目線を交わそうとしない由美恵さんとその目線を気にする美佐雄さん。二人の冷ややかに思えるやりとりを見ていると、邪魔をしてしまったことに対して申しなく思う。
「そうやっていつもいつも振り回されるこっちの身にもなって。由美恵さんはいつもそうやって意地悪したいだけなの、別に申し訳なく思う必要なんかない。ごめんなさい、さっきは突然当たったりして」
愛美が降りてきて、冷蔵庫から飲み物を取り出しながら母親に言った。
「それくらい勝手なところを見せるのも私の教育のテーゼなのよ、親なんて構えてやろうとすると頭が幾つあっても足りない。指針程度に考えて貰わないと」
由美恵さんはそう言いながらカラッとした笑い声をあげる。そんな屁理屈のような返答に愛美は舌打ちし、美佐雄さんは呆れ顔で呟いた。由美恵さんとはあまり良好な関係であるとは言いがたいようだ。
「だからってなあ、ゲームくらいで拗ねるとは思わないだろ」
由美恵さんはそれを無視し僕の正面の椅子に腰掛け、両肘をテーブルに突いて口を開く。
「そうねえ。智久君はどうして翠のことが好きなのか、せっかくだから教えてくれないかしら。愛美は黙っていてね」
僕に笑いかけ、顔をしかめながら愛美を見る。由美恵さんはどことなく演技めいていて美佐雄さんに対する態度もわざとやっているようにも思えた。
「智久君、言葉を選ばなくてもいいの、それだと嘘臭くなるし、ね」
愛美さんも美佐雄さんも黙り、由美恵さんは緊張して考え込もうとする僕を急かし、思ったままを口にするよう促した。
「話好きで、好奇心の塊な所がいいです。話している時の翠の表情が愛おしく思えて」
長くなるものどうかと思ったので、僕は端的に翠の性格について触れる。由美恵さんはゆっくりを首を振る。
「違います。男の人は見た目の拘りが強いでしょう、端的に。翠はどう?」
由美恵さんはまるで性格は二の次と言わんばかりに質問を繰り返した。そしてそのことが気になる様子だった。
「……ショートカットで眼鏡を掛けている翠が素敵だったから」
改めて翠を好きな理由を話すと恥ずかしくもあり、顔が熱くなるのを感じた。
「恥ずかしがらなくてもいいのいいの。ちゃんと翠と会ってあげてね、北極に行くんでしょう。大丈夫、渡航に関しての書類は揃っているから、智久君はパスポートだけ持っていれば翠に会えます」
今持ってくるわね、と言って由美恵さんはそそくさと椅子を引いて立ち上がろうとしたが、美佐雄さんがそれを制するように口を開く。由美恵さんの顔から表情が見る見るうちに消えていった。
「結局、俺も由美恵も娘が決めたことに関して口を出せない。由美恵、最後かもしれないから智久君には話そう。翠のことを思い遣ってくれているのは娘の普段の言動からも分かる。はっきり言って、由美恵にはあまり良い思い出ではないだろうが、良いな?」
由美恵さんにとっては触れずに済ませて起きたかった話題なのか、一瞬下を向く。その顔は先ほどに比べ老けて見て取れ、色々なことが合った事を思わせる。
「美佐雄さんの口から話しておいて。私、冷静に話せる気がしないから」
由美恵さんはそう言い残して部屋から出て行った。それを眺めながら、愛美さんは軽蔑したように言う。
「今頃丸くなっても遅い。私がここに十三の時に来た時、あの人なんでか翠と張り合っていた。何の嫉妬か知らないし、美佐雄さんも今みたいに頻繁に家にいることはなかった。気づけなかったことは問題だけれど」
苦い顔をして美佐雄さんが口を開きかけた時、鞄から猫のか細い鳴き声が聞こえた。
「愛美、そのことは済まないと思っている。しかし、翠の猫は和久井君が預かっていたのか、てっきり翠は一緒に連れていったのかと思ったが、この様子だとやっぱり、覚悟しているのか」
美佐雄さんは鞄から顔を覗かせたドクサを抱き上げると、膝に置いた。安心し切っているのかドクサはされるがままだ。
「どうしても翠は今回の実験をやり遂げるつもりなのでしょうか、僕には複雑な事情は分からないけれど」
自分が死ぬかもしれない実験を自ら進んでやるには、日々の『宙に浮いている』云々に繋がる疎外感だけでは説明が付けられないと、日記を見て僕は感じた。
「だから貴方に来て貰いたかった。翠とのこれまでの関係を聞くと、どうしてもこれは必要なことだと思う。盲目の眼が開くとき、貴方は死ぬのかしら。後悔に苛まれる神父かしら。翠と由美恵さんとの間にあったことは、私は許すことは出来ない。そのことに関して触れない、美佐雄さんが話してくれる」
愛美さんはそう言って口を噤むと、美佐雄さんの方を見ながら口の端を吊り上げて笑う。彼女の笑いは、自分から何かを守ろうとするためなのか、何か嫌な思い出があるにも関わらず笑っていた。
『嫌なことが合った時、よく私はドクサの瞳を見つめ続けるの。綺麗な灰色と緑のオッドアイの虹彩に吸い込まれるように、気がついたらその美しい虹になっている。色彩と光の感覚だけになる、それはとても安心できる感覚で、自分の手も意思も何もかもが塗りつぶされたように、素晴らしいの』
人によって、自らを守る手段は様々だ。翠は愛猫の眼を見つめて、愛美さんは笑う。
美佐雄さんは幾度か茶を啜り口を開いた。
「翠は、私達の血縁の娘ではないんだ。愛美は親戚の子だが、翠は俺の友人の娘だった。その時の事情は省くが、
黙って美佐雄さんに口を挟むことなく聞く。彼は大儀そうにドクサを愛美に手渡しながら話を続ける。
「この友人というのが少々曲者で、どちらかといえば妻は彼のことを好いていた」
「いつだってあの人は自分が最優先、それは変わらないね」
美佐雄さんが続ける前に、愛美さんは口を挟む。彼はそれを嗜めて身の上話を続けた。
「同じ職場というのも合ったのだろう、彼が妻帯者であり不貞を犯すような人間ではないと知りつつも、彼の紹介で俺と出会い、妻からアプローチを受けて結婚した。妻はどうか知らないが勿論、俺は今でも愛しているよ」
説明に託けていたが、これは美佐雄さんと愛美さんの話し合いのようだった。僕はずっと撫で付けられて嫌な顔をしないドクサのように、澄ました顔で佇む。
「それが不味かったのかも知れんな、已む無く友人の子を引取ることにしたが妻の娘に対する扱いは良いものとは言えなかった。それに、翠はいつも猫を話をしていて、自分のことが無視されているようにも思ったのだろう、ほとんど干渉がなかったな」
その言葉に愛美さんは噛み付いた。初めからそうすると決めていたかのように。
「あの人は機嫌が悪くなるとすぐに翠を否定した、大きな騒ぎではなかったにせよ、そうやって小さな不安を与えてきた、存在を否定されて、それを『扱いが良いものと言えなかった』だなんて」
「すまない。それは妻、由美恵が悪かった。確かに、身寄りなかった翠に対してはもっと優しく接するべきだった。俺も由美恵のことを信用し切って何も聞かなかった。そのことは後悔している」
「それだけ? ただでさえ他者を感じ取り難い翠が人との関係にただならぬ関心を抱くようになって、その結果が今の状況だと言うのに、そんなもので済むの? 信じられない、本当に何も翠のことを分かっていないんだ」
淡々と言葉少なに話す美佐雄さんに、愛美さんは怒りを以って相対する。自分から話すべきだと言っておきながら、たったそれだけなのかと、憤っているようだった。
「だが、愛美が来てからは俺の仕事が落ち着いたのもあって、悪くない関係を築けて来れたと思う。感謝しているんだ」
美佐雄さんの精一杯の誠意なのだろうが、どうしても言い訳じみた感じは拭えなかった。
「あ、そう。もう良い」愛美は僕に猫を引き渡し、自室へ戻っていった。
「智久君も済まないね。全部後から聞いたことで、俺は知らなかった。翠はなんて言えば良いのか……、別に俺や君と別段変わりはないんだが、少しばかり他人との間隔を上手く掴めない」
だからと言って、君は変な目で見ないとは思うが、と美佐雄さんは話を続ける。
「それが切欠になっていると言うんですか?」
「そうかも知れない。それで、その点に関して由美恵が凄い敏感だった。元々子供を持つつもりがなく、子育ても乗気ではなく、あまり反応のない翠と一緒の生活に強いストレスを感じて当たってしまったのだろう」
そうであるなら翠が人との距離感に対して『宙に浮いている』などと言葉で評していたのは、彼女なりに人との距離感を保とうと考えての疑問にも思える。
「それならどうして由美恵さんと美佐雄さんが翠を引き取る必要があったのですか。親戚に預けるとか、美佐雄さんが忙しい仕事から手を引くとか、色々とそうさせない手段はあったと思うんです」
友人とはいえ、引き取るのであればそれ相応の準備を考えなかったのだろうか。
「そういえば、智久君は秋津寛久という男を知っているか?」
美佐雄さんは僕の言葉を殺し、深い溜息を吐いて唐突に質問を投げかけた。僕の膝上に居る毛玉がびくりと体を震わせて、周囲を見て目を閉じた。何故かその動作が人間味を帯びていて、自然に背中に手が伸びた。
「翠が居なくなってから、よく家の近くをうろついているのを見かけます」
突然話を変えたことを訝りながらも、秋津が最近僕の家に来ていたことを思い出す。彼がどうしたの言うのだ。
「彼は第二の脳の被害者でもある。元から患っていた記憶障害を解消するために第二の脳を使っていたがろくに交換もせず酷使したが故に動作不良から記憶崩壊が起きてしまい、自分が誰かも分かっていない状態だ」
記憶障害を第二の脳で補う方法は聞いたことがあった。頻繁に第二の脳とやり取りするため、定期的な調整と交換が必要になりとても慎重に扱う必要があることが一般的に知られている。
「会った時は、翠半分、寛久半分の様な感じで。必死に翠の居場所を探していました」
翠の居場所を探している癖に、彼女自身であろうと姿を真似ていた彼は可哀相にも思えた。美佐雄さんは一瞬階段の方を見て、僕に向き直る。
「彼は愛美の父親だ。愛娘の記憶がどうしても思い出せなかったらしい、愛美が親しかった翠のことはかろうじて覚えているためかうちにも良く来てね、智久君のことを教えたのは由美恵だろう。彼は哀れっぽく振舞うのも得意だから仕方なくなんだろうが、どうも後先を考えられないのは直らないな」
美佐雄さんは半ば諦めたように由美恵さんの愚痴を溢しながら、愛美さんの父親について話した。
「今の状態になる前は全く人の良い親父さんだった。それまでは生活には支障がないからと、愛美が頑として認めずにいた。だが、彼女なりに思うことがあったのだろう、彼は明日病院へ収容されることが決まっている」
そこまで言うと、美佐雄さんは時間を確認して思い立ったように僕にチケットを差し出した。僕がそれを受け取ると、椅子から立ち上がりそろそろ終わりとばかりに僕に立つよう促した。
「智久君、翠が残してくれた北極行きのチケットだ。俺は出来た大人ではないが、出来たら愛美と一緒……いや、帰る前に一度愛美と話してやってくれ。よろしく頼む」
美佐雄さんは曖昧な笑顔を浮かべて元来たリビングに戻っていった。
僕は彼に言われた通りに階段を上り、開いてくれとばかりに半開きになっているドアの外で声を掛けた。
「愛美さん、入ってもいい?」
しばらくの沈黙。抱いていたドクサが腕から抜け出して部屋に入っていった。
「駄目。今ドクサと遊ぶから、そのままじっと天井向いて木目を数えていれば? どうせろくな話もしていないんでしょ、これなら連れてきても何も変わらない」
そう言う愛美さんの声はどこか悔しそうで、今日、僕が翠と愛美の育ての親と話すことに何か期待していたように思えた。
「僕は思っていたんだけれど、愛美さんは翠のことが好きだ」
愛美さんは翠に並々ならぬ感情を抱いており、そのせいで情緒不安定になるように見えた。それはきっと好いているからだと思う。しばらくの間を置いて、部屋から声がした。
「貴方の言っている好きって、どんな意味で言っている? 私じゃなく貴方だったということ?」愛美さんは、やや早口に、迸りそうになる質問を押さえつつ僕に問いかけた。
僕はその問いには答えることが出来ない。思いを口にするだけだ。
「それは翠が決める。けれど、愛美さんが翠を好きという気持ちは恋愛感情のようにも見えて、家族愛のようにも見える。とても大事に思っているのは確かだ」
それを聞いて、愛美さんは自らドアを開けて何も言わずにベッドに腰掛けた。腰掛けるのを待っていたかのようにドクサは彼女の膝の上に収まって、気持ちよさそうに毛繕いを始めた。
「確かに私は翠のことを愛しているような気もしている。でもね、初めて翠に恋人が出来たとき、余計なことを吹き込んで別れさせたのも、無理に迫って困惑したままの翠を襲ったのも、若く未分化な精神構造のせいだとは言い切れない」
ただの嫉妬、離れていってしまうのではないかといった不安があるのだろう。
「私が悪いとして翠はそのことを忘れない。ふとしたときに、私がしたことを私の隣で思い出す。翠が研究のために長く家を空けていなければ、私は翠にもっと酷いことをしたかも知れない。自分の嫉妬深さが憎らしい」
そこには皮肉めいた笑みも、試すような言動もなかった。愛美さんはただ自らの過ちを吐露する。実際にどのような行為に及んだかは口にしなかった。
けれど、性的な衝動だと思ってしまうのは男の性だろうか。
「出会ってすぐに翠は妹のことについて話していた。高校を出た頃から避けるようになった妹のことを心配していて、家に帰っても居ないからと少し悲しげだった」
余計な思考を追い払い、翠と話していたその時はあまり気にしてはいなかったけれど、今の愛美さんを見てそんな記憶が第二の脳から引き出された。自分の脳との記憶と区別がつかないものの、こうした些細な記憶は第二の脳からだと直感する。
「翠は優しいから、あんなことをした私ですら恨まない、そうした部分を見たことで私に対して奇妙なほどに優しくするのが辛い。でも翠はもうすぐ消えちゃうんでしょう、私どうしていいかわからない」
翠は北極で第二の脳を使った実験をする。地球の発している成層圏でスプライトなどの現象が人間の脳の磁図と似たような反応を示す。この際に地球の現象を脳の情報として認識させ、人の惑星、ひいては宇宙の思考とも言うべきものを覗き見ようとしている。
「その危険性が高いことは翠も言っていたけれど、彼女だってわざわざ死ぬ様な真似はしないと思う」
けれど、それは何の確証もない願いであって、直接自分以外が持つ情報にアクセスして無事でいられるはずがない。方汰や秋津の例もあるし、ましてや地球や宇宙など膨大な情報量を一個の脳がオーバーフローなしに得ることは出来ないだろう。
「でも、幾ら第二の脳を緩衝として置くにしても、その情報を翠自身が受ける必要はないのに、出力媒体なんて幾らでもある。後のことは考えてない、自分本位過ぎて。でも、私は何も言えなかった」
たった一人の第二の脳との通信でも何かあれば甚大な脳障害へと繋がる危険性があり、それを大量に繋いで地球が発する情報を取得するなど正気とは思えない。しかし、愛美は彼女を止めることが出来なかった。
そもそも、引け目を感じている愛美さんが本気で引き止められたのか、難しかったのではないか。
「私はもう翠に口出しできないの。合わせる顔もないし、貴方に頼っても……?」
愛美さんは感情の高ぶりに合わせて声が消え入りそうになり、最後はほとんど掠れて言葉にもなっていなかった。それでも彼女が僕に縋ろうとする気持ちは感じられた。
「僕と翠の問題と、愛美さんと翠の問題は違っている。頼ったとしても一緒に行くべきなんだ」
人に頼って、投げてしまえば当事者ではなくなってしまう。それは翠にとっても寂しいことだろうし、愛美さんは止まない後悔に苛まれることになる。
「でも私なんて要らないことが分かったでしょう。北極に行くの?」
先ほどの話からして愛美は翠に対して罪悪感を持っている。自分は翠に会う資格はない。そういった誇大妄想は得てして一歩踏み出せば消えてしまう。
「うん。翠がなんと言おうと、彼女に会いに行こう」
だから僕は愛美さんも一緒でないといけないと思う。
「シェークスピアでも、ジッドでも様々な悲劇の物語は、人の些細な思い込みやすれ違いが生み出している。私は自分自身が考えた勝手な翠を作り上げていた。だからこうして貴方に縋ってしまう、惨めな女なのが辛い」
多少なりとも僕が後押ししたことで、愛美さんは否定的な考えから離れようとしている。
「愛美さんは翠のことを思い遣っているし、辛くても間違っていない。理解はするものじゃなくて、させるもの。愛美さんの気持ちも、僕の気持ちも、翠には伝えないとわからない」
少し恥ずかしかったけれど、愛美さんは素直に僕を見て頷く。
「人は知りたいことしか知ろうとしないけれど、貴方のことは知る価値がある? 何度も言うけれど、翠は貴方よりも実験を優先した。翠は人を肝心なところで恐れてる」
愛美は念押しとばかりに、僕の決心を確認してしまう。
「それは会ってから確かめれば良い。幸いまだ翠は生きていて、悲劇のように悲嘆にくれて自殺するには早いよ」
これ以上翠のことについて、僕がどうこう言うことはできない。実際に翠に会うしかないのだ。
「でも、私は悲嘆にくれて自殺したい。向き合うことを恐れているのは私なの」
愛美さんは僕のほうを見ないでそう言った。
「強制はしない。けれど、翠が寂しがっていたのは事実、それは僕にも埋められない」
結局のところ、最後に決めるのは愛美さん自身。決心が固まりつつあるけれど、感情の整理が続く。
「それも分かる。チケットも二枚ある。私の準備は終わってる。けど、分からない」
愛美さんは行くことは分かっていても、言わずにはいられないだけなのだろう。
「行こう、ドクサ。念のためチケットは貰っていくから、また明日」
ドクサは僕が呼ぶと、愛美さんの膝上から降りて鞄の周りをうろうろし始める。
「うん。それでも、貴方が一緒に来てくれるなら……」
頷いて黙り込んだ愛美さんとの会話を切り上げドクサを鞄に入れて、翠の家を後にする。家から出る際に玄関で挨拶をしたものの、翠の両親は出てくることは無かった。
明日、翠に会うために北極へ向かう。翠は何を言うのだろう、彼女が決めたことはきっと覆らない。
僕はそのことに関してあまり悲しんでいないことに気づき、頭の中では恋人であるなら、大切に思うなら、と揶揄するような思考のちらつきを隅に追いやりながら、ドクサを撫で、柔らかい毛並みと暖かさを感じていた。
――疎外感と愛に――
僕と愛美さんはスバールバル諸島にあるニーオルスンの発着場からヘリコプターで北極に浮かぶ砕氷船に降り立ち、怪訝そうなベルギー人に案内されて翠を含む研究者達がいる簡素な客室に通された。
「間に合ってよかった。もう会えないかと思った」
初めに僕は窓から外を眺めていた翠に声を掛け、周りの研究者にも頭を下げる。彼らは僕らの雰囲気を察して部屋を出て行くが、一人だけ顔を伏すように下げて椅子に深々と座り込んだままだ。
「準備が終わって第二の脳が全て繋がると、その電磁的連動によって星渡りが起きる。それは綺麗な風景だと思う。愛美も、一緒に見よう」
翠に詰め寄り、愛美さんはゆっくりと抗議する。
「どうしても、やらないといけないことなの? 人が孤独である、という事実はお姉ちゃんが居なくなる理由ではないよ。こんな実験はやめて、帰ろうよ」
愛美さんからは何かの引用と皮肉めいた言葉はなく、翠に対して甘えるようにも見えた。
「お別れになるだろうね。私は死にたい訳でも、孤独ということでもなくて、単純に知りたいと思ったことだったから。情報に飲まれて肉体としての活動が終わったとしても、私という現象は世界と宇宙に流れる情報となり、この宇宙の始まりを知ることが出来る」
やんわりと愛美から距離をおいた翠が滔々と口にした言葉に、僕も愛美も何を言っているのだろうと、怪訝な顔をしていたに違いない。脇から低い声が話しに入ってきた。
「突飛で理解し難いだろう、そもそも第二の脳をグリッドコンピューティングする意図を考えてみろ、そうすることで何が生じ、彼らは何を得るのか。それをどうにかして、自然界が持つ情報とすり替え、全ての第二の脳がぶっ壊してしまいたい」
きっちりと揃えた前髪と深い隈が印象的な男がやや高慢に告げる。
「が、これを使うことで、完全な人民主体の政治が出来るようになる。簡単なことだ、全ての人間の思考がその中に入っているのだから、知らない内に共通項を集められ、人々が考える中で最良の結果だけをオープンでスマートに求められる」
だからどうしたというのだろう。愛美さんもそう思ったのか、口を開きかけたところで翠が口を挟んだ。
「マルコフ、そんな下らないことは要らない。どうして、人間を取り巻くこの地球や宇宙が記録を、記憶を持たないと思えるのか、それらを一つの現象として捉えれば人間も星もさほど変わりは無いのに。今回私が考えている実験は有益なものだと信じている」
ここで目的について話すのはやめたとばかりに男は溜息をついてこういった。
「その結果、こうやって大切な人を悲しませることは有益だろうよ。しかも、後十数分もすれば実験は始まるってんだから、さぞ感動的だろうな」
マルコフは毒を持った言葉を吐いて部屋から出て行った。
翠はそれを何でもなかったかのように無視し、僕の鞄が小さく動いたのを目ざとく見つけた。流石に猫を連れては駄目だろうと思ったけれど、ここに来るまでには何も言われなかった。
「ドクサ連れてきていたんだ。君も元気そうで良かったよ、形式に囚われなければこれからも私といられる。何も問題はないね」翠は鞄からドクサを出して見つめ、撫でた。
「こうやって話が出来るのは素直に嬉しい。愛美も智久も、私がこれからすることを見ていて欲しい。第二の脳とはいえ、全てが並列化された影響は計り知れないものがあるということ」
「バタフライ・エフェクトのように、一個の小さな磁場反応が海の生物にも影響を与えて、星渡りが始まる。そんなことより。お姉ちゃん、あのときのこと、覚えてる?」
これから起きることはどうでもいいとばかりに愛美は触れられなかったことに触れる。
翠は数度大きく目を瞬かせ、にやついたまま愛美ににじり寄り非難めいた口調で話す。
「忘れられるわけがないじゃない、あのときもこんな風に」翠は愛美の口を塞いだ。
愛美は驚いたがされるがままに任せ、自然と翠の肩に縋り付いて目を伏せた。
「愛美のことだから、私はおかしい、酷いことをしてしまったと自分を責めていると思ってた。だから、これでお仕舞い。これまであまり一緒に居れなくてごめんね」
ゆっくりと唇を離すと、翠は愛美に優しく笑いかけて頭を撫でた。愛美は子供のように翠に抱きついて、静かに肩を震わせた。
その後翠の勧めもあって、落ち着いた愛美と僕は宛がわれた客間で仮眠を取った。
長旅か、愛美と緑のやり取りを見て安堵したかで、僕は熟睡してしまい翠が僕を起こしに部屋までやってきた。
「智久、起きて。そろそろ始まる。甲板に出よう」
「すぐに行く」ぼんやりとした頭で答えると、翠は甲板に居ることを伝えて出て行った。
ベッドから降りると、砕氷船は既に止まっており流氷地帯から離れていることが知れる。僕は翠を追って甲板に向かった。
「その様子だと、終わるまで寝かせておいても気づかないでしょう、貴方は」
「翠はそんなことしない」
甲板に出ていたのは愛美と翠だけだった。愛美の皮肉っぽい嘲りを聞き流しつつ、星渡りが始まると思っていたけれど、違うようだ。
「今の時期の北極だと、一日の日照時間は二時間と少し。別の星のように思えて来る。お姉ちゃんはもう慣れたの?」愛美は僕の反応が薄いのを見るや、すぐに翠へ向き直った。
「今はね。暗いほうが考え事は進むし、良いこともあるよ」
翠が笑って答える。空は徐々に白み、赤が近づいてくる。
「日が沈む頃には、星渡りが起きて私がそれを見る。私とこの子で決めたことがあるの、二人にはそれを聞いて欲しい」
翠は防寒具の中にドクサを入れているのだろう、普段よりも胸部が膨らんでいる。よく暴れずに大人しくしているものだと思う。
愛美は彼女なりの遠回しの心配で、非難っぽくその膨らみを見つめていた。
「わざわざ外に連れてくる必要はないと思うんだけれど。二人で決めるって言っても結局は自分の記憶を辿っているだけじゃないの?」
一般的に考えれば、第二の脳は自らの記憶を自在に出し入れ出来る装置と考えるのが普通だ。脳を借りているからと言って、動物と意思疎通は出来ないと愛美は疑問に思う。
「ドクサは神経ネットワーク制御が不完全な状態で第二の脳になっている。だから私の衣を借りたドクサはそこに居て、私が何をするかを感覚的に知ってしまう」
太陽が出てくる瞬間に緑色の光が見え、僕らはぼんやりと揺らぐ太陽が昇ってくるのを待っていた。日が出ても、極地では太陽は真上に来ない。
「大丈夫。智久の心配はそんなに恐ろしくはないから。こんなに寒くても、日差しが暖かい」僕は知らぬ間に翠の手を握っろうとしていた。彼女はそれを絡めて笑う。
「愛美、智久、この実験が終わったら、ドクサの第二の脳から私の記憶を消して。この子にはお世話になったし、最後くらい普通の愛猫として過ごさせて欲しい」
「えっでも、それは、お姉ちゃん……」愛美は言外に不安を纏わせ、何かを言い掛ける。
「分かった。そうするよ、翠が決めたんだ」
愛美の口から出そうになった言葉を引き取るように、僕は翠の頼みに応える。
「ありがとう。それと愛美、ご免ね。不出来な姉で」
「なんで謝るの、私から見れば何でも出来る大好きな姉なの。気を使わなくてもいい、そんなに寂しいことを言わないで、私のたった一人の家族でしょう、私こそ」
翠の寂しげな笑顔に愛美は反発する。言いたいことが堰を切ったように出そうになった所で翠が首から下げていたタブレットがマルコフの顔を映し出した。
『翠、聞こえるか。こちらは天候が良くない、日暮れには酷い吹雪になりそうだ。幸い後は最終の動作確認が終われば実験に取り掛かることが出来る。予定では一時間後だ』
少しばかり苛立っているのか、マルコフは声の抑揚が過剰になっていた。
「分かった。こちらも今から観測機材の準備に取り掛かる。準備が出来たらこちらから連絡する」
それに翠が答えると、すぐにマルコフが突き放すように答える。
『駄目だ。そんな時間があるならとっとと準備を済ませろ、いつでも測定できるようにしておけ、双方の状況はこの端末から見えるようにすれば問題ない』
マルコフはそう言ったきり、奥に設置されているアンテナのような装置の方へ歩いていった。彼は自分の提案通りに端末をそのまま表示したままにしている。
「仕方ない、測定器の準備をしますか。二人は少し待っていて、手伝っても良いか聞いてくるから」手を振って船内に入っていく翠。
「貴方は気持ちの悪い情景だと思うでしょうね、姉に欲を抱くなんて」
太陽に照らされ、愛美は抑揚の無い声を僕に投げかける。
「話しかけないで。ほら、日も曇りに姿を隠して、消えていった」
実際に曇天が大半を占める空の中で、孤島のように抜けた青空は埋もれようとしていた。
「智久、手伝ってもいいって。愛美は危ないから部屋で温まってて」
どこか嬉しそうに翠は僕に告げ、愛美は何も言わず部屋に引っ込んでいった。
「但し、壊したら一生掛かっても返済できない負債がつくから気をつけてね」
「そんなものをよく素人に任せるよ。それでも、人手が足りないのも分かる」
ここにきた時、客間に居た研究者らしき人は五名か六名だった。大掛かりな準備はマルコフが居る方でするだろうと、僕は決めて掛かっていた。
「私と後一人しか残っていない。こんな物好きなことで予算がある方がおかしいの」
翠は自嘲的に客間の隣にある部屋を指し示す。
「電磁場、温度感知、ソナー、撮影機器、統合コンソールとドングル、多分不足は無いはずだ……あ、翠さんはライフゲージ付けておいて下さい。初めまして、上総です」
部屋に入ると一人の青年が用意された機材に不足が無いか確認していた。
彼は僕と翠に気付くと、軽く頭を下げてライフゲージと呼ばれるものを指差した。
「一応翠さんの生体反応も計測しておいた方がいいです。あ、和久井さん、一応言っておきますが、運ぶときに落とさないで下さい。洒落にならないんで」
これが簡単な配置図です、と彼は紙に機材の置き場を書き記したものを僕に渡す。
「翠さんがそれを付けている間に運んじまいましょう。そんなに重くないんで」
僕は彼と一緒に機材を運び、彼はそわそわとしながら周りを確認しては、危ないんで気を付けましょうと呟く。その度に立ち止まるものだから、余計に危なく感じた。
「上総さん、そんなに心配のために立ち止まらないで下さい」
「いや、駄目ですよ和久井さん。これ落としたらコトですよ、心配させて下さい」
縁取の付いた台車に乗せて縛っていても、彼は機材を壊してしまうことを恐れて僕が押す時には必ず付いて回った。これだと、人手が足りるどころか無駄になる。
しかし、そんなことは気にする必要はないとばかりに上総は僕を気にし続けた。
「和久井さん、どうして翠さんと付き合ってるんですか」
機材運びと設置を終えて、上総は唐突にそう言った。彼は機器に各種コードを繋ぎ、計測用のブイを海へ打ち込む準備をしているところだった。
「好意があるから、一緒に居て楽しいから」
当然とばかりに答えた僕の言葉に上総は不満そうだった。
「なら質問を変えます。どうして付き合えているんですか」
付き合えている。彼は、付き合うことではなくて、継続していることの理由を知りたいと思っている。それは、翠に何らかの要因があるようにも聞こえて僕は眉をひそめた。
「それも、さっきの答えと同じ。付き合えなくなると信じている節があるけれど、それはどういった意味で言っている?」
「そもそも付き合っているのかも分からなくなってきた。どうしてそんな興味がないように振舞えるんですか、今この状況でも、達観したように見えて腹が立つ」
そういって上総は計測ブイを海に向かって打ち出した。ブイは静かに浮かんで、測定用のカメラを散布する。なんだかその様子が撒き餌のように見えた。
「貴方が噛み付くのも結構、貴方のどうでもいい恋愛観も結構、でも、だからなに?」
わざわざ人に見せるものでもないな、と思っていた矢先に愛美が不機嫌そうな顔でやってきた。客室で一人で居るのも退屈なのだろう、翠は先ほどからマルコフと話をしている。
「こんなときにあまりにも冷たすぎやしないかって、思うんですよ」
「だからなに? 貴方が代わってやるとでも言うの? どうして、宙に浮いていようとするの?」愛美が疑問系で畳み掛ける中に、翠が良く言う質問があった。
「代わってやれないし、そうすることが楽しいから。姉妹揃って変な質問をしますね、最後まで大事に思ってくれていればいいんです」翠さん、準備できました、と上総は言う。
気が付けば太陽はまた沈もうと地平線を目指し、天気が悪いと聞いていた北極だったが、白んだ空には雲が少ない。
どうしてか、北極点の方には分厚い雲が垂れ込めているのが見えた。
「分かった。上総、ほとんど計測は君に任せることになると思う、よろしくね」
上総が曖昧な返事をして、翠はマルコフに準備が終わった旨を報告すると一息吐いた。
「後は待つのみ。上手くいけばとても綺麗な風景を一緒に見ることができる」
それまでは、どうしようか。そう言う翠の目以外は防寒具で隠れて、表情は分からない。それでも、今は二人でいることの出来る時間がある。
「智久はドクサがどうして私の家族になったのか、聞いた事があったかな」
やはり胸のところに愛猫が収まっているのだろう、翠は不自然な膨らみを撫でた。どうしても無理な感じがして、僕はそれが気になった。
「ドクサは大丈夫、いつもヤバい時は出て行くから」怪訝な表情を見て、翠はほころぶ。
「美佐雄さんが一緒に引き取ったと言っていたことは知っている。それ以外は何も」
翠はそれを聞いて頷く。お父さんの口下手は相変わらず、と呟いて続ける。
「亡くなった父が、こんなことを言っていたのを覚えている」
『自分以外の感覚が薄いということは良く分からない。せめて寂しくないよう自分自身の記憶を持つ、別の自分が居れば翠も分かるかも知れない、ほら、翠』彼女は一字一句たった今聞いていたことのように話す。
「そういって父はドクサを私にくれた。不思議だった、私は猫だったような気もするし、翠だったような気もする。お陰で自分と他人の感じ方の違いが分かる様になった」
ドクサは翠に与えられた時にはもう第二の脳として機能していた。本来は発露することのない自我を携えて、彼女がこれまで生きてきた中のパートナーとして。
「ドクサは猫なりに私として、とても気遣ってくれた。私は、何もしていないのにね。智久も、私は何もしていないのにここまで来てくれた。愛美とも仲直り出来て、嬉しい」
翠は突然顔を近づけて、とても可愛らしく、僕は顔が火照るのを感じる。
「意識しなくても感情が良く出てしまうところも、私は好き」
そのまま、甲板を柵伝いに歩く。聞いていたよりも太陽が沈むのが早く、もうほとんど日暮れに近くなっていた。
「僕は主に外面が好きなんだ。それに、物事に取り組む姿勢が無邪気で愛らしい」
僕の言葉はいつも不足している。翠はそれを怪訝に思わずに
「分かる範囲の物事を知らないと恐ろしい。この感覚はあまり理解されない。外見を褒める人は多いけれど、それは私を理解しようとして言った言葉でないのが、悲しかった」
外見はその人個人を表す記号に満ち、それが偶然一致したから、僕は翠とここにいる。
「大抵は性的欲求に行き着く。丸裸になる、その一歩手前が大事」
翠の言葉に照らし合わせて見ても、僕はただ運がよかった、それだけの話だ。
「こうやって面倒なことを考えないと、私は安心できない」
「そうした疑問について話していて楽しくなかった時が無いくらいに、言いたいことを飲み込まないでいてくれるから、一緒にいれる」
そうやって翠のペースに合わせているだけで、僕は言いたいことが口から出てこない。
「私でなければ駄目な理由、私と一緒に居た時間がそれを証明している」
言わずとも、翠は自らが知っていることであれば一人で納得して、その後遅れて僕が口を開くのを待つ。もう周囲は薄暗く、ライトが必要に思えたが点く気配はない。
時折、流氷の衝突する音と、冷たい風が吹く。透き通るような寒さの中では、小さな音が強調されて聞こえているかのようだ。
「僕は翠がいなくなるのは嫌だ。でも、翠が嫌だと思うことはしたくない。だからせめて、そのときまで一緒にいたい」
僕は翠を引き寄せ、彼女は僕より一つ小さい頭を肩に付けた。
「良く見ていて。観られるのはこれが最後かもしれない」
海の奥がぼんやりと光って、鯨の歌が遠くから響いた。翠の端末にマルコフから連絡が入る。鯨の歌は、翠が持っている端末から聞こえた。
『第二の脳のグリッド化に成功した、次いで第二実験に入る。既に星渡りの予兆が現れていると思うが、観測は……こちらでも確認出来た』
「予定よりも早い。発光性のプランクトンの反応するタイミングがグリッド化された脳波の引き起こす変化とほぼ同時、海と共鳴しているに等しい」
目を凝らさなければ見えない程のぼんやりとした光は次第に明るさを増す。端末を持ちながら鯨の声の先を翠は僕に指し示して、やや興奮気味に喋り続ける。
翠が見ている端末には測定されたデータが幾つか表示されている。彼女の生体情報、海中の音声、散布された小型カメラからの映像、それらを3Dイメージ化したものがあった。
「これが単なる自然現象なのか、それとも人間のような意思を持ったものであるのか、今回はそれも知ることが出来る可能性もある。そういった一連の流れに人が何処まで干渉することが出来るのか、私達が個々にユニークであることの断絶性は可塑性を持って分散された意思の連続に過ぎないのか、私に分かるといいな」
彼女の熱意と僕の理解は反比例して目の前の光景を注視する。彼女の熱意は何ものにも変えがたい。僕は何も言う言葉が見つからない。
「熱くなってごめんね、智久は何を考えているの?」
「翠が一番に考えることと、僕が一番に考えていることの違いについて、居なくなることは僕にとって辛いことだ、御伽噺では僕が強引に翠を引き留め、キスをして終わり」
出来るならそうしている。僕はそれが出来ない。命に代えがたい物はないと分かっていつつも、それをどう表現したらいいのだろう。
「それは少し違っているよ。私はこれと智久を天秤にかけて判断したことはないし、死のうとしてここにいるわけじゃない。この一ヶ月、智久が居なくて寂しかった」
翠は僕を強く抱きしめる。それを察知したドクサはするりと翠の防寒具から抜け出し、僕の首の間に収まった。
波一つ無く穏やかな海は徐々に光りの強度を強め、青さを増していく。光は幾つもの集団を形成して、海中に散りばめられているようだ。
「それでも途中で辞める訳には行かない。中途半端に終わってしまうことが、怖い。智久と一緒にいたいからと、止めてしまえば私はどうなるか」
翠が抱えている問いに僕は答えられない。
対照的に星渡りは進む、全体に広がるぼんやりとした光は、無数の星のように纏まっていく。空よりも近く感じる分、眺めていると自分達が宇宙に浮かんでいるように思える。
「あざといね、こんな情況になってからそんな事を言うなんて」
防寒具の間から呻くように言うと、顔を埋めてしまう。
「海が星空のようで綺麗だ。僕はここにいれて後悔はしていないよ」
僕は翠の背中に手を添えて、海を見続けた。
人工物の無い北極の流氷と、そこに取り残されたような1隻の砕氷船は星渡りによって宇宙に浮かぶ漂流物のようで、美しさよりも喪失感のような畏れを感じさせる。
「今は翠だけだから。大丈夫、大丈夫だから」
僕は自分にも言い聞かせるように、呟く。翠はそのまま少しだけ頭を動かした。
「綺麗、ね。今にも零れ落ちそうで」
陶酔したように海を見つめ、ぽつりと翠は口を開く。
「翠と一緒に見ることができて、僕は嬉しいんだ」
そう言うと翠はこちらを向いて、わずかに微笑んだ。
「私もね……あの鯨が海面に達して三重の螺旋が第二の脳と空を繋ぐ」
穏かな鯨の歌が翠の端末から聞こえる。星空のように明るい海の中で、遠く南の方を見ると光の螺旋が海面へ上っていた。
良く見ると、それは発光性のプランクトンを纏った三頭の鯨だった。
「そうしたら、私ともお別れかもしれない」
そうして繋がったところへ翠も飛び込む。膨大な情報量に耐え切れず、彼女が消えてしまう可能性があるにも関わらず。
それでも翠は結果が見たいと言う。
「僕はこの時間を翠と過ごせることが幸せなんだ」
愛惜の情はあるものの、僕はそれ以上に翠を後悔させたくはなかった。
「行かないでくれ、ずっとこうしていたい。とは言わないのね。でも、私はもっと一緒にいたかった」
鯨の旋回は砂時計の零れるようにゆったりとしているように見えたが、海面まで到達するにはそう時間は掛からないだろう。
既に光の螺旋は海面にそう遠くない場所まで到達していた。
僕の首に取り付いていたドクサは翠との間に隙間が出来ると、彼女の首から中に入った。
「ドクサも一緒にいてくれる。翠がいなくなると決まった訳でもない」
「そうね。そうだよね、私は宇宙の記録を垣間見て、また一緒にいれる。お願い」
翠はそう言って目を閉じて僕を促す。僕はそれに応え、彼女の唇に触れた。
抱きしめた時とは違い、翠の体温と息遣い、安心感がある。それと同時に、彼女への愛おしさが込み上げて胸を刺した。
そこには僕と翠だけしかいない。綺麗な星渡りも、鯨の歌もなかった。
僕らはしばらく、互いの温もりを感じたまま、そうしていた。
いつまでも、そうしていたかった。
数分間の長いキスの後、翠と僕は手を繋いで、星渡りをぼんやりと眺めていた。
「智久、私と一緒にいて、よかった?」
「もちろん。これからも」
そんなことは叶わないのかも知れない。
けれども口にすることで叶って欲しいと、僕は思う。
三頭の鯨が海面に顔を出すのももうすぐだ。
「うん、最後にもう一度だけ。智久は、どうして宙に浮いているの?」
初めて聞いたときははぐらかされたから、と翠は僕を見つめる。
「はっきりとは言えないけれど、僕は人との小さな差異がなければここに翠と一緒にいられなかったと思う。だから宙に浮いているんだ」
その言葉に対しては、翠は何も言わずに納得したように頷き、僕を見つめている。
「私との約束を聞いて。ドクサが持っている私の記憶は消して、彼女の世話をして欲しい。彼女も、私と同じ位、智久のことを好いているから」
三頭の鯨はほとんど海面すれすれを旋回していた。僕は、翠が言いたいことを言い終わるまで、じっと待つ。
「それと、ドクサから私の記憶を覗くのだけは止めてね」
ふざけたように笑って、翠は僕に顔を近づけた。
「智久がいてくれてよかった。ありがとう。最後に、一度だけ」
翠はそのまま僕の口を塞ぐと同時に、鯨達が海面に顔を出し、海面を光の波が伝う。
光は一瞬だったが、強烈だったために僕は数秒間目が眩み、バランスを崩して後ろに倒れてしまった。
しばらくして、視界が回復すると共に、翠が僕の体の上で動かなくなっているのが見える。鼻からは血を流していたが、不思議と微笑んだままだ。
「翠……愛している。もう、会えない?」
動かなくなった翠を見て、僕は何もすることが出来ない。呆然と口から言葉が零れた。
ぼんやりとしている内に愛美達が医者を連れてやって来る。愛美は口を押さえて立ち止まり、翠はすぐさま担架に乗せられて医療ヘリで運ばれていった。
「マルコフさんが指示していたみたい、こうなることは分かり切っていたから」
押し殺したように愛美はそう言って、ヘリの飛んでいった方向を眺めている。
何事も起きてしまえば呆気ない。
僕は翠がいなくなってしまったことを実感できないまま、ただただ黒々とした海が目の前に広がるのを見ていた。
~~終~~
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