鬼姫綺譚
水鏡 玲
第1話『昔話 鬼里』
むかしむかし。
北東北の山の中に、小さな村があった。
その村ではなんと、鬼を神様として崇めていた。
それはもっとむかし。
その村に住んでいたのは鬼たちの方で、戦に敗れ逃げ延びてきた人々に、この村に住むように勧めたんだそうだ。
人々は喜び、鬼たちに感謝をし、鬼たちのために神殿を建てた。
鬼たちも大そう喜んだ。
ある時、神殿に住う女鬼が、人間との間にできた子供を産んだ。
可愛い可愛い女の子だった。
初めて鬼と人間との間に産まれた娘は、鬼姫として、神殿の奥で大事に大事に育てられた。
鬼と人とを繋ぐ大切な存在だった。
ところが、鬼と人間との平和な暮らしはそう長くは続かなかった。里の中で、鬼よりも人間が多くなったある時、たった一人の声から戦は悲劇は起こった。
「鬼は人を苦しめるだけだ。こうして優しく世話をし面倒を見てくれるのも、いつか取って食うためなんだろう!」
鬼達にはもちろんそんな気持ちはなかった。ただ人と一緒に暮らしたかった。手に手を取り合って、一緒に里を作り上げて平和に暮らしたかっただけだった。
鬼達がいくらそう訴えても、一度恐怖に取り憑かれた人の気持ちを変えることは出来なかった。
「鬼姫を差し出せ」
そんな声が上がるまでそう時間はかからなかった。
鬼姫は鬼と人とを繋ぐ大切な存在だ。そう簡単に差し出すわけにはいかない。鬼姫はすでに姫であるだけではなく、里の信仰の対象にもなりつつあった。
「ならば鬼姫の父と母を差し出せ」
今度はそんな声が上がった。鬼姫の母は娘が助かるならば、と自ら神殿を出ようとしたが、夫であり鬼姫の父である男がそれを許さなかった。鬼姫を護るための巫女もまた、反対した。
「貴女が行ったところで平和的な解決は望めない。無駄に命を捨てるでない」
巫女は鬼姫の母、
しかし、巫女は後悔した。鬼である母だけを先に逃したことを。
巫女が山から帰ってくると、鬼里の広場で一人の男が倒れていた。鬼姫の父だった。今にも息絶えようとしているその人へ、巫女は駆け寄った。
「何故このようなことに……」
巫女の問いに男はか細い声で答えた。
「私の命で人の心がまた鬼との共存を許すのならば……安いものです。ですが、巫女様に一つお願いがございます。どうか……どうか……」
来世では家族幸せに穏やかに暮らせますように。
その言葉を最後に男は息を引き取った。巫女の指示を受け、鬼も人も彼の埋葬を手伝った。そして、その光景を見て、人々は後悔した。間違っていたのは私たちの方だったのだ、と。
反省した人々を鬼は咎めもしなかったが心から許すこともなかった。
微妙な距離感を保ちながら里での鬼と人との共存は続いた。鬼姫の母は山から降りてくることはなかった。ただ遠くから、娘の無事と幸せを願った。何度巫女が説得しても、紅綺は首を縦には振らなかった。
鬼姫が年頃になった時、若い三人兄弟が鬼姫の護衛につけられた。
巫女が山から連れて来たのだ。親に捨てられ難儀していたところを、紅綺が助け共に暮らしていた。そこへ巫女が訪れて声をかけた。紅綺もそれを勧めた。
「あなた達になら娘を任せられるわ」
実際、最近の鬼里には“鬼姫の命を狙っている者がいる”という物騒な噂が囁かれていた。
せっかく平穏な日々を取り戻しつつある里へまた災禍がやって来ようとしている。
鬼姫は、鬼と人とを繋ぐ大切な存在だ。なんとしても守らなければならない。
神殿の警護も厳しくなった。神殿の外だけではなく、内部にも警護の者が立った。
鬼姫はさらに神殿の奥深くへと隠されることになった。それでも鬼姫は文句一つ言わなかった。巫女が連れてきた三人がいたから。
三人の守り人はとても優しく面白く、鬼姫は退屈することがなかった。
巫女は三兄弟にそれぞれ従者として鬼をつけた。
長男には黒鬼、次男には青鬼、三男には黄鬼。
黒鬼は体は大きいが繊細で優しく、守護の力が強かった。
青鬼は成人男性と同程度の体躯で頭脳明晰、知識を授けることが得意だった。
黄鬼はまだ子供の鬼で、体は小さいが無邪気で天真爛漫、人の心を明るく照らすことが好きだった。
鬼姫と三兄弟、鬼たちは神殿の奥深くの部屋から出ることは許されなかった。部屋の前には鬼姫と長兄とそう歳の変わらない男が護衛として立った。
男は鬼姫達が逃げ出さないよう、また不審者が入り込まないように見張ることを役割として与えられていたが、心中は複雑だった。
鬼姫は可愛らしいだけでなく、美しく成長した。色白の肌に長く伸びた黒髪。紅色の着物がよく似合った。男は、鬼姫に淡い恋心を抱いていた。
しかし、その恋は実ることはなかった。男が傷心のままに鬼姫達の部屋の護衛を務めていた、ある夏の日。
全身黒の衣に身を包み、顔までも隠した一人の女が神殿を訪れた。自らを黒巫女と名乗り、鬼姫を護るために力を貸したいと遠路はるばる都からやって来たとのこと。
神殿を護る長であった巫女は対になるような白い衣を身に纏っていたため、いつからか白巫女と呼ばれるようになっていた。
白巫女はこの黒巫女を信用することが出来なかった。巫女は自分一人で十分だと思っていた。しかし、白巫女も人であり、もうかなりの年齢に達していた。誰かの助けが欲しいと思うのもまた本音であった。
「其方を神殿に住まわせるわけにはいかぬ。本当に鬼姫様を想うのであるならば毎日ここへ通い祈りを捧げよ」
白巫女がそう告げると、黒巫女は素直に従った。里の西の果てに小さな小屋を建て、そこへ住み着いた。そして言われた通りに毎日神殿へ通い、鬼姫の無事を祈願した。
黒巫女が里に住み着いて数ヶ月が経った秋のある夜のこと。鬼姫達の部屋の護衛を務めていた男が行方をくらませた。白巫女が占を行ってみたが、男の行方は掴めなかった。
扉越しではあるが、言葉を交わしていた鬼姫達は大いに悲しんだ。せめて亡骸だけでもと思い、鬼と人とで里中を探したが、見つかったのは男が巻いていた帯だけだった。恐ろしいことに、その帯には血文字であろうものでびっしりと呪詛の言葉が書かれてあった。
誰の血液なのか、誰がやったのか、そこまでを調べる術を、里の誰もが持っていなかった。白巫女でさえ頭を抱えた。
「とにかく、鬼姫様だけはお守りしなければ」
耳も目も足腰も弱ってきた白巫女は鬼姫と護衛の三匹の鬼だけを神殿に残し、ゆっくりとした歩みで三兄弟を神殿の外へ連れ出した。末弟が白巫女の手を取り、支えながら歩く。
白巫女が向かった先には大きな池がある。深い池なのだろう、暗い色の水を湛えたその池の前で白巫女は二回大きく柏手を打った。とたん、穏やかだった水面が大きく揺れ出した。かと思うとその水は柱のように天へ向かって伸び上がる。そして、大雨となって神殿の屋根や地面を打った。
「久しいの、
池から現れたのは見上げるほどの大蛇だった。緑の身体に金色の目がギラリと輝く。
「巫女か。へぇ〜、人ってのはこうも呆気なく歳をとるもんなんだなぁ」
大蛇は人の言葉を話した。怯える末弟に次兄がそっと囁く。
「大丈夫だよ。これは白巫女様が飼われている式神だから」
水華と呼ばれた大蛇は大人しく白巫女達の方へと首を下ろした。
「頼みがある。見ての通り私の命はもう長くない。鬼姫の守護の全権をお前に託す。鬼姫を、この兄弟達を、それを護る鬼達を、どうか護ってほしい。願いがあるなら聞き届けてほしい。お前は天にも昇れる神だ。きっときっと、救ってくれるだろう」
白巫女の言葉に長兄が小さく舌を打つ。
「弱ってきたからって白巫女様らしくねぇこと言うんじゃねぇよ」
水華もまた悲しそうな表情を浮かべた、ように見えた。そして、長い舌をチラつかせながら言葉を発する。
「時間がねぇのは確かだ。西の方から嫌な気が流れてきている。できることはするさ。どんな結果になろうともな」
そう言って、水華はまた水中へと戻っていった。
白巫女が息を引き取ったのは、それから数日後のことだった。
白巫女までも失い、神殿は悲しみに包まれた。鬼姫も、神殿の奥深くで涙を流した。そんな中で長兄は鬼姫が眠った頃合いを見計らい、何度も何度も水華を訪ねた。この先のことを、最悪の展開を避ける術を授けてもらうために。しかし、水華の言葉はいつも同じだった。
「死の間際になったら願え。どうしても叶えたいことを強く強く願え。それだけでいい」
そのまま季節は過ぎ去り、冬が訪れた。
そして、それは今にも雪が降り出しそうな、重く暗い雲が垂れ込めた日だった。
西の方角から放たれた火矢は、標的を目指して一直線に飛んだ。矢が刺さった場所から火の手が上がる。一瞬のことだった。
狙われたのは、神殿の最奥。鬼姫達がいる部屋だった。
突然のことに驚き、鬼も人も逃げ惑う。
火の手の回りは恐ろしいほどに早く、瞬く間に神殿は炎に包まれた。
狼狽える者達の後ろで大きな水の柱が立ち上がる。噂でしか聞いたことがなかった白巫女の式神である大蛇の姿に、ただ唖然として立ちすくむ。
大蛇はまるで龍のように空を泳ぎ、神殿へと大粒の雨を降らせた。対抗するように火の勢いも強くなる。
ただその様子見守ることしか出来ない人々の群れの中に、一人の男性が駆け寄って来る。
薄汚れた格好をしているが、それはもう死んだと思われていた、鬼姫の部屋の入り口に立っていた護衛の男だった。
「姫様は…鬼姫様はご無事なんですか!?」
「あんた……生きてたのかい?」
騒めきが広がる。その中に逃げ遅れた人々の悲鳴が、焼け落ちていく建物の音が混じる。
「お前がやったんじゃないのか!!」
警護の一人が声を上げる。
「違う……!!こんな……こんなはずじゃなかった。姫様っ!!」
そう叫ぶと、男は燃え盛る神殿へと駆け出した。しかし、炎に近づいたその時、男の身体は溶けるように消え去ってしまった。
「許さない……絶対に許さない……」
男の最期の言葉が、暗い空に響く。
炎はますます燃え上がり、最早手のつけようがなかった。大蛇の力すら上回る炎が神殿を包んでいく。大蛇もまた、炎にのまれかけていた。
残された人々は、ただ奇跡が起きるのを願うばかりだった。
神殿の最奥。鬼姫たちが居る部屋は一面炎に包まれていた。
鬼姫は末弟と次兄だけでも逃げるよう言った。しかし、二人が逃げ出す間もなく天井を支えていた梁が落ちて二人を押しつぶした。咄嗟に次兄が末弟を庇ったが二人とも助からなかった。護衛の鬼も消える。
「私のせいで……」
ぽつりと鬼姫が言う。美しい白肌は煤で汚れ、艶やかな長い黒髪も乱れている。
「何を言ってるんですか。俺たちは、貴女を護るために居るのです。貴女を置いて逃げるくらいなら……最期の時までお傍に居させてください」
鬼姫の手を握る指先に力を込めて、長兄が言う。
「ありがとう。貴方たちと過ごせて、私はとても幸せだった。できる事なら、もっとずっと一緒に居たかった。時を過ごしたかった」
「それは俺も同じです。生まれた時代が違ったならばきっと……」
『それならば願え。叶えたいことを強く強く願え。来世のことでもいい。その願いは聞き届けてやる』
姿は見えなかったが、水華の声が響いた。鬼姫の手を握ったまま、長兄は願った。
「来世では必ず鬼姫と、弟達と穏やかに暮らしたい。貴方がどんな姿になっていようと、どこに居ようと、俺が必ず見つけ出すから!!」
その言葉に鬼姫は静かに首を振った。そして
「ならば私はこう願いましょう。もう二度とこんな悲しいことが起こらないように。楽しかった思い出と共に、私は眠り続ける」
一筋の涙が鬼姫の頬を伝う。
「そんなこと許さない。眠っていたって夢の中から引き摺り出してやる。だから……」
鬼姫と長兄の視線が重なったその時、部屋を支えていた柱が焼け落ち、部屋は潰れた。外では幾筋もの稲光が不気味に空を走り、その中を大蛇が天へと昇っていくのが見えた。
炎は丸一日消えることなく、神殿は跡形も無く焼け落ちた。鬼姫達がいた部屋には、四人分の骨が遺されていた。
生き延びた人々と鬼たちは、池の畔に墓を作った。鬼姫と三兄弟の守り人たちが、あの世でも共にあるようにと、一つの墓に埋葬した。
それから数日の後、里の住人たちは一人、また一人と村を去って行くようになった。
黒巫女もまた、誰にも何も告げずに里を去っていた。鬼姫の母は、山の奥で息絶えているのが見つかった。山を降りることを拒んだことを知っている鬼達は、山の中に鬼姫の母の墓を作った。
その後、村には鬼たちだけが残り、墓を守り続けた。
今ではその里は深い草木に埋もれ、誰も辿り着けないそうだ。
墓は人知れず移され、何処かの神社に神様として祀られているという。
遠い昔。
まだ鬼と人間の世界が近かった頃のお話。
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