第7話
ただいまー、と言って、アキラ先生が帰ってきた。
「どうする守山さん? もうちょっと飲む? 煮込みを温めなおそうか」
アキラ先生が言った。
「いやいや、帰ります帰ります。もうずいぶんご馳走になったし、お見舞いに来て、これ以上酔っ払うわけには行きませんよ。と言っても、飲んじゃった時点でもうダメなんですけどね」
僕は笑って言った。
「そうだよ。もう飲んじゃってるし、もっと飲んでも同じじゃない。飲もうよ」
アキラ先生がウィスキーのボトルに手を伸ばす。
「いや、今日は帰りますよ。あんまり高い酒を飲みすぎると、安い酒が飲めなくなりそうで恐ろしいし」
僕は貧乏性だ。
「そっか。じゃあ、わたしも一緒に出て、お店に鍋を返しに行こうかな」
そう言ってアキラ先生が、鍋を持って立ち上がった。タマキ先輩は、もう少しここで休んでいくことになった。すぐに戻ってくるからね、とアキラ先生が、寝ているタマキ先輩の頬に手をあてて言った。
マンションを出て、アキラ先生と横に並んで歩く。アキラ先生は空になった大鍋を両手に下げている。
「モツ煮込み、相変わらずおいしかったですね。いくらでしたか?」
僕は言った。
「いいからいいから。店員価格でほとんどタダみたいなもんだから。家の中で食べる煮込みも悪くないでしょう?」
アキラ先生が言った。
「ええ、ほんとに。お店だと、場の雰囲気で食べてる感じなので、今日はある意味、よく味わって食べました。お酒もいいけど、ごはんが食べたくなりました」
「そうだよねー。お酒のつまみって、ごはんにも合うからね。焼き物とかもさあ、ごはんが進むよね」
「こんな話してると、急にお腹がすいてきちゃったな。食べたばっかりなのに」
「お互い、お酒強くないからね。やっぱりごはんだよね〜」
アキラ先生が笑った。
大通りを渡ってから、細い道をつたって商店街に入る。まだ6時前なので、買い物客でにぎわっている。僕の自転車が止めてある、中華料理店の前にたどり着いた。
「アキラ先生、近藤酒場までお供させてください」
「うん。じゃあ、隅田川の方から回って行こうよ」
アキラ先生が言った。かなり大回りになるルートだけれど、僕は嬉しい。
商店街を抜けて、隅田川沿いまで直進する。鍋を持つ手が疲れたのか、アキラ先生が鍋を帽子をかぶるみたいに、自分の頭にかぶせた。上手く位置を調整して、前が見えるようにしている。もちろん鍋は洗ってあるので問題はないけれど、普通の女の人はそんなことはしない。しかし、もはやつっこむ気も起きない。あまりにも自然にそういう事をやるから。
「夕日が反射して、隅田川がきれいに見えますね」
僕は言った。水面がキラキラしている。
「水はめちゃくちゃ汚いけどね。でもまあ、雰囲気あるよね。この川沿いの道、けっこう好きなの」
アキラ先生が言った。
僕らが歩いている、墨田川沿いの遊歩道には、いろんな人が集まっている。犬の散歩をしている人、小さな酒盛りをしている人。カラオケの機械を持ち出して、歌いまくっているおばちゃん集団もいる。
「アキラ先生の歌、素晴らしかったです。口笛もすごいけど、歌は、なんというか圧倒されました」
僕は言った。
「うん。ありがとう」
「……あの、聞いてもいいですか。歌をやめてしまった理由とか」
恐る恐る聞いてみる。
「守山さん、そんな慎重にならなくていいから。そんな深刻な話じゃないのよ」
アキラ先生が笑った。
「そうですか。でも、大輔君、思いつめた感じだったし……」
「わたしが歌をやめたのは、単なる自分のわがままなの。燃え尽きちゃったというかね。小さい頃からそればっかりやってきて、なんだか、ふと空しくなっちゃったのよ。だからね、いろいろ他の事がやりたくなって」
アキラ先生が、頭の鍋の位置を調整しながら話す。
「タイミングが悪かったの。奨学金の試験に受かって、イタリアに長期留学することが決まってたのよ。もともと、自分の町から出たくないのに、イタリアなんてね。もちろん最初は憧れてたんだけど、いざ行くとなったら怖気づいちゃって。ドタキャンしちゃった」
やっちゃった? みたいな顔をして、アキラ先生が笑った。非常にかわいらしいけれど、割と大変なドタキャンだよな……。
「いろいろ、言われたでしょう」
「うん。まあ、たくさんの義理を欠いたわね。結構狭い世界だから、わたしも、これで声楽とは縁が切れたなと思った。でも、そのこと自体は予想してたから、そんなにショックでは無かったかな。人に迷惑をかけて、ひどい話だけどね。両親は、もともとわたしに甘くて、好きにしなさいって感じだったし」
鍋の取っ手を両手で握って、楽しそうに頭を振りながらアキラ先生は歩いている。
「ちょうどその時にさあ、大輔君のお家が、かなりドタバタしたことになってね。主にマンションを建てたことと、夫婦関係のいざこざが原因なんだけど。それで大輔君が、かなり心理的なダメージを受けて、なんていうか……不良になっちゃったの」
「えぇ? あの大輔君がですか?」
「そう。あの大輔君が」
アキラ先生が可笑しそうに笑った。
「不良って言っても、まだ小学校低学年だから、たかが知れてるけどね。でも、突然暴れたり、泣き出したり、結構迫力があったな。両親は自分達のことで手一杯だし、おじいちゃんたちも、そんな孫を扱いかねてて、だからわたしが大輔君の面倒を見てたのよ。全面的に。ほら、家族みたいな関係だって言ったでしょう。姉としては、ほっとくわけには行かなかったのよ」
遊歩道が公園とつながっている、少し開けたところに来た。川沿いにベンチが並んでいる。アキラ先生が、その一つに腰掛けたので、僕も隣に座った。
「えーと、なんだっけ?」
アキラ先生が鍋をひざの上に置いて言った。
「不良の弟を、ほっとけない姉のところです」
「そうそう。いろいろやったわねー。とにかく、明るい大輔君に戻そうとして。わたしの家に呼んで、ご飯食べたり、お風呂入ったり、宿題見たり。わたしも嫌なのに、無理矢理ディズニーランドに行って、二人でげっそりして帰ってきたこともあったな。とにかくね、そうやって一年ぐらいしたら、ありがたいことに大輔君が元気になってきたのよ。もともと素直な性格してたしね。さびしかっただけなのよ。たぶん」
にっこり笑ってアキラ先生が言った。
「今の大輔君からは、想像がつかないですね。あんなにしっかりしてるのに……」
「そうなの。元気になったと思ったら、急に大人びてきちゃって。今度はわたしの心配とかしだしたの、大輔君が。お化粧した方がいいとか、真っ直ぐ歩かないと危ないとか、うるさくなっちゃって。まいったわよ」
困った顔をして、アキラ先生が笑った。大輔君が心配するのも分かる気がするが……。
「でね、わたしが歌を止めたのは、自分のせいじゃないかって大輔君が言い出すようになって、今日のアレにつながってる訳。別に大輔君のせいじゃないのよ。たまたまそういうタイミングで、むしろわたしが救われたくらいなんだから。歌を止めてなかったら、そもそも鎌倉家の家庭事情にまで気が回ってないはずだし。歌を止めてぼーっとしていたわたしが、大輔君と一緒にいることで自分を保てた気もするの」
フゥーとため息をついて、アキラ先生が両手を前に出して、大きく伸びをした。
「大輔君、アキラ先生の歌が大好きみたいですね」
僕は言った。うん、と言って、アキラ先生はひざの上の鍋をじっと見ている。
「アキラ先生が歌に復帰しないことには、ずっと大輔君は、もやもやしちゃうかもしれませんね」
僕は言った。
「そうかもねー。また泣かせるよねー」
アキラ先生が眉毛を下げて、困った顔をして言った。
なにかもっと僕は言いたかったけれど、これ以上言わないほうがアキラ先生には効果的のような気がした。この雰囲気のまま、夕焼けの中で二人でずっとベンチに座っていたい。そうしていれば、アキラ先生の、歌への想いがどんどん強くなっていくような気がした。僕もアキラ先生の歌がもっと聞きたい。
「あ! まずい。タマキちゃん待たせてるんだった」
アキラ先生が慌てて言った。あたりが薄暗くなってきている。
「恐ろしい目で睨まれますよ」
僕は笑った。
「ヒェー、恐ろしや」
アキラ先生が鍋をかぶって立ち上がった。
また次の口笛教室で、と言って、公園の入り口でアキラ先生とお別れした。先生の小さな背中と頭にかぶった大きな鍋が、最初の角に消えるまで見送って、僕は自転車にまたがった。夕闇の中で「威風堂々」を口笛で吹いたら、ひどくさびしい気分になった。
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