最後の一日を君に
ラリックマ
第1話救われた女と、嘆いた男
病院独特の鼻にくる嫌な匂い。真っ白な天井に、何もない部屋。医者に宣告された最後の一日を、僕はこの白い空間で過ごす……。自分の死期が近いことはわかっている。
後一日……いや、半日も生きられないかもしれない。でも、それでも、こんなところで最後の一日を終わらせたくはなかった。
僕はぐっと体を起こすと、ベッドから立ち上がる。久しぶりに体を動かすから息苦しい。これも肺がんの影響なのか? まあどうでもいいか。僕は疲れた体をゆっくりと一歩ずつ前に進ませ、夜明けの肌寒い外に身を出した。空気が美味しい。僕は外に出ると、どこか目的地があるわけでもなくただ適当に外を歩き回る。
少しして徐々に体が歩く感覚を思い出してきたのか、常人と同じ歩行速度で歩けるようになった。どれぐらい歩いただろう。薄暗かった空は綺麗な快晴に移り変わっている。雨粒一滴すら落ちてきそうにない清々しい空だ。もうすぐ命が尽きるなんて、とても思えない。でも多分、この運命は変えられないのだろう。未来は変えられる。
努力して
こんな明るくて気持ちのいい朝なのに、僕の心は反対に暗くなっていく。ダメだダメだ! ブンブンと顔を横に振ると、頬を叩く。こんなことを考えるために外に出たんじゃない。僕は最後の一日を、何か有意義に過ごせないかと病院を抜け出したんだ。しかしどうすれば……。
有意義な過ごし方って、漠然としすぎていてよくわからない。そもそもこの28年間有意義なことをした記憶がない。僕がいなくたって世界はいつも通り回るだろうし、僕がいなくて困る人間もいない。だから有意義なことがわからない。
難しいことを考えるのは苦手だ。頭が痛くなる。僕は長年癖付けされた動作を無意識に行う。左胸ポケットに手を入れて、タバコを取ることだ。しかし胸ポケットには何も入ってない。肺がんが発覚してからこの一年、医者からタバコを禁じられていたからだ。
もう喫煙してから一年も経っていると言うのに、この癖が治らない。どうせ死ぬんだったら、最後の一日はタバコを吸うか……。
そんなことを思い、僕は広い街中をキョロキョロと見渡す。どこかにコンビニでもないか。そんなことを思い辺りを見回していると、近くのビルの下に人だかりができていた。
こんな朝早くになんだ? 社会人ってこんなに早く出勤してたっけ? そう思い、人だかりに近づく。そして近くにいたサラリーマン風の男に、今の状況を聞いてみた。
「あの……これはなんの騒ぎですか?」
僕は平然とした様子で男に尋ねてみると、男はものすごく焦った様子で。
「あ、あんたは何も見えてないのか!? 上見ろ上!」
そんなことを大声で言われ、僕は上を見上げる。そこには女性らしき人影があり、それはビルの屋上のフェンスの外側に立っていた。
もしかしなくても自殺をしようとしているのか? そこで僕は考えついた。こんな日にこんな状況に陥るなんて、きっと偶然じゃない。僕は勝手に、神様の粋な計らいだと感じ取った。
すぐにビルの中に走って入ると、エレベーターに乗って最上階に行く。最上階に着くと、屋上までの階段を走って駆け上がる。
タタタっとものすごい速さでかけ上がり、屋上の扉を勢いよく開ける。
「はぁ……はぁ……つ、疲れたー」
そんなことを言いながら女性に近づくと、女性はビクッと驚いた表情をしている。
「な、何よあなた? 私を止めに来たの?」
ものすごい警戒されている。一つでも発言を間違えれば、この女性は飛び降りてしまうだろう。ここは慎重に言葉を選ぼう。
「はい、あなたの自殺を止めに来ました」
ニコッと笑みを浮かべ、少しずつ女性に近づいていく。
「こ、こないで! もう嫌なの。男の顔を見るのは」
男? もしかして失恋とかか? そんなことを考えながら、彼女との距離を縮めていく。
「あまり警戒しないでください。僕は無害ですから」
両手を上げて、女性に近づいていく。
「な、なんなのよあんた。それ以上近づいたら本当に飛び降りるわよ」
そんなことを言いながらも、女性はフェンスにつかまっている手を動かそうとはしない。きっと恐れているのだ。死ぬことを。それはそうだ。死ぬのは怖い。誰しも死ぬことはわかっていても、死を実感することは少ない。だからいざそう言う場面に立たされた時、その怖さを実感することになる。俺はツカツカと歩みを止めることなく進み、ガシッと女性の腕を掴むと。
「捕まえました」
なんて言って、全身の力を使い女性をフェンスの内側に引っ張る。引っ張った拍子に僕と女性はゴロゴロと転がり、そのまま地に倒れた。
「な……なんなのよあんた。こんなことして。正義の味方気取り? あんたみたな偽善者が一番嫌いなのよ」
僕は女性に毒を吐かれ、多少ショックを受ける。でも僕なんかよりも彼女の方がよっぽど傷ついていると思うと、彼女を責めようとは思えなかった。
「あの、よければ話しませんか? 少しだけでいいので」
そんな提案を持ちかける。当然拒否されるとばかり思っていたのだが、女性は考えるような仕草をすると。
「じゃああなたの話に付き合ったら飛び降りることにするわ」
と言ってくれた。
「そうですか! じゃあ、この扉の上なんてどうですか?」
僕は屋上の扉の上にあるスペースを指差す。横に小さな
「ここなら景色もいいですし、どうです?」
「まあ別に、場所なんてどうでもいいし……」
そんなそっけない態度をとられつつ、僕は梯子を上っていく。僕が登ると女性も梯子を上ってきて、僕の隣に座った。
「じゃあまず名前から聞いてもいいですか?」
僕はまず、この女性と仲良くなることに決めた。まだこの人の自殺を止める方法は思いつかないけど、打ち解けることがでくれば何か見えてくるかもしれない。女性は不審そうな表情を一瞬だけした後。
「
と、名前だけ言った。
「香澄さんですか。いい名前ですね」
「何その見え見えのお世辞。もしかして口説いてる?」
「そ、そんなことはないですよ。じゃあ次は……年齢を教えてください」
「ね、年齢ってあんた……。やっぱり口説いてるんでしょ。どうせ『死ぬ前に一回ヤらせてください』とかそう言う下心で私に近づいてきたんでしょ! もういい、やっぱり飛び降りる」
まずい。なんでか知らないが香澄さんの機嫌を損ねてしまったらしい。僕は梯子を降りようとする香澄さんの手首を握ると。
「ち、違います。決してあなたにやましいことをしようとかは考えていません。もし僕が次、そう言う言動をとったら飛び降りて構いませんので、もう少しだけ話を聞いてください」
必死に呼び止めるとその熱意が伝わったのか、香澄さんは僕の隣にきて腰を下ろしてくれた。
「わかったわよ。もう少しだけ話しする」
「それは良かった」
それから僕は攻め方を変える。もうこのままじゃ埒があかないから、核心に迫ってみることにした。
「失恋……ですか?」
香澄さんの発言から、僕はそんな質問をする。その質問に驚いたような顔をした香澄さんは。
「よくわかったわね。まあそれだけじゃないけどそれが大部分よ」
なんてことを返してくれた。ここからはどうする? 気の利いた言葉なんてあるのか? 今までの人生で人と積極的に喋ってこなかったから、こう言う時どうすればいいのかわからない。そもそも今から自殺しますって人と喋る人間の方が珍しいか……。
まあ、あまり気を損なわれないようにするか。
「その人のこと……好きだったんですね」
「えぇ、結婚も考えてたぐらいにね。でも浮気されてたのよ。しかも二人」
「それはその……御愁傷様?」
「バカにしてるの?」
香澄さんが多少不機嫌になる。女性とはなんて繊細な生き物なんだ……。
「でも結婚する前でよかったんじゃないですか?」
「確かにそうなのだけれど、裏切られたショックが大きくてね」
「香澄さんは綺麗だから、もっといい男の人見つかると思いますよ」
思ったことを伝えるが、香澄さんはあまり嬉しそうにしない。
「露骨なお世辞ね。別に気を使わなくていいのに」
素直に受け取ってもらうことはできなかった。あまり自分に自信のない人なのかな? でも香澄さん、容姿はものすごくいいのだから自信をなくすことなんかないと思うんだけど……。
なんてことを思うと、香澄さんもフッと笑みを浮かべ。
「あなたも結構いい顔してると思うわよ」
なんてことを言ってくれた。
「ありがとうございます……」
照れ臭そうにする。一体これからどうやって彼女の自殺を止めればいいんだ? 全く糸口がつかめそうにない。もう少しだけ深く詮索してみるか。
「あの、自殺の理由って失恋だけですか?」
そんなことで? というようなニュアンスを孕ませ、香澄さんに質問する。
「別に失恋だけじゃないわよ。会社でちょっとヘマしちゃってね。借金があるのよ」
「それはその……いくらぐらいか聞いてもいいですか?」
「まあ600万ぐらいかしら」
「600なら別に返せなくないような気がするんですけど」
「ふふ……あなたは多分まだ学生でしょ? 社会に出たらわかるわよ、この額を稼ぐのがどれぐらい大変かってね」
どうやら香澄さんから見て僕は学生に見えるらしい。確かによく童顔とは言われていたが、ヒゲも剃っていないのに学生に見られるとは思わなかった。僕は”こほん”とわざとらしい咳をする。
「僕はこう見えて28です。おそらくあなたより年上なのではないですか?」
そう言われた香澄さんは、ぎょっと目を丸くしていな。
「え? 嘘? あなた、私より年上だったの? てっきりまだ20歳ぐらいだと」
「そうですよ。そういう香澄さんは結局何歳なんですか?」
「私? 私は26よ」
やっぱり見た目通り若かった。この歳で自殺するまで追い込まれるなんて、なんて壮絶な人生を歩んでいるんだ?
でも僕はここで説教をしようとかは思わなかった。確かにまだまだ若くて希望のある歳だが、「そんな若さで自殺しようとするな!」なんて偉そうに説教できるほど大層な人生を歩んでいない。
僕は香澄さんの目をまっすぐ見つめると。
「あの、その600万の借金を返済したら、自殺するかどうか考え直してくれますか?」
そんなことを言い出した僕に驚いた香澄さんは。
「は、ちょっと本気? 見ず知らずの名前ぐらいしか知らない私のために、あんたが私の借金を肩代わりしてくれるの?」
「えぇ、だから自殺の件。考え直してくれませんか?」
香澄さんはじーっと疑わしいものを見るような目で見た後。
「いいわよ。本当に私の借金問題を解決してくれるのなら自殺を止めるどころかあなたの彼女になってあげてもいいわよ」
随分と上から目線な彼女の発言をしっかりと耳に残す。
「今
そういうと、香澄さんを連れてビルを出て行く。ビルを出ると適当にタクシーを拾うと、僕の家まで送ってもらった。
「じゃあ5千459円です」
タクシーってなんでこんなに高いのだろう。僕は尻のポケットに手を突っ込み、財布を取ろうとするが。
「あ……」
そういえば僕は病院から抜け出してきたままだった。
「あの香澄さん。いま僕、無一文でして……」
「はぁー!?」
香澄さんは呆れたような、かと思えばものすごい憤りを感じているような顔をする。
「あんた、あんな大口切っといて本当はお金なんて一円も持ってないんでしょ?」
「そこは大丈夫です。僕、財布は普段持ち歩かないもので……」
そんな社会人がいるかとツッコミたくなったが、香澄さんはじーっと不審な目で見つめてくるだけだった。僕はそんな眼差しを背中に受けながら、家の前に置いてある花壇の下に手を入れる。
花壇の下には家の鍵があり、僕はなんどもお世話になった。鍵を取り出すと家の中に入る。今日は平日だから、母さんも父さんも会社に出勤してるはず。だから誰も家にはいない。
それでもなんだか悪いことをしているような気分になり、僕はこそこそと物音を立てないようにして自分の部屋に向かい、銀行の通帳を手に取る。もしかしたら誰かに抜き取られてるかもと思い通帳の残高を確認するが、しっかりと僕が貯金してきた分が入っていた。
よかった。これでひとまず安心だ。僕は小さめのリュックの中に通帳とキャッシュカードを入れると、スッと家を出て鍵を花壇の下に戻し香澄さんと合流する。
「これで大丈夫です。早速借金を返しに行きましょう」
そう言って待たせていたタクシーに乗る。タクシーに乗ると銀行に向かい、持ってきたキャッシュカードで通帳の残高を全て下ろす。そして、またタクシーに乗ると、今度は香澄さんが行き先を指定した。
「実は私の借りてるところ、闇金会社なの」
突然のカミングアウトに驚く。
「どうして闇金? 普通に借りた方がリスクが少なくないですか?」
「そんなこと百も承知よ。でも私は今すぐにお金を作らなきゃいけない状況だったのよ。だから仕方なかったのよ……」
「ふーん……。じゃあ今日で闇金に追われる日は最後ですね」
「そうね……。あなたが本当に肩代わりしてくれるのなら」
なんてことを話しつつ、僕たちは闇金会社の前でタクシーを止めた。薄汚い看板に、人通りの少ない場所だ。いかにも裏の人間が住んでそうな場所に、僕たちは入って行く。建物はあまり大きくなく、二階にある扉をコンコンとノックして中に入る。
中に入ると待っていたのは、腕にびっしりと刺青を入れたヤクザ風の男二人と、その人たちを束ねているボスっぽい髭ズラでガタイのいい中年男性だ。
「あん? オメェ何の用だよ。返す金できたのかよ?」
「えぇ。この人が肩代わりしてくれるっていうからね」
「へー。まあなんでもいいけどよ。早速返してもらうぜ。お前が俺から借りた借金”900万”をよ」
「え!? 900万?」
男の発言を聞いた僕と香澄さんは、ものすごく驚いていた。僕は香澄さんから借金は600万だと聞いていたし、本人もそのつもりだったのだろう。
「ど……どうしてよ! 借りたのは600万のはずよ」
「おいねぇちゃん。金借りたら利子っつーもんがつくのよ。わしらは便利屋でもなければ善人でもなく、商売としてオメェに金かしてやってんだよ」
「そ……それでもなんで300万の利子がついてんのよ! まだ借りてからそんなに経ってないはずよ!」
「ウルセェな。お前に反抗する権利はねぇんだよ。この印鑑付きの書類が目に見えねぇか?」
ひらひらと一枚の紙を、香澄さんに見せつけるようにしている。
「う……でも……」
「ギャハハ。お前は一生払いきれねぇ借金を背負ったんだよ。これでいい教訓になっただろ。下手に闇金なんかに手を出すなってこった。まあもう手遅れだけどよ」
男は香澄さんを煽るようにゲラゲラと笑っている。男の笑みとは正反対に、香澄さんは今にも泣き出しそうな顔をしている。あぁ……また彼女は絶望している。さっき出会った一番はじめの表情をしている。
せっかく見え始めた彼女の希望が絶たれようとしている。僕は背負っていたリュックを床に置き、ガサゴソと下ろした金を取り出す。そしてその分厚い紙の束を机の上にドンと置いた。
「あのこれ。全部で1000万円以上あります。これでもう返済できますよね? だからもう、香澄さんには近づかないでください」
ペコっと頭を下げる。男は急に大量の札束を出され困惑しているが、近くにいた部下らしきヤクザ風の男を呼ぶとその札束を確認させていた。
「ボス。しっかり900万以上あります」
「マジかよ」
これには男も度肝を抜かれているようで、ぽりぽりと頭をかいていた。
「まあ約束は約束だしな。ほれ」
男はそういうと、僕に香澄さんの印鑑がついた書類を渡してきた。
「もう帰っていいぜ。金さえ払ってもらえればいうことはねぇ」
その言葉を聞いて、僕と香澄さんは目を合わせて嬉しそうな顔をした。それから部屋を出る時にもう一度ぺこりとお辞儀をすると、そそくさと外に出て行く。外に出てホッと一息つく。
「いやぁ、すごく緊張しましたよ。でも良かったです。余分にお金おろしといて」
そんなことを言うと、香澄さんはザッとものすごい勢いで僕に頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございます! 感謝してもしきれません。このご恩は一生忘れません!」
突然人が変わったようにそんなことを言ってきた。
「あ、頭を上げてください。なんだか香澄さんに
「え、偉そうってなんですか!? さっきはその……あなたが不審者だと思っていたからでその……」
「ほら、うじうじしないで下さい。香澄さんは堂々としてた方が良いですよ」
「そ……そう……。じゃあ……」
そこで香澄さんは照れながら上目遣いで。
「そういえば名前……。まだ聞いてないんだけど……」
「そういえば申し遅れました。僕は
「へー良い名前じゃない。かっこいいわよ」
「そんな見え透いたお世辞言われても嬉しくないですよ」
「祐介が先に言ったんじゃない」
「そういえばそうでしたね」
はははっと僕たちは笑いあった。こんなことで笑えるなんて、もしかしたら僕たちは気があうのかもしれない。それは彼女が僕に気を許してくれたからか、あるいはもともと気の合う性格だったからなのか……。そんなことを思っているうちに、カラスが鳴いた。カァーカァーっと耳に残るうるさいくて寂しい鳴き声を上げながら、僕たちの真上を通過して行く。
「もう……夕暮れですね」
「うん。なんだかあっという間だ」
赤く燃え上がる夕焼けを見つめながら、香澄さんのことを考える。多分もう香澄さんは自殺をしようなんて考えないだろう。だったらもういいのか? いや、もう少し何かできるはずだ。彼女のために何か……。僕は考えるより先に、香澄さんに聞くことにした。
「あの香澄さん。最後に何かやりたいことってありますか?」
なんて質問をしてみる。彼女はどう言う風に答えてくれるだろう。少し楽しみにしつつ、彼女の答えを待つ。
「クルージング」
その一言だけ帰ってきた。
「クルージングってあの豪華客船ですか? それはちょっと……」
今から予約なんてできるはずもないし、どうしようか。そんなことを悩んでいると、香澄さんは財布からヒラリとチケットを二枚取り出した。
「本当は今日元カレと行く予定だったんだ。でもその前に浮気が発覚したからさ……。だから代わりに祐介が一緒についてきてよ!」
そんな期待されたような眼差しを向けられたら断れるはずもない。
「じゃあ今から行きましょう」
「え? でもこれ9時からだから、まだ時間が……」
「早いに越したことはないですよ。ほら早く!」
グイグイと香澄さんの手を引っ張り、目的の場所に連れて行こうとする。どうしてそんなに急いでいるのか、彼女には理解できないだろう。僕に残された残り少ない命のことなんて、彼女は知らないのだから。
でもこのことを彼女に話すわけにはいかない。また絶望してしまうかもしれないから。だからこのことは伏せておく。それが、彼女に取って一番良いはずだから……。
時刻は午後8時30分。あと1時間もしないうちに船が来てしまう。
「まだ時間あるけどどうする?」
船着場に着くなり香澄さんはそんなことを聞いてくる。
「じゃあ船が来るまで話しませんか? 香澄さんのこと。香澄さんの家族のこと。僕、もっと香澄さんのこと知りたいです」
それからいろいろなことを話した。将来の夢はパティシエなこと。母親は小さい頃亡くなって、姉と父親と三人で暮らしてきたこと。その姉に婚約者がいたこと。いろいろ話した。
「それでお姉ちゃんがね、私のために隣町まで自転車で誕生日プレゼントを買ってきてくれてさ!」
家族のことを話している香澄さんは、とても楽しそうですごく微笑ましい。
「なんか今更ですけど、香澄さんの喋り方、僕すごい好きですよ」
「い、いきなり何?」
「いえ、なんか出会った時は言い方悪いですけど、おばさんみたいな喋り方でしたから」
「何よおばさんみたいな喋り方って。あの時はなんか、生きる気力もなくて喋るのもめんどくさかったから……」
「そうですよね。朝の香澄さん、死んだ魚みたいな目してましたし」
「なんか祐介って意外と毒舌じゃない?」
「ご、ごめんなさい。傷つけましたか……?」
「全然。むしろ楽しい!」
ニカッと笑みを浮かべられ、思わずドキッとする。こんな笑顔を向けられて好きにならない男はいないだろう。そう確信できるほど、彼女の笑顔は輝いていた。そう思っていると、ピロロロと愉快な着信音が鳴った。
「あ、ちょっとごめん」
香澄さんは携帯を取り出して僕から少し離れたところに行くと、耳に携帯を当てて話し出した。1分ほどの短い電話だったのだが、香澄さんは目に見えて暗い顔になっていた。
「何かあったんですか?」
「うん……お姉ちゃの婚約者のことでちょっとね。でも祐介には関係ないことだから」
「それはそうですけど」
それからあまり会話が弾まなかった。香澄さんにはできるだけ笑顔でいてほしいのだが、僕にはそうさせるだけの会話術がない。少しの間無言でいると、ゾロゾロと人が集まってきた。もうそろそろ船が来る時間だ。それなのにまだ香澄さんは暗い顔をしている。こうなったら仕方ない。僕は香澄さんの真正面に立つと、両手で香澄さんの頬を軽く押しつぶした。
「ほえ?」
間の抜けた声を出した香澄さんに、僕は。
「暗い顔しないでください。僕は明るい笑顔を向けてくれる香澄さんが好きですよ」
なんてくさいセリフを吐く。そんなことを言われた香澄さんはカーっと顔を真っ赤にする。
「な、何よそれ。もしかして告白?」
「い、いえそういうつもりでは。ただ僕は香澄さんに元気になって欲しくて」
「じゃあ最初っからそう言ってよ。バーカ」
なんてことを言って、また微笑んでくれた。よかった。どうやら香澄さんの元気が戻ったみたいだ。それと同時に、ボォーーと船の
かなり大きめの客船だ。船なんて人生で初めて乗るから緊張する。僕はこの船に似つかわしくない服装だなぁとか思いつつ、それでもできるだけマシになれるようにと襟元を正す。それから順番にチケットを見せて船の中に乗る。
「す、すごいですね。船の中なのにまるで家の中みたいで」
「乗ったことないの?」
「はい。乗る機会がなかったので」
「そうなんだ。じゃあめいいっぱい楽しんでよ」
そういって香澄さんは僕の手を握ってきた。いろんな意味で緊張し、じわりと手汗が吹き出る。本来なら僕が香澄さんを楽しませる予定だったのに、いつの間にか僕がエスコートされているような……。
でも香澄さんは楽しそうだし、別にいいか。僕は香澄さんに引っ張られるまま船内に入る。
「ほら、ここだよここ。とっても綺麗じゃない? この夜景を見ながら好きな人とディナーを食べるのが私の小さな夢だったんだ。まあ祐介じゃ役不足感は否めないけど、そこは我慢してあげるわよ」
にししと小悪魔めいた表情を浮かべ、香澄さんは船内の窓から夜景を見ている。
本当に綺麗な夜景だ。自分たちの街をこんな風に見たことがなかったから気づかなかったけど、こんなに美しい街だったんだなと思う。
煌びやかな光に、雲ひとつない星空。こんな身近にこれほどの絶景があったなんて、香澄さんと出会わなければ気がつかなかっただろう。
この景色を窓越しに見るのはもったいない。そう感じた僕は、椅子から立ち上がると香澄さんの手を握って。
「香澄さん。デッキに行きませんか?」
そう提案をして、香澄さんが何かをいう前に無理やり引っ張って連れて行った。
デッキに出ると冬の空気が肌寒かった。ペタペタと塩水が体に付着する気持ち悪い感覚がして、なんだか新鮮な気分になる。
「ほら! みてくださいこの景色。僕たちの住んでる街ってこんなにも綺麗だったんですね」
「うん、とっても綺麗」
二人でじーっと街並みを眺め続ける。願わくばこのまま時が止まってほしい。そんなことを思ってしまうほど、居心地がよかった。それからどれぐらい経っただろう。外の寒い空気に長いこと当たっていたせいか、クシュンとくしゃみが出た。
「何その可愛いくしゃみ。子供みたい」
「いいじゃないですか。昔っからこういうくしゃみなんですよ」
くすくすと僕のくしゃみに笑う香澄さん。
「そろそろ中に戻りますか?」
「うん。もう十分堪能したから」
そう行って僕たちが船内に戻ろうとすると、香澄さんは驚いた表情をして僕の背中に隠れた。
「どうしたんですか?」
いきなり身を隠した香澄さんを不思議に思いそんな質問をすると、香澄さんはピっとデッキの端っこのカップルを指差した。
「あの男。私の元カレなの」
「あー例の彼ですか。なんという偶然」
「関心してる場合? 早いとこ戻るわよ」
僕はすぐに戻ろうとする香澄さんの服を掴み、
「ちょっときてください」
「え? ちょ? なんでよ? 私はあの人と話したくなんてないんだけど」
「そう言わず。溜まっている鬱憤を彼にぶつけないと、香澄さんの気が収まらないんじゃないですか?」
「それはその……」
「ほら、思ってること全部ぶつけちゃいましょう」
そんな僕たちの会話が聞こえたのか、香澄さんの元カレが僕たちの方へと振り向いた。
「香澄……」
驚いた表情をして、元カレは固まっている。香澄さんはというと、何を言えばいいのか迷っている様子だ。
「おい香澄。その男誰だよ? もしかして新しい彼氏か?」
男の質問に、香澄さんは何も答えずただ俯いている。
「なぁ香澄。お前にひどい事をしたと思ってる。俺が浮気した事実は消えない。でもお前を失って初めてお前の大切さに気がついたんだ。だからもう一度やり直さないか?」
その発言に、僕と男の横にいる彼女らしき人物は驚いていた。このタイミングで復縁を迫るなんて……。しかも彼女らしき人がいる前で……。呆れたというか感心したというか……。この人はどういう神経をしているのか……。
そんな事を言われた香澄さんは、俯いたままふふっと笑っている。
「確かに。たっくんはかっこいいし給料もいいし、すごくいい男の子だと思うよ」
「じゃ、じゃあ!」
元カレは期待した目を香澄さんに向けるが、香澄さんはギッとものすごい目つきで睨みつけて。
「でも、すぐ浮気する、浮気相手の前なのに元カノに復縁迫るクズなんかより、お金もあって性格も会う最高の彼氏が私にはもうできたのであんたなんかいらないよーだ! いこ、祐介」
そう行って香澄さんは僕の腕に手を絡めてきた。
「どうです。スッキリしました?」
「うん。相変わらずのクズっぷりでびっくりしたけど、そのおかげですごい気分がいいよ。なんか祐介には助けられてばっかだね」
「そうですよ。だからもう自殺なんてしようとか考えないでさいね。僕が手を差し伸べた意味がなくなっちゃいますから」
「うん、だからその……」
モジモジと顔を赤くして何か言いたげな様子の香澄さんだが、香澄さんはその先を言う事なく席に戻ってしまった。
「そろそろ終わりですね」
「うん……そうだね」
香澄さんは寂しそうな表情をしている。彼女が今何を思っているのか、だいたい見当はつく。でもその気持ちを自覚しないでほしい。できれば彼女には僕のことを忘れ、新しい人生を謳歌してほしい。ボォーっと大きな汽笛の音がなり、船が着いた。
「それじゃあ行こっか」
「はい。なんだか名残惜しいです」
「別に……。また連れてってあげるわよ」
「それは……ありがとう、ございます」
そうして僕たちの短い船旅は終わった。これが僕の見える最後の光景か……。僕はしっかりとその船場から見える町並みの景色を目に焼き付けた。ここで終わりか……。僕の命日を迎えるに素晴らしい一日だった。最後に香澄さんにもう一つ何かしたい。でも今の僕は無一文だし。
そう思った矢先、ゴミ箱にある箱を見つける。僕はゴミ箱に近づくとその小さな箱を取り出す。
「何それ? 指輪を入れる箱?」
「多分そうですね。ちょっと待っててください」
僕は近くにあるお土産屋さんに入ると、店員さんにお願いして紙とペンを借りる。
そしてあるメッセージを書くと、箱の中に入れる。そして急いで香澄さんの元に戻ると。
「香澄さん」
まっすぐ真剣な眼差しを向ける。
「な、なに?」
いきなりそんな目を向けられた香澄さんは、一瞬警戒する。それでも伝えなくてはならない。
「僕、あなたのことが好きです」
そう行ってゴミ箱に捨てられていた箱を渡す。当然そんなことを言われた香澄さんは戸惑っていて。
「え? え? もしかしなくてもプロポーズ?」
顔を赤らめてあたふたしていた。でもこれはプロポーズじゃない。そんな言葉を送ったところで彼女を傷つけるだけなのは、僕が一番わかっている。
「いえ、これはプロポーズじゃありません」
僕がはっきりと否定すると、若干舞い上がっていた香澄さんのテンションが目に見えて落ちた。
「じゃ、じゃあ、なんでそんな告白めいたことを突然言ってきたのよ?」
香澄さんのもっともな質問に、僕はしっかりと答える。
「それは……。あなたはとっても魅力的で、人から好かれる才能があって、だから、世の中悪いことだけじゃないって伝えたくて……」
「ふふ、何それ?」
全くだ。本当に僕は何が言いたかったんだ……。自分の語彙力のなさを実感していると、香澄さんは僕の渡した箱に目を向けて。
「ねぇ、これ開けていい?」
と聞いてきた。
「いえ、それはまだ開けないでください。もし香澄さんがまた、世の中に絶望して、生きる気力を失ってしまった時に開けてください。そんな時が来ないことを僕は祈ってますけど」
「よくわからないけどそうする。きっとあなたなりに励ましてくれるものでも入ってるんでしょ?」
「それは開けてからのお楽しみということで」
「うん……」
それから静寂な空間が続く。でもこのままずっと黙っているわけにもいかない。終わりを迎える時が来たのだ。
「それじゃあ香澄さん。お元気で!」
最後の顔は笑顔で。僕は精一杯の笑顔を香澄さんに向けた。それを返すように、香澄さんも。
「うん。祐介も元気で!」
満面の笑みで、僕の元を去っていった。彼女にやれるだけのことはやった。もう彼女はつまづかないだろう。もし仮につまづいても、彼女ならまた立ち上がれるはずだ。僕は香澄さんが見えなくなったところで、手を振るのをやめる。
手を振るのをやめ、彼女の背中が遠ざかっていくのを見て、ちくりと胸が痛んだ。
緊張が解けたと同時に、ゲホゲホと咳が出て、それを手で抑えると手には血がついていた。あぁ……本当にもうそろそろ死ぬんだな。
僕は今、初めて死を実感している。いや、別に初めてじゃなかったかもしれない。
血反吐を吐くのは今日が初めてじゃないし、死にそうなぐらい苦しい思いもなんどもした。それでも死を実感できていなかったのは、きっと生を実感していなかったからだ。
人生を楽しいと思ったこともないし、何かを成し遂げたいと思ったこともない。親の敷いたレールをただ進む人生に、快楽を見出せなかった僕が悪かっただけなのかもしれない。
どうせ他の人間も同じようにつまらない人生を送ってるんだって割り切っていた。
でも今、初めて死にたくないと思った。こんな最後の最後に、どうしてあんな素敵な女性と出会ってしまったのだろう。全く、ひどい人生だ。
香澄さん……。あなたは僕に出会って救われたかもしれないですけど、僕はあなたに出会って絶望してますよ……。
あなたのせいで、こんな人生にも意味を見出せてしまったのだから。できるならあなたと一緒にいたい。そんな叶わない悲痛の叫びを胸に押さえつけ、僕は血と涙で汚れた手をぎゅっと握りしめ病院に向かった。
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