7 スーツケースは武器ですか?

 魔法はまず二つの分野に大別される。

 可視性魔法ビジブル

 不可視性魔法インビジブル

 それらの違いは言葉の通り、“魔力を目に見える形に変換するかどうか”というものだ。たとえば、『雷撃blitz』は可視性であり、『開けopenゴマsesame』は不可視性になる。

 そこからさらに、魔力を届ける範囲によって三つに細分化される。

 短距離ショート・レンジ

 長距離ロング・レンジ

 超距離オーバー・レンジ

 ショートは“自分自身、およびゼロ距離~皮膚から一メートル以内”、ロングは“皮膚から一メートル~視認可能距離以内”、オーバーは“視認不可能な距離(壁の裏などを含む)”となる。つまり、『雷撃』はロング、『開けゴマ』はショート、ということだ。

 その中で最も難しいとされるのが超距離オーバー・レンジ不可視性魔法インビジブルであり、それこそアーチが最も嫌っている分野であった。


「別に、できないわけじゃないんだ。嫌いなだけで」


 と、誰にともなく言い訳のように呟いてから、アーチは目を瞑った。息を吸い、悪臭にむせ返りそうになったのをどうにか我慢して、精神を集中させる。

 頭の中にスーツケースを思い描く。入学する時に姉と母から貰ってそれからずっと使い続けてきた、剣でもあり盾でもある、あのスーツケース。アーチの魔力を吸い込み続け、生半可な攻撃では傷一つ付かなくなった優秀な相棒。

 あれが、今いる場所へ――


「『波紋はどこまでも伝播し続け、アモンはいつまでも喧嘩し続け

  鴨のくちばしは永久に親を探し、青の牛飼いは永遠に子牛を探し

 後先のことを知らずして祀ろわぬ神に歌を捧ぐ

 波止場のことを聞かずして末路なき愛に肌を合わす

  だが鳩は白き羽を我に与えた

  ゆえに我は正しき道を、確かな解を

  迷子に地図を、子牛に首輪を

  進み、見出し、与えよう、歌を以って、愛を以って!』」


 意識がフッと二つに分かれ、自分の中から自分が半分抜け出した。

 それは向いていた方とは反対の方向へ、滑るように移動していく。ゴーストになった気分だ。下水道の壁がびゅんびゅん背後に流れていく。右へ左へカーブする道を熟練のレーサーのように華麗に通り抜けて――不意に、空間が広がった。

 天井が一気に高くなって、水が滝のように流れ落ちている。

 瀑布のような音の向こうに、子どもの甲高い喚き声が聞こえた――

 ――いた。見つけた。

 案の定水棲悪魔に襲われている。

 あれはロー・ヘッド・アンド・ブラッディ・ボーンだ。形状は人間と変わらないが、大きさはざっと三倍ほどで、体のところどころが欠け落ち、腐り、顔は血にまみれている。

 その手の中に金色の髪が見えた。アーネストだ。気絶しているようでぐったりとしている。

 アーチのスーツケースが光源の役割を果たしながら、困ったように飛び回っていた。

 その取っ手を半分の意識が掴んだ。

 瞬間、もう半分が目を覚ました。

 先行した意識に、ぐん、と体が引っ張られた。百八十度回転させられさっき通った道をなぞり始める。

 こちらには肉体があるのだ、意識と同じようにはいかないのに、問答無用で、同じスピードで! 水が抵抗するのだってお構いなしだ。


(これが嫌いなんだ……っ!)


 叫べるものなら思い切り叫ぶさ、とアーチは歯を食いしばって思った。

 しかし、こんなスピードでぶっ飛ばされている最中に口を開けようものなら、舌を噛み切ってもまだ足りないだろう。それに場所が場所だ。汚水が顔にかかるのは(嫌だけれど)仕方がないが、これが口の中に入るのだけは絶対にご免蒙る。

 そして――

 ――アーチは細い水道から広い空間へと放り投げられた。

 スーツケースの方に真っ直ぐ落下していく。


師匠マスター!?」


 涙に濡れた声が叫んだ。これが誰の声なのか、判別できるほど親しんではいない。

 スーツケースの取っ手を掴むと、分裂していた意識が合致して、体の感覚が戻ってきた。スーツケースがご主人マスターの到着に安堵したように、いっそう光を強める。が、それを懐かしんでいる暇はない。


「『重さ半減half』!」


 スーツケースを軽くする。その状態で体を捻り、狙いを定める。


「オオ、オオオオオオオオッ!」


 アーチの声を聞きつけた悪魔が振り返って吠えた。呪詛を含んだ叫び声のようで、魔力が乗っているのが分かる。

 しかし、アーチの耐性の前にはただの耳障りな音でしかない。

 アーチは移動のスピードも落下の重力も全部スーツケースに上乗せして――それだけでは飽き足らずさらに魔法でバフをかけ――


「『重さ倍増double』――さらにfurther,重さ倍増double』!」


 スーツケースを悪魔の頭に叩き込んだ。

 完全に潰した・・・という手応え。血が噴き出す。

 アーチはスーツケースの重さを元に戻し、飛び散る血しぶきを踏みながら悪魔の肩に乗った。腐った肉を蹴って跳ぶ。

 悪魔の手から滑り落ちてきたアーネストを掴んで、片手で抱えながら空中で身を捻った。

 着水。

 真っ先に少年の息を確認した。呼吸は無事にしている。外傷はない。顔色は悪くて意識もないが、おそらく叫び声にあてられただけだろう。

 思わず溜め息が漏れた。生きている。良かった、間に合ったのだ。失敗せずに済んだ!


「アーネスト!」

「師匠!」


 ヴィンセントとダニエルが膝まで水に浸かりながら、必死に駆け寄ってきた。

 その二人にアーネストを乱暴に押し付ける。


「下がりなさい」

「「え?」」

「早く! 悪魔があの程度で死ぬわけないでしょう!」


 アーチはぼうっとしている二人を怒鳴りつけ、スーツケースを盾に振り返った。

 悪魔の拳を真正面から受け止めて鈍い音がぐわんと水道に反響した。水の下で革靴が滑って膝が落ちた。アーチは一瞬ひやりとした。

 本当ならば避けたかったのだ――後ろに子どもたちがいなければ!

 悪魔との力比べなどするものじゃない。このままでは押し潰される。

 アーチは食いしばった歯の隙間から呪文を絞り出した。


「『風刃ズタズタblast』!」


 スーツケースを中心に小さな竜巻が発生し、悪魔の拳をわずかに押し返した。その隙間を縫って拳の下から脱け出す。背後に拳が突き刺さって重たい水しぶきが背中に掛かる。

 アーチは悪魔の懐に潜りこんだ。大きく一歩踏み込む。肘を畳んで腰を捻る。


「ふっ!」


 頭上の脇腹めがけてスーツケースをフルスイング。ボゴッ、とくぐもった音がして腐った肉が飛び散り脆い骨が砕ける。呻き声の代わりに首からゴボッと血の塊が落ちた。それを避けるように右脇を潜り抜け横へ。

 よろめいた悪魔はしかしすぐに体勢を直し、アーチを追って右腕を振り回した。背後から迫る腕を目の端に捉えてアーチは止まる。

 左足を軸に反転。スーツケースを前に。


「『重さ半減half』」


 衝撃を真正面から受けて、アーチはスーツケースを手放し大きく吹っ飛ばされた。軽く数メートル宙を飛んで、「『重さ倍増double』」アーチは体重を戻すと着水した。

 手放してきたスーツケースが光りながら悪魔の周囲を飛んでいる。

 それを目印に距離を目測しつつ、アーチは杖を胸の前に構えた。


「『援護boost』」


 静かに唱えると、体内を廻る魔力が一時的に倍増した。

 本来『援護』は既に放出されている魔法の威力を強化するための呪文で、アーチのように体内へ使うことは禁止されていた。体内の魔力濃度が一気に跳ね上がると、過呼吸のようになって倒れ、最悪の場合死に至るからだ。

 だが、アーチなら持ち前の耐性で無理やり抑え込める。そして、二人以上でしか行なえないはずの大規模魔法を一人で撃ってしまうとか、強制的に呪文を短縮するとか、様々な無茶・・をやらかすのだ。

 杖を振り上げ――


「『監獄に異論はなく、地獄に意見はせず

  涙も声も枯らした果てに何も過ぎ去らぬ絶望を呼ぼう

   さあ、凍結よこの場を食い荒らせ』!」


 ――振り下ろす。

 杖の先から真っ白い冷気が迸った。それは白い龍のように形を持って、水面を凍らせながら真っ直ぐ悪魔へと向かっていき、その全身に絡みついた。

 次の瞬間、ぱきん、と音を立てて悪魔が氷の監獄に閉じ込められる。

 その結果を見る前に、アーチは今出来たばかりの氷の道に飛び乗っていた。まだ新鮮な冷気を纏っている氷を踏むと、革靴に付いていた汚水が即座に凍って即座に割れる音がした。一瞬の凍結はむしろアーチの走りを支えてくれる。

 走りながら空中を手で引くと、スーツケースが飛んできた。その取っ手をしっかりと握りしめ、曲がったまま固まっている悪魔の背中を駆け上がる。

 踏み込み、跳ぶ。飛ぶ。


「『重さ倍増double,重さ倍増double,さらにfurther重さ倍増double』!」


 三乗にすればもはや持ってなどいられない。重力にすべてを任せてスーツケースを離せば、それは隕石のように落ちていき、氷ごと悪魔を粉砕してなお止まらず。

 ズン、と下水道が鳴動した。


(やりすぎたか?!)


 アーチは一瞬焦った。

 ロンドンの下水道は長い歴史を誇る。衝撃に強いとはとても思えない。最悪、自分のせいで歴史に終止符が、ということも充分考えられる。

 しばらくして――脳裏をよぎった“最悪の事態”が起きそうにない事を悟ると、アーチは詰めていた息を吐いた。スーツケースの重さを戻し、拾い上げる。


(さて、少年たちは無事だろうか、な……うっ)


 不意に、アーチの内臓がひっくり返った。

 水の中にある足が地面を認識していない。

 天井がぐるぐると回り出す。

 さきほどの強制移動のときにかかった重力やら何やらを、体が思い出したのだ。永久に忘れていてくれればよかったのに……。

 倒れそうになったのを、スーツケースを支えにどうにか我慢した。が、吐き気は我慢できない。口の中はすでに酸っぱい液体で満ちている。朝食べたスコーンのにおいが逆流してきて鼻に詰まっていた悪臭を押し流した。

 もう駄目だ。

 アーチは顔を背け、吐いた。


 彼の内臓が落ち着きを取り戻した頃には、アーネストも目を覚ましていた。三人がそろそろと近付いてきているのが、水の音で分かった。

 スーツケースが自ら発光して、ほんわりと辺りを照らしている。そういえば自律魔法を切るのを忘れていた、とアーチは口の中に残った胃液を飲み込みながらぼんやりと思った。


「師匠、大丈夫?」


 ダニエルの質問にどうにか頷き返して、アーチはスーツケースを支えに上体を起こした。鼻はもう完全に麻痺していて、息を吸っても何も感じなかった。


「三人とも、無事ですか」

「今一番無事じゃなさそうなのは師匠だよ」


 と、ヴィンセント。


「なら全員無事ということですね。では、早くここから出ましょう。でないと、」


 スーツケースが急に、警告するように赤く光って、アーチの背後を照らした。アーチは振り向きざまに杖を振った。


「『風刃ズタズタblast』!」


 強い疾風が吹きすさび、水が細切れになって――その下に潜んで今にも襲い掛かろうとしていた半魚人マーマンたちが絶叫した。暗紫色の血が飛び散って、しかしその姿は水に押し流されて消え失せる。マーマンは面倒だ。相手が強かろうがなんだろうが群れをなして襲ってくる。水が汚れれば汚れるほど狂暴になるから、ここの連中はブリテン中で一番殺気立っているに違いない。

 アーチが目配せをすると、意を汲み取ったスーツケースがふわりと浮かんで少年たちの前を横切り、別の通路の方へ向いた。


「それに付いていってください。後ろは気にしないで、前だけを見て。さぁ、急いで!」


 少年たちが一斉に走り出した。重たい水に足を取られるせいで、早歩き程度のスピードしか出ていないが、それは仕方がない。転ばないように進んでくれれば充分だ。

 アーチたちはスーツケースの先導に従って、水が流れていく方の通路に入った。来た道には戻らない。飛ぶ方法などいくらでもあるが、問題はそこではなく、入るのに使ったマンホールにはディクソンが張り付いているかもしれないということだ。いやアイツなら絶対に張り付いている。そして、子どもを三人も連れて出てきたアーチに向かって意気揚々と聞くのだ。


『どうしたウルフ? 隠し子か?! 何、違う? 弟子? 弟子ぃっ?! おおおおお、これはスクープだな!』


 ――想像しただけで殺意が湧いてくる。

 アーチはその殺意を、マーマンや骨なしボーンレスらを追い払うのに有効活用しながら、懸命に走る小さな背中が突然消えたりしないように――たとえ消えたとしてもすぐ見つけられるように――見張っていた。

 だから、三人がチラチラとこちらを振り返ることにも当然気が付いていた。


(後ろは気にするなと言ったのに……)


 少しだけ気に入らなかった。

 が、会ったばかりで信用しろという方が難しいか、とアーチは思い直した。今はたとえ形だけであっても、“師匠”として彼らの背中を守ることだけに集中しておけばそれでいい。

 出来るだけ早くマンホールが見つかることを祈りながら、アーチは杖を振った。


 水の中を進むのは通常の数倍体力を使う。

 数分前から、少年たちの足は歩くよりも遅くなっていた。こちらを見る余裕もなくなっている。

 そろそろ限界かもしれない。

 が、休ませることはできない。

 休むような場所はないし、マーマンはいよいよ猛り狂っている。骨なし――後ろから追ってきて、追いつき次第人を飲みこむ白い光の塊――の数も増えてきた。殺さずに抑えるのも難しくなってきたのに、足を止めるなど言語道断だ。

 アーチは何度も、彼らに声を掛けようとしては空気を飲み込んでいた。

 長らく独りで行動してきたせいで、こういう時に掛けるべき言葉が出てこないのだ。学生の頃だって集団行動は嫌いだったし、したところで声を出すのはフィルの役目だった。

 だから、黙ったままなるべく敵を遠ざけることしか出来ないでいた。

 何か別の方法を考えなければならないだろうか、と思ったその時。

 数メートル先を行くスーツケースが止まった。光をきらきらと振り撒いて、嬉しそうに上下左右に揺れている。マンホールが見つかったのだろう。


「あれ、出口?!」


 ダニエルが声を弾ませた。

 アーチは黙って頷いてから、それでは駄目だと気が付いて、口を開いた。


「ええ、おそらく!」

「よし……っ! アーネスト、ほら、気合い入れろ! もうちょっとだって!」


 一番ぐったりしているアーネストの腕を、ヴィンセントが引っ張っていく。アーネストは返事も出来ない様子だったが、しかし明らかに速度が上がった。

 先頭を走るのはダニエルだ。アーチは彼に向かって叫んだ。


「ダニエル、『鍵開け』は出来ますよねっ?」

「うん!」

「マンホールだろうが要領は一緒です。先に行って開けてください!」

「わかった!」

「開いても飛び出さないように! 道路だったら死にますから!」

「了解!」


 気力を取り戻した声を聞いて、アーチは立ち止まった。

 獲物が動きを止めたのを好機と捉えたらしい。マーマンの大群が水面を蹴った。骨なしが足元に迫る。


「『援護boost』――『風は刃、ベイリーフの枝を折れ』!」


 振り向きざまに、杖を一閃。

 一単語の『風刃』とは比べ物にならないほどの爆風が、下水道内の床から天井までいっぱいに吹き荒れ、目と鼻の先にまで迫っていた怪物たちを汚水ごと吹き飛ばした。暗闇の奥の奥まで完全にそれらの姿が消え、古ぼけたコンクリートが久々に空気に触れた。

 強制的に押し返された汚水が、波になって戻ってくる。

 それに足元を掬われる前に、アーチははしごまで行き、外に飛び出した。


 そこは入ったところと似たような路地裏だった。

 アーチは思い切り深呼吸をした。――新鮮な空気があるということはなんとありがたいことだろうか! 空がまだ明るいことにちょっとだけ混乱したが、冷静に考えれば当然のことである。

 時計を見れば、まだ午後一時五分だった。


(なんだか、一日の仕事を終えたような気分だな……)


 マンホールの蓋を閉め、スーツケースの魔法を解除する。それから三人の無事を改めて確認しようとした時。

 へたり込んでいたダニエルが怯えた声で言った。


「ねぇ、やっぱり僕ら、殺されるんだよ……あれ・・は、見ちゃいけなかったんだ!」


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