魔法使いの師匠〜スリム・ウルフは真っ赤な悪夢を蹴散らせるか〜

井ノ下功

本編

第1章

1 悪夢

 これは夢だ、とアーチの心のどこか冷静な部分が断じていた。視界はセピア色だし、視点は異様に低い。

 間違いない、これは十一歳の時の記憶の再演である。

 その日、アーチと姉は友人の家で遊んできたのだった。

 夕暮れ前に帰ってきた二人を、玄関脇に掛かっていた赤いナポレオンコートが出迎えた。俳優としてイギリス全土、いや世界中を飛び回っていた父のトレードマーク。


『へぇ、珍しい。クリスマスでもないのに、父さんが家にいる』


 目をぱちくりさせた姉が、不意に『やりすぎよ』とアーチからゲーム機を奪い取った。もう少しでハイスコアだったところを邪魔されて、アーチは抗議しようと口を開いた。

 その時。


『魔法使いだってっ?!』


 殴りつけるような父の怒鳴り声が響き、二人はピャッと首を縮めた。


『ふざけるな! そんなこと誰が許すものか!』


 アーチと姉は顔を見合せた。先に事態を察した姉が“静かに”とジェスチャーをし、弟の手を引いてリビングに忍び寄った。

 少しだけ開いていた扉の隙間から中を覗く。

 と、母になだめられた父が、ちょうどソファに腰を沈めたところだった。

 それから父は額を押さえ『魔法使いになるなんて、絶対に許さない』と静かな声で繰り返した。今までに見たどんな演技とも違う、迫真の声だった。


『ミスター・ウルフ、それを決めるのはあなたではありません』


 父の向かいに座っていた女が冷徹に言った。


『魔法使いになるか否かを決めるのは、素質を持つ張本人、アーチボルト君です。あなたが許すか否かなど関係ないのです』

『関係ないわけあるものか! 私の息子だぞっ?! それを、魔法使い? そんなものに、誰が、誰が……っ!』


 アーチは自分の名前が出たことに驚き、戸惑って、姉の方を見た。

 姉は大きく見開いた目の中に星屑を散らして、


『すごいわ!』


 と一言叫ぶと、アーチをぎゅっと抱きしめた。


『すごいわ、アーチ! あなた、魔法使いの素質があるのね! いいなぁ、羨ましいわ!』


 彼女の声を聞きつけて、父がバッと立ち上がった。大股で部屋を横切って、扉を思い切り開けると、アーチの首根っこを鷲掴みにして姉から引き剥がす。

 アーチと同じ真っ黒の瞳が、地獄の業火のように燃えている。


『アーチボルト。お前は絶対に魔法使いにはなるな。魔法使いは、社会のルールから外れた危険な職業だ。魔法は、どんなルールも捻じ曲げて、真実も嘘にしてしまう、本当に危険なものだ。まともじゃない――そんなものに関わって、お前までまともでなくなったらどうする! そんなことになったら、まともな幸せは掴めないぞ!

 見ろ、アーチ。現に――』


 突如、ぐるん、と視界が回転して、父の姿が消えた。

 アーチの視点は五年分高くなり、場所も家ではなくなっている。

 灰色の壁に囲まれた、冷たくて薄暗い“虹の別室”――


 ――遺体安置室。


 背後の廊下には粗末なベンチがあって、母と姉が寄り添って座っている。毛羽立ったガーゼのようなすすり泣きの声が、鼓膜をさわさわとくすぐる。

 部屋に入ると、ひやりとした空気が頬を包み、不可思議なにおいが鼻先を掠めた。

 中央には鉄製のベッド。そこに誰かが寝ている――それが“誰”なのか、アーチは知っている。白い布が人の形をごく大雑把にかたどっている――それが本当に“大雑把に”であることを、アーチは知っている。

 アーチは唾を飲み込んで、ゆっくりとベッドに近寄った。

 布に手をかけ、一息に剥ぎ取る。


『――現に、私は、魔法使いに殺されたじゃないか――』


 体の半分以上を失った父が、そこに横たわっている。

 アーチは音を立てて息を吸い、


「お客さん。アンブローズ・カレッジ前。終点だよ」


 吸い込んだ空気を夢ごと飲み込んだ。見開いた目の中に広がる世界は正常な色彩を持っている。現実世界に戻ってきたのだ。

 座席からずり落ちそうになっていたのを正して、掠れた声で「すみません」と言うと、車掌は気遣うような苦笑を浮かべて去っていった。

 車掌が二号車へ消えるのを見送って、アーチは額を押さえた。

 途端に溜め息が落ちる――二十時間ぶりの睡眠であんな夢を見ていては、取れる疲れも取れやしない。

 父の死体のことは、十二年経った今でも悪夢のようにハッキリと覚えている。

 しかし、本当の“悪夢”で見たのは久々だ。形見の真っ赤なナポレオンコートが、急に水を含んだように重たくなって、立ち上がるのが億劫になった。


(悪いね、父さん。まとも・・・じゃなくって)


 アーチはもう一度溜め息をついて、眼鏡を掛けると、ようやく腰を上げた。

 列車から降りたのは彼だけだった。

 長い汽笛が夜天に響く。魔法界を繋ぐ列車の最終便は、カレッジを取り囲む森に向かって走り出し、木にぶつかる直前で霧になって消えていった。魔法列車の格納庫の場所を知っているのは、ごく一部の魔法使いだけである。

 そこを一目見ようと潜入した鉄道オタクの魔法使いが、三日ほど消息を絶ったのち、昏睡状態でスコットランドの北端に倒れていたという事件を思い出して、アーチは鼻で笑った。

 冬の鋭い風が、首の後ろで括られた黒髪から悪い汗を吹き飛ばす。

 赤レンガの小さな駅舎を抜けると、アンブローズ・カレッジの校舎が正面にそびえ立つ。魔法の素質を認められた子どもたちの99.9%が入学する、英国唯一の魔法学校だ。

 ウィル・オ・ウィスプの乱舞が、バロック調の荘厳な姿を夜闇に浮かび上がらせている。見慣れた光景。アーチがここを卒業したのは、もう十年も前のことである。が、その後も幾度となく足を運んでいるから、これといった感慨は覚えなかった。

 正門脇の詰所に近付くと、ノックする前に扉が開いて、温かい光とともに毛むくじゃらの小男――守衛のバートン・バートン・ハイリードが顔を出した。毛むくじゃらなのは父が人狼ウェアウルフで、小さいのは母がドワーフだからである。

 彼は尖った耳をぴくぴくと動かしながら歓迎の声を上げた。


「よぉ、スリム・ウルフ! 今日は何の退治だ?」


 アーチはひょいと肩をすくめた。


「さぁ。それがまだ分からないのです」

「ハハァ、さてはバロウッズ先生だな?」

「ええ、まぁ」

「フリーランスも大変だなぁ。ひょいひょい呼び出されてはいいようにこき使われて」


 バートンは他人事のように(事実他人事なのだが)言いながら、アーチを招き入れた。古びた分厚いノートに「ええと、アーチボルト・ウルフ……二〇二〇年二月二日水曜日二十時二十二分、と。何だか“二”ばっかりだなぁ」ぶつぶつ言いながら書き入れる。正門を通った人間は、すべてこのように記録されるのが決まりなのだ。

 しっかり書いてから、バートンはふと思い付いたように頭を上げた。


「なんでお前はフリーランスを続けてんだ? いくらお役所勤めが嫌だからって、なぁ。ウルフほどの腕前なら、魔法庁でなくたって引く手数多だろうに」


 よくある質問だ。アーチはにっこりと笑って「ええ。ですから、たくさんの方々にご愛顧いただいているのですよ」と答えると、詰所を出た。

 少し間を置いて、ようやく言葉の意味が伝わったらしい。バートンの大きな笑い声が背中に届いた。


 三十人で鬼ごっこをしてもまだ余裕がある広い前庭を、真っ直ぐ横切って校舎へ入る。

 玄関ホールは塔のようになっていて、正面以外に扉は一つもなく、階段が壁に沿って伸び、先端まで三十メートル近い螺旋を描いている。この吹き抜けのせいで、どれだけ気をつけても足音が響いてしまうのだ。それがアーチは嫌いだった――こっそり何かしようと思った時の最大の障害だったから。今でもついつい足音を忍ばせてしまう。

 今日は何曜日だったか、と考えながら、螺旋階段を登る。


(水曜日……ということは、門番はゴヤの怪物か)


 三番目の踊り場でアーチは足を止めた。

 ゴヤの『理性の眠りは怪物を生む』のレプリカが掛かっている。机に突っ伏して眠っている女性の周囲に、フクロウやコウモリのような怪物たちが、静かに羽ばたきながらまとわりついていた。

 ここを通る方法は二つ。平和的な方法を採るならば、“理性”である女性に眠りの魔法をかけ、怪物たちに道を開けてもらえばいい。

 が。

 アーチは絵の左下を見てちょっと眉を顰めた。この間まで確かに“58 seconds”と刻まれていたのが、“57 seconds”になっている。

 アーチのハイスコアが塗り替えられたのだ。

 それを認めた瞬間、彼は平和的な方法を捨てた。――誰だか知らないが、十年前の自分に勝った程度でいい気になられては困る。


「起きろ!」


 一喝。

 すると絵の中の怪物たちが一斉に、けたたましい奇声を上げながら飛び出してきた。

 アーチはどこからともなく銀色のスーツケースを取り出すと、最初の二体をまとめて殴り飛ばした。


 きっちり百体の怪物を倒すと、絵の左下に新たなハイスコア“39 seconds”が刻まれた。

 アーチは晴れやかに微笑むと、起きた“理性”が机上の論文に向かって頭を抱えている後ろをくぐり抜けた。再び彼女が寝るまでは自由に行き来できるようになるのが、“暴力的な方法”の良い点である。

 誰もいない静かな廊下を、やはり足音を殺したまま進んでいく。

 バロウッズ先生の研究室は廊下の一番奥だ。

 不思議な仮面や謎の金具に飾られた扉を叩く。

 と、勝手に扉が開き、


「やあウルフ。そう久しぶりでもないけど、久しぶり!」


 真正面のデスクに座っていた年齢不詳の男性――キャロル・ケルビン・バロウッズが、満面の笑みで出迎えた。絹糸のような銀髪が床スレスレまで流れている。瞳の色は分からない。彼はもともと糸目なうえ、時も場合も感情も関係なく常に笑顔でいる人だから。


「こんばんは、先生。お変わりなさそうで」

「君もね。ゴヤの怪物とやりあってきたんだろう? スコアは?」

「三十九秒」

「ワォ。これはもう誰にも抜けないな、ハッハッ!」


 入りたまえ、と言われて中に入ると、小さな先客が三人いることに気が付いた。彼らは壁際に立っていたから、廊下から見えなかったのだ。

 小さな、と言っても、バートンのような小ささではなく、まだ幼いというだけである。ここの生徒で、十三歳前後だろう。金髪、茶髪、紺色と、三色の小さな頭がこちらを振り仰いでいた。瞳は大きな宝石――サファイアとエメラルドとラピスラズリ――のように光を反射しながら、どこか警戒するような色を含んでアーチを凝視している。

 アーチはなんとなく嫌な予感を覚えつつ部屋の中央に立ち止まった。


「さて、ボーイズ! 彼が噂のスリム・ウルフだ。知っているだろう?」


 バロウッズ先生がアーチの方を手で示し、少年たちに向かって言った。

 すると彼らは互いの顔を見合って、それから一斉に口を開いた。

 得意げに「当然!」と胸を張った金髪に、「僕ももちろん、知ってるよー」と茶髪は間の抜けた顔で、そして最後に紺色が「知らないわけがないだろ」と冷めた口調で言い捨てた。

 アーチがきちんと声と顔とを把握できたのはそこまでだった。


吸血鬼スリムマンを一人で倒して、人狼ウェアウルフと殴り合いで引き分けた!」

「僕たち月下寮シェリの先輩で、真っ赤なコートがトレードマークなんだよね?」

「見た目は優男スリム・マン、だけど中身は冷血な一匹狼だ、って」

「協会以外にはどんな派閥にも属してないんだよな!」

一般人オーディナリーからの依頼も平気で受けるんでしょ?」

「最近ドラゴンの首を落としたって聞いたけど」

「マジ?! そんなのどこで聞いたんだよヴィンス」

「俺には俺の情報網があるのさ、アーネスト」

「ねぇねぇドラゴンの首ってどうやって落とすの?」

「本人に聞いてみろよ、ダニー」

「ええー、ヴィンスだって気になってるくせに」

「はいはいボーイズ!」


 パンパン、と両手を叩いて、先生は三人の口を閉じさせた。


「すでによく知っているようだが、改めて紹介しよう。彼はアーチボルト・ルーシャン・ウルフ。金枝階級ゴールドで非常に優秀な、フリーランスの魔法使いで――

 ――明日から一ヶ月間、君たちの師匠マスターになる人間だ」


 少し間を置いて――ようやく言葉の意味が伝わってきた。アーチは当然、その一方的な宣言に対して抗議をしようとした。

 が、その前に、少年たちの大きな声が室内に爆発したのだった。

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