第22話 引っ越しそば

「あれ、引っ越すの?」

 業者が最後の荷物を運び出し終わった後、開けっ放しのドアから亮平がひょっこりと顔をのぞかせた。がらんとした部屋を見回し、亮平は「同じ間取りだけど、なんか広く見えるのな」と言った。

 不思議な光景だった。亮平はまるで自分の部屋にいるかのように寛いでいて、桃子にも亮平が自室にいる姿を容易に想像できるのだが、ここは桃子の部屋なのだ。荷物はなくなっても思い出がしみついている。六年間、貴一だけを思い続けてきた部屋。男など誰ひとりあげたことのなかった部屋。その部屋に乱暴な形であがりこんできたのが亮平だった。

「ベランダ伝いにこっちの部屋に渡ってくるようなことにはもうならないで」

 彩花がいるのに浮気するなという意味だが、亮平に通じただろうか。明日からは亮平たちの息遣いに耳を塞ぐ必要もなくなる。桃子が部屋にいると気づかれまいと息を殺すような生活からも解放される。

「引っ越しそば、食わね?」

 腹を鳴らした亮平が誘った。桃子は笑った。

「引っ越しそばって、引っ越し先で配るものだよね」

「あれだ、細く長く生きようっていう」

「それは年越しそば」

「何だっていいや。オレ、腹減ってんだ」

 そのまま、駅前にある小さな蕎麦屋に連れていかれた。たてつけの悪い引き戸を開けると、威勢のいい主人の声が飛んできた。

「カツ丼も捨てがたい……」

 壁に居並ぶメニューの札をみて、亮平は腕組みをして考えこんでいた。

「お蕎麦が食べたかったんじゃないの?」

「そうなんだけどさ、カツ丼ていう字を見ちゃうとさ……」

 たかだか食事について真剣に悩んでいた亮平だったが、意を決したかのように腕組みをほどいた。それから右手の人差し指をたて、左右に振り始めた。人差し指の先は、カツ丼とざるそばの札とをそれぞれ行ったり来たりしている。その間、亮平は節をつけて歌を歌っていた。

「どちらにしようかな 天の神様の言う通り あっぷぷのあぷぷ」

「あっぷぷのあぷぷ?」

 桃子は思わず聞き返した。

「なのなのなじゃなくて?」

「なのなのな? 何だそれ」

「どちらにしようかな 天の神様の言う通り なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン」

「聞いたことねえな」

 そう言うなり、亮平はスマホをいじりだした。

「地方によってバリエーションがあるんだと。天の神様の言う通りまでは全国共通だけど、その後が地方によって違うだとさ。『なのなのな 鉄砲撃って』なんだっけ」

「バンバンバン」

「鉄砲撃ってバンバンバンは……東京、神奈川、埼玉、千葉……関東で使われているんだってさ」

「へえ」

 桃子は亮平のスマホをのぞきこんだ。亮平が口にしたあっぷぷのあぷぷは主に関西方面で用いられているフレーズだった。

「それで、カツ丼にするかそばにするか決めたの」

「そばにする」

 スマホの画面から目を離さずに亮平は言った。

「彩花とはうまくいってる?」

「普通」

 亮平はそばをすすった。豪快な音がした。食べっぷりのいい男性は嫌いじゃない。

「普通って何、あんたの普通は人とちょっと違うから心配」

「どう違うんだよ」

「彼氏のいる子と付き合って、自分も別の子と付き合っても平気だとか」

「お互い納得している関係なら何だっていいじゃねえの」

「そうはいうけど」

「てかさ、オレらがどう付き合おうと、あんたには関係ないよね? 彩花はただの友だちなんだろ」

「彩花は男に泣かされてきたから。特にあんたのような男に。そのたびに愚痴聞かされて、やっとまともな恋愛してたかと思ったらまたあんたみたいな男に引っかかって」

「あのさ」

 そばを啜るのをやめ、亮平は箸の先を桃子にむけた。

「さっきから聞いてると何だよ、あんたみたいなって。何かオレがクズな男みたいな言い方して」

「浮気男はクズじゃないの」

 桃子の語気が荒くなった。

「一度に何もの相手と付き合って何が悪いんだよ。てか、オレ、相手にも別に付き合っている子がいるって言ってるんだから、そもそもそれって浮気になるのか?」

「何で一人の人と付き合わないの」

「だって、みんなそれぞれに好きなんだぜ。選べないよ。てか、さっきも言ったけどさ、オレが誰とどう付き合おうとあんたにはまーったく関係なくね?」

 亮平の言う通りだが、何だか釈然としない。亮平にも腹が立つし、三角関係でも構わないという亮平の彼女たちの態度にも苛々する。胸にこみあげてくるモヤモヤとした気持ちは一体何なのか。

 すっかり食欲の失せた桃子は箸を置いた。

「食わねえの?」

「食べていいわよ」

 桃子はせいろを亮平に押しやった。半分も手をつけていない。

「やっぱ、カツ丼も食おっと」

 嬉々として亮平は言った。

 ざるそば2枚とカツ丼とで合計は三千円になった。スーツ代、コーヒー代もろもろの借りを清算する意味でおごるからと言って亮平はきかなかった。スーツ代を出してもらうつもりはなかったし、蕎麦屋のおごりではせいぜいコーヒー代が相殺されるくらいだろうと桃子は承知した。

 いざ会計となり、亮平は財布を出そうとデニムのポケットをさぐった。しかし、どのポケットからも財布の出てくる気配はなかった。あれと言いながら、亮平はデニムを叩いてみせていたが、だからといって財布や金が出てくるはずもない。

「財布、部屋に忘れてきた……」

 亮平は困ったような顔を桃子にむけた。桃子は黙って自分の財布を取り出した。本当に忘れてきたのか、おごらせるつもりで最初から持って出なかったのか、亮平の真意を考えるのは面倒だったし、どうでもよかった。

「悪い。今度、絶対返すからさ」

 店を出たところで、亮平は両手を合わせ、悪びれた様子もなく言った。今度っていつだろう。亮平は、桃子の引っ越し先も連絡先も尋ねなかった。

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