第16話 スーツの似合う女

 セールの文字にひきつけられ、桃子はふらりと店内へと足を踏み入れた。新商品のマチ付きクリアファイルの試作品の打ち合わせに工場に行った帰りで、降り続ける雨をよけてデパート内を通り抜けて駅にむかおうとしていた。そのデパートと駅とは屋根付きのコンコースでつながっていて、店はコンコースのあるフロアの一角にあった。

 本格的な夏の来る前に、昨シーズンの在庫一掃を目的としたセールだ。そろそろ夏物のスーツを新調していたいと思っていたところだと、桃子はさっそく物色を始めた。流行遅れのスタイルになってしまうが、背に腹はかえられない。

「いらっしゃいませ」

 色白で小柄な女性店員が声をかけてきた。光沢のある素材の薄紫色のシャツに、紫色のストライプの入った紺のパンツを着こなしている。ショップの服だろう。客である桃子も、似たようなスタイルのパンツスーツ姿だった。

 煩わしいのは嫌だというオーラが出ていたのか、店員はセールをやっているという案内だけをして去っていった。

 初めての店だったが、桃子の仕事着であるスーツがダーク系をメインカラーとして各種取り揃えてあった。

 桃子は、シンプルなスーツを好んで着る。会社自体は自由な雰囲気で、人に会うことが多い営業部のような部署でない限り、スーツを着なくてもいい職場だが、桃子は入社以来、スーツを着続けている。おしゃれな女性だと小物やアクセサリーで女性らしさを演出するだろうが、桃子は指輪もネックレスも一切身につけない。スーツ自体の色味も、紺や黒、グレーといった、サラリーマン色一辺倒だ。

「お似合いですね」

 試着室から出てくるなり、色白の女性店員が鏡の中の桃子をうっとりと眺めて言った。客を褒めるのは仕事だろうが、その賞賛には嫉妬めいたものもうかがえた。

「ありがとうございます」

 桃子は照れたように笑顔を返した。シルバーグレーのパンツスーツは、背の高い桃子にこれ以上ないほど似合っていた。ほっそりした体はシャープさを増して、手足の長さがグレーの色味に強調され、さらに長くなったようにみえる。

 就職活動を始めたばかりの頃、スーツ姿で大学のゼミに顔を出したら、ゼミ仲間から似合うと賞賛された。スーツが似合うと言われて喜ぶ女はいないだろうが、何を着ても似合わないよりはましだと桃子はポジティブに受け止めた。実際、スーツが似合うことでプラスな部分もあった。かっちりした姿が、真面目で清廉な印象を与えるのか、面接官の受けがよかった。おかげでバカなことを口にしても、洗練された冗談だとして受け流してもらえた。女らしい格好は似合わないマイナスを補ってのプラスだった。

 試着室を出ると、女店員は背の高い男と話しこんでいた。ダークブルーのスーツに白いシャツ、ピンクのネクタイをしめている。スーツの色味とスタイルはショップにある男物と似通っていた。店員なのか、それとも客なのだろうか。今時の若い男性らしく、髪は明るい色で長め、毛先が人工的にあちこちをむいていた。

 男は桃子の方を向いていた。小柄な女店員の後頭部の上に顔がはっきりと見えた。先に桃子に気づいたのは亮平の方だった。

「あれ、買い物?」

「それ以外に何が?」

 見ればわかるだろうと、試着したばかりのスーツを腕にかけ、桃子は足早にレジにむかった。その後を亮平が小走りに追った。

「そのスーツ、オレに買わせてよ」

 カバンから財布を出そうとするのを、亮平がさえぎった。

「この間、世話になった礼にさ」

「この間世話になったって何の話なの、リョーヘイ」

 女店員がいぶかしげに亮平の顔をのぞきこんだ。どうやら二人は親しい仲らしい。女同士が鉢合わせしたというのに、自分の部屋でボヤを出したという嘘を亮平がついたところをみると、あの時に関わっていた女たちとは別の新しい女であるらしい。

「そうね。あの時は迷惑したなあ。何でボヤ出したんだっけ? 寝タバコ?」

「リョーヘイ、タバコ吸わないじゃん」

「えっと、あれだ、天ぷら作ろうとして火にかけたまま、寝ちったんだな」

「何それ。何で夜中に天ぷら? 第一、リョーヘイ、料理しないじゃん」

 女店員の疑惑が深まっていくのを横目に、桃子は必死に笑いをこらえ、財布からカードを出した。

「それ、セール対象外だけど」

 亮平に言われるなり、桃子は慌てて値札を確認した。考えていた予算をはるかに超える値段だった。

「買ってもらったほうがいいんじゃね」

 亮平はニヤニヤしている。

「てか、あんたにも買えるの」

 負けじと桃子も言い返してやった。

「社割で買えるもん」

 亮平の打ったスマッシュヒットは、桃子のゴール隅にきれいに決まった。

「ここ、オレの店だから」

「自分の店みたいに言わないでよね」

 女店員がすかさずツッコミを入れた。

「オレ、この店のブランドの営業マンなの」

「それで、社割」

「社割だと二割引きになるけど。どう? そそられるっしょ」

 勝ち誇ったかのように亮平は唇の端をあげた。悔しいが、二十パーセントの差は大きい。

「お、お願いします……」

 桃子はレジのデスクの上にあるスーツを亮平の方にむかってすべらせた。

「ハイハイ。そうこなくっちゃ」

 亮平はきびきびした動作で女店員に指示を出し、財布からカードを取り出してみせた。

「言っとくけど、この場では社割で買ってもらうけど、後でその分のお金をちゃんとあんたに渡すから」

「いいって、そんなの。オレ、あんたにはカシがあるんだから」

 翌朝まで桃子の部屋の前に居座り続けた女に、亮平とは別れるよう説得したのは桃子だった。自分に振り向かないような男に若い時の貴重な時間を無駄に費やすことはないと言うと、女は疲れたように何度もうなずいてみせ、桃子の渡したパンプスを両手にマンションを去った。その後、ようやく亮平は自分の部屋に帰れたというわけだった。

 しかし、あの時、しばらくの間亮平をかくまった桃子への貸しを返そうとする亮平が余裕の笑顔でいられたのもこの時までだった。

「リョーヘイ、リョーヘイのカード使えないよ?」

 女店員は、怒ったような口調でカードを差し出した。

「そんなはずないっしょ。もう一回試してみてよ」

「もう何度も試したけど、エラーになるの。また限度額超えたんじゃないの」

「じゃ、こっちので」

 亮平は別のカードを取り出した。桃子には笑顔を取り繕っていたが、不安なのか、何度もレジに視線をやった。不安は的中し、カードはまたしても使用できなかった。

「マシンがおかしいんじゃねえの」

 焦る亮平を横目に、桃子は黙って自分のカードを差し出した。女店員も黙ってカードを受け取り、粛々とカード決済の手続きを済ませた。

「ありがとうございました」

 満面の笑みの女店員には笑顔を返し、亮平にむかっては冷たい視線を投げかけ、桃子は店を出た。フロアを足早にコンコースに向かって歩き始めると、後ろから亮平が追いかけてきた。

「待ってよ。悪かったって。今月はきついけど、来月給料入ったらちゃんと全額返すから」

 亮平を無視し、桃子はコンコースを駅にむかって渡り始めた。雨はいつの間にかやんで、雲間から太陽が顔をのぞかせている。梅雨明けもそう遠くないだろう。

「いいよ、別に。もともと、自分で出して買うつもりだったし。社割にしてもらっただけでも助かったから」

「でも、それじゃ、オレの気がすまないっていうか。この間のカシが返せていないっていうか」

「うん、貸しが増えてるよね」

 コンコースが尽き、駅の構内に入るとむっとした湿気に包まれた。

「あれ、なんか、喉、乾かねぇ? オレ、喉乾いたわー。ちょっとそこらでコーヒーでも飲んでいかね? おごるからさー」

「いつの時代のナンパよ?」

「いいから、いいから」

 スーツの入ったショップの袋を引っ張りながら、亮平は桃子を駅の外へと連れ出した。

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