零時、ただし正午(12)

 教室に戻って、窓際にある自分の席に着いてから、教科書を机にしまう。ゆっくり準備したつもりだったが、いつも何気なくしている準備は何も考えなくても早く行うことができる。いつもは少しでも時間があれば現代文の教科書を開いて予習を始めるが、もう「檸檬」の「私」がどんなに得体の知れない不吉な塊に襲われようとどうでもいい。ノート、たくさん書いたけど無駄になってしまった。


 ホームルームの時間が近づくにつれ、どんどん生徒が増えてきた。教室が騒がしくなるにつれ、身体がだんだん揺れてしまう。私という存在の輪郭揺らされて、ぼやけてしまう。教室のドアから雪崩れ込んでくる人影の中に日比野の姿を見つけたが、挨拶はおろか顔を見ることすらできなかった。日比野は支度を終えると、誰とも会話をせず教室を出ていってしまった。きっと怒っているのだろう。笑っている日比野、泣いている日比野、怒っている日比野。私が知っている日比野は、日比野のほんの少しだ。日比野のことですら、知っている気になっていた。あぁ、私は今、完全に独りだ。


 チャイムが鳴って先生が教室に入ってくる。今まで騒いでいた生徒たちは驚いたトカゲのように席に着く。いつもと同じ時間に、いつもと同じ人が入ってくる。世界は、私が失恋したぐらいでは止まってはくれない。先生が私にかけた魔法はとっくに解け、教室の埃やごみが嫌でも目についてしまう。魔法が解けてもガラスの靴は消えない。日比野の泣き顔が、どうしても頭から離れない。落としてしまったガラスの靴を憂うように、日比野の泣き顔が気になって仕方なかった。


「なんの話してんの? 」


 いつもと同じように話しかけてくれる日比野の優しさが、気を遣わせているようで、今は何よりも心に痛い。時々、日比野のことがよくわからなくなる。あの海のように広い心とおなじくらい、日比野からは海のように深い暗さを感じることがある。日比野はその明るさから何かとクラスでも頼りにされることが多い。人が持つ元気や明るさとは有限であると思っている。誰かが元気になるときは、誰かから元気を分けてもらっているのだ。渡す方は代わりに疲労や暗さを渡されているのだ。日比野はその誰かに渡す元気や明るさを人一倍に持っている。逆に言えば、渡せる元気や明るさがある分、疲れやすいし落ち込みやすいのだ。そんな日比野から時折見え隠れする心の闇が、私はとてつもなく日比野を蝕んでしまっているのではないかと思ってしまう。


 まただ。私はまた人のことをわかった気になっている。この知ったかぶりが、周りの人間を傷つけているというのに。学年で二位の学力を持っていても、人のことを理解できなければ、学力なんて何の意味もない。


「おう日比野。今文化祭の実行委員を決めていたところなんだ。クラスから二人出す決まりになっていてな。仲村がやってくれることは決まっているんだが、あと一人どうしても決まらなくてな。」


 人手が足りないからと日比野を実行委員の仕事に無理やり引っ張って行ったことも、日比野にとって、本当は嫌だったのかもしれないと思ってしまう。いつも明るく接してくれるからといって、当人の中身がいつも明るいとは限らない。私はそんな日比野を蔑ろにして、日々を過ごしていたのだ。日比野は毎日変わらず、明るく接してくれたというのに。


 背中がどんどん曲がっていくのを感じる。先生がクラスで実行委員を募集しているにも関わらず、教室がまるで凍ってしまってしまったかのように止まっている中、ナイフが私に向かって飛んできた。


 仲村が一人でやればいいんじゃないですか。


 落ち込んでいても、嫌な言葉だけはしっかり身体に入ってくる。ミカに放った私の言葉の余波は、一年たった今でもクラスを超えてなお影響を与えている。実行委員の仕事があるからと教室の外でお弁当を食べている状況は、忙しいから仕方ないと言い訳しながら、自分のためにやっていることだった。クラスのどこにも自分の居場所はなかった。お弁当は誰かと食べなければ美味しくない私にとって、居場所がなかった私にとって、三人の存在が、卵焼きを食べてくれる日比野の存在がどれほどありがたい存在だったのか。だからこそ、日比野のことは誰よりも大切にしなければいけなかったのに。


 その大切な居場所さえも、私は自ら捨ててしまったのだ。


 窓際に席の良い所は、落ち込んだ時に外を見て気分を替えられるところだ。しばらくはこうやって時間を潰そう。


 朝の涼しい風が、蝉の鳴き声を運んで教室に流れ込んでくる。残暑に厳しい日差しはいつも教室を明るくするが、今日はなぜかいつもより明るくなった気がした。


「先生、俺やります。」


 日比野の一言が私の身体に入り込んで血管を巡る。血液が体の中で働いているという感覚を初めて覚えた。どんなときでも、私がどんなことをしても日比野は、自分の元気を私に分けてくれる。私の中から、私を苦しめていた物質が身体から抜けていくのを感じる。教室が明るくなったと感じたのは、日比野の茶髪が黄金に輝いていたからだった。


「ありがとう。助かったわ。」


 日比野から貰った数えきれないほどの元気が、私の中で活動して私を動かしている。せめて感謝することで、日比野に少しでも元気を分けてあげたかった。


 日比野は目を丸くして、いつも通りにやけた顔でふざけた。


「俺さ、今ヒーローみたいだけど、これを機に俺のこと好きになったりしないでね。あ、そうだ。」


「・・・。私好きな人がいるから。」


 好きな人がいるから。好きな人。


 そう言って頭の中で浮かんできた人は、煙草を吸い、気にった人に同じ栞を渡し、図書室でキスを貪る現代文教師ではなく。目の前でただただその茶髪と同じように明るく笑う人だった。


「まじ⁉︎ え、誰⁉︎ 」


 そう思ったのは私も同じことだった。落ち着け、これは一種の錯覚だ。意地悪な姉たちに虐げられた毎日から脱却し、助けてくれた人が思ったより良い王子様だっただけの話だ。


「・・・。言わない。」


「まぁ大体わかるけどさ。あ、そうだ。昨日額の木の下でこれ拾ったんだ。落としたとこ見てないけど、多分仲村のでしょ。」


 日比野がポケットから取り出したのは、ミカと同じ和柄の栞だった。私が先生との距離を詰めることができた証であり、私がどれだけ自惚れていたかを突き付ける証拠だ。どんなに嫌がらせを受けても私のことを支えてきたこれは、今となっては見たくもない。これは私への戒めだ。自惚れていた自分を忘れないための戒め。けれど、私に戒めはいらない。


「いらない。」


「え、いいの。だって・・・。」


 ああ、駄目だ。このままじゃまたやってしまう。何も知らない日比野に罪はない。罪深いのはいつだって、同じような罪を重ねようとしている私だ。


「こんなのいらない。こんなの持っていてもなんの意味もないもの。こんな、人の気持ちも理解できないような私なんて、いたって価値がないもの。これがずっと、ずっと私も他の人と同じ人間なんだって教えていてくれたのに。冷凍食品ばかりでも、毎朝起きてお弁当箱に詰めるだけでも大変なことなのに。かっこいい人なんだから、みんなに好かれていることもわかっていたはずなのに。ちょっと馬鹿にされたからってみんなの前で晒し首にしたり、好きだったものが次の瞬間にはごみに思えたり。私には人として大切な部分がないの。こんなやつのことなんかもう放っといて。優しくされてもつらいだけなの。もう全部どうでもいいの。」


 喉が痛かった。喉を掻き毟りながら出た本音は、喉どころか日比野まで傷つけて、教室の空気を切り裂いた。溜めて溜めて、体の中で淀んでいた本音すら空気の読めないものだったことに眩暈がする。


 え、なんなの。急にどうしたの。日比野君さっき仲村さんのこと助けてくれたのにね。仲村って勉強はできるけどって感じだよね。だよねだよね。これだから勉強だけしてきたやつは。この間一年生の子に石投げったって話聞いたよ。あ、それ俺も聞いた。その子、一組の子の彼氏らしいよ。うわー、さいてー。


 人の気持ちがわからないあんたには無理なのよ。先生が他の女の子とキスしていたのが嫌だったんだよな。


 辛くても、辛くてぼろぼろでも嫌な言葉はしっかり身体に入ってくる。


「いいから、ほら。」


「だからいらないってば。」


 叫ぶ私の手は、日比野の手から栞を奪って地面にたたきつけた。


「きっと、わかるからだろ。」


「・・・なにが。」


「仲村は賢いからな。俺じゃ到底わかんねーことも、わかる人よりわかるすぎるんだろ。だから人には理解できないことを理解してるってことは、他の人には理解されないってことだから。それに・・・。」


 溢れて止まらなかった涙を、日比野のハンカチが拭う。日比野は普段、私の神経を逆撫でするほど茶化してくるというのに、励ますこともできればハンカチも持っている。


「想い出まで憎まなくていい。」


 体の中にぽっかり空いた虚空が、音を立てて埋まってゆく。それは、どこかで待ち望んでいたような言葉だった気がした。小さい頃から言いたいことははっきり言うのにどこか引っ込み思案だった。ブレーキを踏まずに出した言葉は相手だけではなく、自分さえも傷つけてきた。こんなどうしようもない私すら、日比野は肯定してくれるのだ。


 泣きじゃくる私に、今度はハンカチをそっと手渡した。日比野の手に触れた私の右手が少し温かくなる。さすがに今度は騙されないぞと思う私だったが、身体のどこかでかちっと何かがはまる音がした瞬間、今度は手だけではなく、全身の温度が少し上がった。


 教室が明るくなった。身体の中でカチッとはまる音がした。


 中学の頃、人を好きになった瞬間はね、世界が少し明るくなるんだよ、と七瀬和希に言われた。違うよ、体のどこかで音が鳴るんだよ、と宮崎響香に言われた。


 シンデレラの靴は、魔法が解けても消えない。


 あ。私、やばいかも。

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