零時、ただし正午(9)

 毎日のように図書館に通い詰めていると、いつも同じ場所で同じ人とすれ違っていることに気付いた。私がそう思っているということは、相手にも同じように思われていることになるが、おそらくそれはない。変化していくことが日常である学校生活において、日常は愚か変化すら気に留める物はいない。週ごとで変わってゆく髪型、虐めの対象を替えることで確かめる学校内での階級。私にとっては人類滅亡級の変化ですら、彼女たちにとっては日常なのだ。私は変化に弱い。いつも同じものに安心感を得ている。私のお弁当を美味しいと言ってくれる親友、いつも同じ場所でパソコンを打つ先生。先生からもらった栞。だから私は、今日も図書館に向かって駆ける。


 ミカは、私を教室から追い出すだけでは満足しなかった。私物は自然になくなり、誰もが口を揃えて行方を知らないと言った。ミカは教室から私の居場所を奪うだけだはなく、与えることもあった。居心地の悪い居場所を与えることで、より私を奈落に突き堕とすのだ。それからミカは堂々と嫌がらせをするようになった。気に入らないものは人を使って静かに、それでも圧倒的に排除し、気に入るものは絶対に手元から離さなかった。他のクラスの人に水をかけたという話も聞いた。ミカが周りのものを排除しようとすればするほど、周りに物は捨てられないよう、奴隷のように足頸を差し出した。



 そもそもミカを敵に回して、ミカだけが敵に回るわけがなかった。ミカを敵に回すということは教室一つが敵に回るということだ。ミカは私を虐めることで、周りの者はそれを見届けることで自分の立場を守っていた。自分が高みに登るわけではなく、周りを下げることで自分が高みにいると錯覚する。そうやって正しくない自己肯定感を得ることで自我を保つのだ。それに気づいた私は、すぐにその状況を受け入れることができた。


 お弁当は響香と和希と食べることができればそれでいい。そう思って教室を出ることができたが、二人にもそれぞれの教室があった。私が教室出られなかったうちに、二人にも居場所ができてしまっていた。二人が私から離れたわけじゃない。二人はいつもと変わらずLINEをくれ、私を親友を言ってくれたが、以前にはなかった溝ができたような気がした。みんなが美味しいと言ってくれた卵焼きは、ついに一人分になってしまった。


 私が先生を好きになったのは、そんな一人真っ只中のときだった。お昼を食べる場所も共に食べる人も失くした私は、心静かにお昼を過すために学校中を転々とした。人が多すぎる食堂、誰もいない選択教室、グラウンドの隅に一つだけ置かれたベンチ。しかし、どれもしっくり来ず、学校には煩わしい所と薄寂しい所しかないことに気付かされただけだった。


 そうして行き着いたのが、あの木の下だった。


 独りでいることに耐え兼ね、落涙しながらお昼を過ごす私のもとに颯爽と現れたのが先生だったのだ。「教師」として君を見過ごすわけにはいかない、と先生は言った。しかし、私は頑として首を縦に振らなかった。話さなかったのではなく、話せなかった。それは私が抱え込める重さではなかった。私の肩にのしかかるそれは、高校生にとっては勉強と同じくらい身近ではあるが、あまりにも冷たいのだ。それは、大人が一言に「青春」と片付けるものだ。大人に悩みを話すと、すぐこの言葉が出てくる。同じことで悩んだとか、あの時は若かったなとか、そんなことばかりだ。そしてこうも続ける。大人になればそんなことで悩まなくなる、大人になればそんなくだらないことで悩む暇などない、と。大人も、私たちと同じ高校生であったはずなのに、同じことで悩んでいたはずなのに、大人になると途端にくだらなくなってしまうのだ。しかし、青春に価値がなくなってしまったではない。成長するにつれ、様々なことを経験し、「青春」の価値が薄れていくのだ。いや、二度と戻らないと憂い、くだらないと卑下することで大人の価値を上げているのだ。大人がくだらないと思っているもの、それこそが「青春」なのだ。


 だんまりを決め込む私に、先生は何も語らなかった。黙って私の隣に座り、黙って栞を手渡し、こう呟いた。栞はただ単に本のページを示すものではない。自分が今、どこにいるかを教えてくれる道標なのだ。本を読み進める感覚はとても素晴らしい。逆に進まないときはとても不快だ。栞はそれを教えてくれるツールなのだ。これを君にあげよう。君はもうこれで大丈夫だ。不安に思うことはない。栞が正常なのか異常があるか教えてくれる。そして落ち着くことができたら、またここに来るといい。悩み事とはなんでも知り合った親友に言うより、縁も所縁もない他人に話す方が話しやすいものだよ。


 先生は優しく私の手に触れ、そっと栞を手渡した。


 私はその時誓った。鎖を結ばせるクラスメイトよりも、私の悲痛な叫びを青春の一言で片づける大人よりも、この人を信じて生きていこうと。この人を大人の基準として生きていこうと。髪型、人間関係、季節、学年。確かなものなど存在しないこの学校で、先生は私に栞と先生を想うこの気持ちという確かなものをくれた。この人を好きでいれば何も問題ないと思わせてくれた。先生は私にとって紛れもなく希望なのだ。


 鉄でできた図書館のドアの取っ手は、夏の厳しい日差しに当てられて、灼熱を帯びていた。急に立ち止まった私の首筋から、大粒の汗が噴き出す。日差しと相まって、制服の中が蒸せ返る。


 響香のように、身体のどこかから音が鳴ったわけじゃない。和希のように、世界が明るくなったわけじゃない。人の気持ちはいつまで経っても知る由もないし、仲の良い人ほど、気付つけることを言ってしまう。人として何か大切なものが欠けていたとしても、先生が栞を渡してくれたあの瞬間が、私の内側で燃えるこれが、紛れもなく私の恋なのだ。


 取っ手を触った瞬間、右手が焦げ付く感覚が走る。それでも構わず右手に力を入れてドアを押すと、図書館から流れ出てくる冷気が私の体温を奪ってゆく。


 私の腕に鳥肌が立ったのは、図書館から流れてきた冷気が、この猛暑の中を先生に会うために走ってきた私にとってはあまりにも冷たかったからだと思いたかった。

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