九. 食卓
「シーナ、目玉焼き作る!」
紫以菜は、意気揚々と冷蔵庫から卵を取り出して、フライパンも用意し出しましたが、わたくしとしては見ていられません。
「いけませんわ。火は使ったことおあり?」
「当たり前じゃん! もう十二歳だよ。調理実習もやったことあるし、たまに家でもするもん」
「でも、なにかあったら大変です。わたくしは責任とれません」
「なんだよ、せきにんとか。そんな言葉持ち出さないでよ〜」
朝の食卓はひと悶着。
わたくしは、昨晩の寝際に紫以菜がなにを言いたかったのか、どうも気にかかっていますが、紫以菜のほうは、特になにごともなかったかのように、こうして目玉焼きを作ろうとしています。
しかし、卵を割るにもひと苦労しているようです。紫以菜の小さな手は卵一つ持つのでいっぱいになり、とてもではないですが、繊細な動きはできそうに見えません。
どきどきしながら見ていると、なんとかシンクの縁で割ることはできたようです。
「ほらね」
と得意げな顔。そして、そろそろとガス台の前の踏み台に移動して、
「今度は……フライパンに、落とすよ……」
わたくしとしては、その姿を愛でたい気持ちもありますが、内心、どきどきと責任感で複雑です。
無事、目玉焼きはできましたが、案の定、形はぐちゃぐちゃ。それに、トーストと冷蔵庫にあった野菜で軽くサラダを作って、朝の食卓は完成です。
「いただきます!」
わたくしたちは、パチン、と手を合わせました。
「笙子は目玉焼きにはなに派?」
紫以菜が早速口を開きます。
「なに派と申しますと?」
「だから、なにをかけるのかってこと。醤油かソースか、はたまたそれ以外か」
「醤油? ソース? なにを言ってますの。そんなの塩しかないではありませんか?」
「へ?」
紫以菜は、ぽかんとした表情で、わたくしを見ました。
「目玉焼きには塩。このサラダにも塩。ハンバーグだって豚カツだって」
「え……それはそれで、なんか、かっこいいけど……」
「どの方もそうしてるのかと思っていましたわ」
わたくしがそう言うと、紫以菜は黙ってしまったかと思ったら、
「……ふふ」
改まったようにして、笑います。わたくしは「なに? なにか文句がおあり?」というふうに目配せしました。
「なんか変なの。笙子と二人だけで朝ご飯なんて」
「それもそうですわね。初めてのことですわ」
紫以菜は、にたにた笑っています。
「昨日は、わたくしがにやにやしているのを見て、変なのって言っていたくせに」
紫以菜はまた、にたっと笑うだけです。
二人とも食べ終わったあたりで、パラパラと、雨が屋根を打つ音が聞こえてきました。食卓にも急に影が差してきます。十二月の雨。少しだけ開けた窓からは、冷気が忍び込むように入ってきます。
「雨だね〜」紫以菜が食器を片付けながら言いました。「笙子はこのあとどうするの?」
「今日は大学で午後からゼミですわ」
「あの二人も一緒?」
「千草とあかりでしょうか。そうですわ」
「ふ〜ん。雨だけど行くの?」
「もちろんです。大学は雨では休みにはなりません。野球じゃないのですから」
「な〜んだ。じゃあ、昼まではうちにいるんだね」
「そうですわね。お父さまはいつお戻りになるのでしたっけ?」
「お昼ごろとは言ってた」
「では、それまではこちらにいようかしら」
「やったー」
両手を挙げて喜ぶ紫以菜。
「なにして遊ぼっか?」
朝食の洗い物を済ませてからは、しばらくは紫以菜と一緒になってテレビゲームをしていましたが、わたくしの膝の上で、抱っこされながらコントローラーを操作していた紫以菜は、いつの間にか寝ていたようです。
「紫以菜〜」
起こさない程度に頬をつんつんすると、弾力のある小さなほっぺがぷにぷにと動きます。低い鼻を同じようにつんつんしてみても、起きる様子はありません。面白くなって、おでこや顎も触ってみますが、反応はありません。
こうして、まるで玩具のようの遊んでみると、こちらまで心地よくなってきて、寝てしまいそうです。
紫以菜の閉じられたまぶたに乗る睫毛は涼しげで、無造作に下ろされたロングの黒髪も艶かしい。軽く開かれた口にも触れてみたい。そしてなによりも、わたくしの体に紫以菜の全体重が乗っていることで、心の底が温まるような気持ちになってきます。
紫以菜の体温を感じながら座っていると、どうやら、わたくしもほんとうに微睡んでいたようでした。
わたくしたちの眠りは、お父さまの帰宅を告げるチャイムの音で覚まされました。
キンコーン
鋭い音に、紫以菜は条件反射のように目を覚まします。
「お父さん!」体を起こしてから、わたくしの顔を見て「……あれ、笙子がいる? そっか、笙子と一緒に遊んでたんだ!」
そう言って、玄関に走っていきました。わたくしもあとを付いていきます。
「紫以菜、ただいま。笙子ちゃんも、昨日今日、ほんとにありがとね。助かったよ」
お父さまは、うんとこしょ、と重そうなキャリーケースを三和土から上げました。
「とんでもございませんわ。無事終えられて、よかったです。それに楽しかったですし」
「そうかい。それならいいのだが。紫以菜もいい子にしてたかい?」
「うん!」
ぴょん、とジャンプして言う紫以菜。
「いい子でしたわ。朝食も作ってくれたのですよ」
「それはすごい。どうせ目玉焼きかなにかだろうけど」
お父さまに図星を当てられた紫以菜は苦笑い。
「美味しかったですわ」
「笙子はね、目玉焼きには塩をかけるんだって」
「塩?」
「うん。可笑しいよね」
「はは。そうかいそうかい」
親子らしい会話を微笑ましく見ていましたが、ふと気づいて腕時計を見ると、十二時前でした。
「いけませんわ。もうそろそろ大学に行かなくては」
「なんだい。うちでご飯食べていけばいいのに。そう思って買い物もしてきたんだ」
お父さまの手には、スーパーの買い物袋が提げられていました。
「せっかくですが、今から行けばぎりぎり間に合うくらいなのです。申しわけありません」
詫びてから、急いで身支度を整えました。
「笙子行っちゃうの〜?」紫以菜は口を窄めて言います。「じゃあ、今度いつ会えるの〜?」
「こら。笙子ちゃんは忙しいんだから。子供にかまってる暇は、そう多くはないんだよ」
お父さまが諫めました。
「じゃあ、クリスマス! クリスマスはどう?」
「だからなにを言ってるんだ。ばか。クリスマスは笙子ちゃんは予定があるんだ。ねえ?」
とお父さまは言いますが、それはむしろ無神経な気もします。わたくしは苦笑い。
「笙子、そうなの? 予定あるの?」
紫以菜は、子犬が物をねだるときのような目をしています。
「いえ、あるというか、なんというか、クリスマスは毎年家族でパーティーをするんですの」
「そっか……。クリスマスは家族と過ごすもんだもんね……」
それこそ、捨てられた子犬のような目で言いました。
「では、紫以菜もいらしたらよろしいのでは? そう、お父さまも!」
「いやいやいやいやいや。われわれ庶民が月崎家のパ、パーティーになんて行っていいわけがないじゃないか」
「よろしいのですよ。パーティーといっても、参加するのは、家族と、数名の親戚と、お手伝いの者だけですわ。簡単な食事会ですわ。あ、それとも、須磨家ではなにかやる予定でした? 失礼いたしました!」
「いやいや、うちは特になにもしてないんだ。だからいいんだけど、それにしても、そんな……僕は遠慮しとくよ」
「じゃあ、シーナが一人で行くよ! その日から学校も休みだし」
「ばか!」
「よろしいのです。わたくしの家族も紫以菜ちゃんのことが大好きですし、みんな歓迎しますわ」
渋るお父さまと行きたがる紫以菜の板挟みになったわたくしですが、そもそもわたくしが誘ったことですし、二対一ということで、不利になったお父さまが折れるかたちとなりました。わたくしも、気づいたらむきになっていたようです。
「仕方ないな。じゃあ、頼んだよ。紫以菜も笙子ちゃんに迷惑かけるんじゃないぞ」
お父さまは、諦め気味に言いましたが、どこかあっさりしたところもあるようでした。もしかしたら、冬休み中の面倒を見る日が一日減ったことに安堵していたのかもしれません。
「いけない! では、わたくしはもう行きますわね!」
わたくしは、駆け足で紫以菜のお宅をあとにしました。
「いってら〜笙子〜。楽しみにしてるよ〜」
振り返ると、紫以菜が玄関先で、笑顔で手を振っていました。
ほんとうは午後一時からのゼミミーティングの前に食事ができればよかったのですが、膝の上に座った紫以菜に見惚れて、微睡んでいるうちに、時間が過ぎてしまいました。紫以菜のお父さまと話していた時間もあって、ゼミ室に着いたのは開始時間ぎりぎりでした。
ですので、ミーティングが終わった午後二時半ごろには、わたくしの気力も体力もガス欠寸前。なにかをお腹に入れたいけれど、学食という気分でもないし……。人のまばらなゼミ室で考えていると、
ぐぅ〜
わたくしの腹時計が鳴りました。
隣にいたあかりが笑っています。
「そうだ。西門前にできた新しいカフェに行かない?」
「そこって、フードメニューはあるのかしら?」
わたくしは反射的に聞いてしまいました。
「ありますわ。ご一緒しませんこと?」
「しますわ!」
「千草も行く?」と聞くあかり。
千草はわたくしのすぐうしろにいました。
「ごめん! 今日、これから家帰って、夕食の手伝いしなきゃいけないんだ。今晩親戚が来るから」
千草は両掌を合わせて言います。
「そっか。了解〜。じゃあ、二人で行こっか」
大学の西門前は、このあたりの住宅街の入り口のような所で、どちらかというと裏手に当たる場所です。昔からある住宅街なのですが、落ち着いた雰囲気がいいのか、最近になって、女子大生向けの洒落たお店が増えてきて、賑わってきました。わたくしとあかりが向かっているカフェもその一つです。
それはカフェというにはレトロすぎる、レトロというには古い趣きに欠ける、いわゆる「隠れ家」的な雰囲気のある、「喫茶店」という言葉がしっくりくるお店でした。半地下になっていて、薄暗い雰囲気が興味をそそります。入り口の上には〈鳩とそら豆〉と書かれた木の板がぶら下がっています。
「なるほどね〜」
席に着いて、あかりが店内の設えを眺めて、感心しています。木の雰囲気のある内装で、窓辺には動物ものの木彫が置かれ、天井からも、その手のファンシーな飾り物がぶら下がっています。
「フードメニューはカレーがメインみたいですわね。わたくしはじゃあ、バターチキンにしますわ。あかりはコーヒー?」
「うん。カフェラテ」
注文を済ませてから、わたくしは、
「実はこのあいだ、夢を見ましたの」
と話を出しました。喫茶店で思い出したのかもしれません。
「ほう、どんな?」
「志良山さんと、こんな感じの喫茶店に来ていました」
「ほう」
「お部屋で掃除をしていたら、チャイムが鳴ったので出ると、志良山さんだったのです。それで、妙な喫茶店に案内されたのです」
「妙な喫茶店?」
「ちょうど、こんな感じのレトロな喫茶店ですわ。そこで、ナポリタンという名の、奇妙なうどんのような物を食べましたの。なんだか、太い麺に、トマトソースが絡まった物でした」
「美味しかった?」
「まあまあでしたわ。それは、志良山さんが薦めた物でしたの。ここに来たらこれだ、と」
「夢で味がわかるなんて珍しいね。笙子は感覚が敏感なんだ」
「そうなのでしょうか。まあ、とにかく、そのような物を食べたのです」
「なんなんだろうね、それ。気になるな」
「ええ。わたくしにもわかりませんわ。夢ですもの」
「ナポリタンか……」
あかりは、考え込んでいます。ほんとうになんだったのでしょう。
「いえ、お話ししたいのは、このようなお話ではありません」
「そっか。ごめんごめん。夢に志良山氏が出てきたんだね」
「はい。お屋敷に突然現れて、このような感じのお店に入ったのです」
「うん」
あかりは、お水をひと口飲みました。
「それを食べていたら、席の向かいに男の子がいたんです。五歳か六歳くらいの小さな男の子でした」
「うん」
「それで、それが、なぜか自分と志良山さんの子供だとわかったのですよ」
「へー。知らない子でしょ? それが自分の子だと思ったんだ? 不思議だね」
「ええ。それで、その子と志良山さんが遊んでいる光景を眺めていたら、ああ、家族ってこういうことなのかもなあ、としみじみ思ったのです」
「家族ね……もしかして、それで、こないだ『家族とは』みたいなこと言ったの?」
「そうかもしれませんわね」
「それってどんな気分だった?」
「そのときは、なんだか不安でしたわ。心地よさよりは、喪失感みたいなものを思いました」
「喪失感? 自分の子供でしょ?」
「そうですが。なんだか、間違いのようで」
「間違い。……なるほど。あんまりいい夢じゃないね。おめでたい夢なのかと思ったけど。子供は可愛かった?」
「あまり覚えていません。可愛いわけでも醜いわけでもありません。ただ、そこにいる存在でしかありませんでしたから」
「まあ、夢の中のひとって、そんなもんだよね」
「ただ、そういう夢を見た、というだけの話なのですがね」
「うーん、その夢って、どういう意味なんだろうね」
「わかりませんわ。でも、なぜか気になるのです」
「そりゃ気になるでしょ。志良山氏との子供でしょ?」
「ええ。でも、それだけの話です」
そこで、わたくしたちの食事とコーヒーが運ばれてきました。カレーは、丸く盛られたサフランライスに、カレーポットが別になっているものでした。スパイスのつんとした香りと、まろやかでミルキーな香りが鼻を刺します。
「美味しそうじゃん」
わたくしが「食べますか?」と聞くと、あかりは首を横に振ります。この光景は前にも見たような……。
「実は、今朝は紫以菜のお宅に行っていたのです」
わたくしは話題を変えました。
「へー。朝からなんて珍しいじゃん」
「朝からといいますか、昨晩から一緒にいたのですが」
「じゃあ、お泊まりってこと?」
「そうですわね」
わたくしは、紫以菜のお宅で二人でお留守番という名の、お泊まり会をしたことの次第を話しました。
「最近特に仲いいよね」
あかりがカフェラテをフーフーしながら言います。
「なんだか毎週のように一緒にいる気がしますわ」
「わたしたちより頻繁なんじゃない?」
「そうかもしれませんわね」
「やだ、冗談だよ」
あかりは苦笑いしています。
「あかりは子供は欲しいですか?」
わたくしは、ふと思い立って聞きました。
「ふぇっ!?」
あかりは素っ頓狂な声を上げました。慌てて、持っていたコーヒーカップをテーブルに置きます。
「すみません! 突然で驚きました?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……ごめんごめん。なんでもないんだ」
お手拭きで口元を拭いています。
「大丈夫ですか?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。子供ね。うん」
「ナイーブな話題でしたでしょうか?」
「ううん。わたしはね……」
あかりはそこまで言って、カフェラテをひと口飲んでから、なにも聞かれなかったとでもいうように、黙り込んでしまいました。
「そうそう。あかりはクリスマスは予定はおあり?」
「えっ!?」
また素っ頓狂な声を上げました。
「失礼しました! これもナイーブな話題でしたか?」
「ううん、そんなことはない。クリスマスの予定ね。まあ……あるよ」
「ほう。それは、やはり……」
「まあ、皆まで聞くな」
あかりは、冗談ぽく言いましたが、なんとなく、それ以上踏み込む気にはなれなかったので、話題はそこで終わりました。
それからは、今年は例年より早く雪が降りそうだという話や、年末のバーゲンの話など、他愛もない話に終始し、店を出ました。
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