三. 千草とあかり
敷地南西にある六畳のお茶室は、南側が開け放たれていて、目の前には、露地と手水鉢、鹿威しが見えます。
飛び石は追いかけっこする金魚のようで、手水鉢を垂れる水の音は、それが跳ねるときの音のように聞こえ、涼しげです。長引く残暑の気だるい暑さも少しは和らぐようです。
日曜の午後のお茶のお稽古を終えたわたくしたちは、先生の去ったこのお茶室で、ささやかな涼をとっていました。
ここにいるのは、わたくしと千草とあかりの三人。共に大学の同じゼミの同期です。
ただ三人で庭を眺めながら、こうして寛いでいるだけ。日々のあれこれを話しながら、仲間と過ごすひとときは、数少ないゆとりの時間なのです。
「あーあ、あたし、まだ正座は慣れないよ」
千草が両足を伸ばして、バタンとうしろに倒れて言いました。
わたくしは十五歳のときにこのお稽古を始めましたが、千草とあかりを誘って、三人で始めたのは三ヶ月前です。
「あかりは大丈夫そうですわね?」
「うん、わたしは子供ころから、なにかと正座させられてたから」
「怒られて?」
千草が言いました。
「違うよ。育ちがいいの」
「あっそう」
間が空いて、鹿威しが、トン、と一つ鳴りました。
「でさ。笙子の結婚相手ってどんな人なの?」
千草が言いました。ぎくり。
「どうって、特に特徴はありませんが……」
「だれに似てるとか、そういうのは?」とあかり。
「そうですわね……小池慎太郎とか?」
わたくしが、イケメンで人気な二世政治家の名を出すと、
「いいじゃん! 羨ましいじゃん!」
千草が嬌声を上げました。
「羨ましいじゃん〜」
あかりも真似します。
「そうですかね。でも、わたくしにはよくわかりませんの。イケメンがなんなのか、結婚したからって、だからなんなのでしょう、って話でして」
「贅沢だわ」と千草。
「でも結婚となると、顔じゃないよね」とあかり。
「いや、でもさ、顔のいい男の人と結婚してるだけでも自慢になるっしょ」千草は反論します。「でも、笙子、そういうのほんとにわからないの?」
「わかるというか、なんというか……そういうところに惹かれたことはありませんわ」
「じゃあ、どいうところに惹かれるのさ? 性格? それとも、笙子の家のことだから、家柄とか?」
千草に聞かれて、わたくしは、さらに考え込んでしまいました。
男のひとのどこに惹かれるのか。男のひとの魅力。顔? 肉体? 優しさ? 頼りになること……?
考えますが、わたくしは、用意していた答えを返すだけです。
「性格、ですかね」
また鹿威しが、トン、と鳴りました。
「まあね。でもさ、そもそも性格っていい方どうなのよ。性格っていうのは、怒りっぽいとか女々しいとか楽天的とか、そういう性質? をいうもんでしょ? 実際のとこ、彼のそういう『性質』に惹かれるってあるわけ? 彼の大人しいところが好きです、みたく」
千草が捲し立てます。
「あるわよ。『優しい』とかよくいうじゃん。そういうことじゃないの?」とあかり。
「優しいのが好き、か。まあ、確かにそれは性格ね。でも優しいひとならどこにでもいるでしょ?『そのひと』じゃないとだめっていうのだったら、顔が好きって言うほうがまともじゃない?」
「どうしてよ?」
「だってさ、顔って、そのひとだけのものでしょ? そのひとにしかない顔をそれぞれ持っているわけだから」
「顔はそのひとの唯一の魅力ってわけ?」あかりが聞きます。
「うん。大人しいひとも、男らしいひとも、繊細なひとも、それはある意味、既製の『ファッション』みたいなもんじゃない?」
「ファッション?」
「既製品、大量生産品の服とかアクセサリーみたいな」
「うーん。性格はカテゴリーだけど、顔はそのひとにしかないってことか」
あかりが言いました。
わたくしは釈然としないところはありますが、どこに疑問なのか、自分ではよくわからず、黙っていました。
「フィーリングが合う合わないを『性格』ってみんな言ってない? フィーリングでいいじゃん。そう言うのを恥ずかしがってるのよ。グッド・バイブレーションがきた! って言えばいいじゃない」
千草は止まりません。それを聞いてあかりは、
「グッド・バイブレーションねえ。わたしのグッド、バイブレーション。グッド……バイブレーション……」
と一人でぶつぶつ言っています。
「じゃあ、笙子はその彼のどこがいいのさ? その性格とやらで言うと」
千草が聞きました。
「わたくしは……」
また鹿威しが鳴りました。トン。二人がわたくしの顔を覗き込むように見ています。
「誠実なところ、ですかね」
また、用意していた言葉です。そう発した瞬間、背徳感とも罪悪感ともつかない、微妙な感覚に陥りました。うそを言っているわけではありませんが、まるで、選択式のテストで、正解があるとは思えない選択肢の中から一つを選ぶときのような気持ちです。
「笙子は大人よね。誠実なのがいいだなんて」と千草。
「大人……」とあかり。
「それは大人ですわ」わたくしは言いました。
「じゃあ、大人ならさ、恋はもう終わった! ってわけ?」
「恋ですか!?」わたくしは千草の容赦ない攻めに驚いてしまいました。「どうしてそのような話に?」
「恋はもういいから、大人の付き合いで、誠実なひとと結婚する。恋愛は置いといて。それでいいじゃないか。笙子はそう思ってるのかな、って思ってさ」
「そういうわけでも、ありませんが……」
「そうなの? でも、笙子のそういう話、あたし聞いたことない。あたしたち仲良くなって一年ちょいだっけ?」
千草は妙に突っかかってきます。
「そうですわね。三年生になって同じゼミに入ってからですから」正確には、一年と五ヶ月です。「でも、恋なんて、わたくし、わかりませんわ。なにがどうなったら『恋をしている』ということになるのですか?」
「おおっ、そうきたか」
千草が前のめりになって言いました。
「うーん、わたしもそれ、よくわかんない」
あかりが言います。それを聞いて、千草は、
「え……?」
と、なぜかぎくりとしたようでした。
「あるわよ。あるけど、なにがどうなったら恋なのか、よくわかんないな、と思って」
あかりは、取り繕うように言いました。
「そんなこと言われたら……あたしだって、うまく言えないけど……近くにいるだけでどきどきしたり、手に触れてみたいと思ったり、ちゅ、ちゅー、したい、とか」
「ちゅー、か……。まあ、それは思うけどね」
とあかり。千草はそれを聞いて、少し安心したようでした。
「うんうん、そうそう」千草は自分に言い聞かせるように言います。「でもさ、恋って、ほんとうはそうやって定義できないもんでしょ? 恋がなにかわかった上で、恋するものでもないじゃん?」
「はあ……」とあかり。
わたくしも、いまいちぴんときません。
千草は続けます。
「泳ぎ方をわかっていたところで、海に入って泳がないことには、実際に泳げないわけだから。海に飛び込むのよ。それがいいじゃん!」
「ほう。海に……飛び込む……むう」
あかりは千草のいいかげんなワードにやけに食いつきます。
「変なこと言ったけど、だから、単純にこのひととずっと一緒にいたいとか、一緒に暮らしたいとか、このひとといるとしあわせだな、とか。平凡な例えだけど」
「そうね。それはもちろんそうだ」とあかり。
「まあ、一緒には、いたいかな」
わたくしがと言うと、
「志良山さんと?」
あかりにそう聞かれて、そのときなぜか、わたくしの頭には、志良山さんではなく紫以菜の顔が浮かびました。紫以菜とずっと一緒に?
「え、ええ」
また誤魔化すように言いました。
「いいじゃん! それって恋じゃん!」
千草が叫びます。
「そんないいかげんなこと言わないでください」
わたくしはむきになりましたが、二人は意味深に笑っています。鹿威しが、トン。
「いいわね。笙子は恋してるのね」とあかり。
「恋じゃん!」と千草。
わたくしは恋をしているのでしょうか?
「恋ですか。そんな単純なものでしょうか」
「だから単純なんだって。笙子は難しく考えすぎ」と千草。
「ではお二人はどうなのです? 恋はしてらっしゃる?」
わたくしの問いに、二人は目を見合わせてから、すぐに逸らしました。
「わたしは……まあ、したことはある、かな」とあかり。
「あたしも……一応ね」と千草。
鹿威しが、トン。
「お二人だって、ご自分のことになると、そうやってしどろもどろになるではないですか」
「うるさいわね」千草が口を尖らせます。
あかりを見ると、頬を赤らめていました。
「では、先ほどからの話はご自分の経験から、ということでよろしいかしら?」
「うん、まあ……そうだよ」と千草。
「左様ですか」
「でもほんとに、こういう話ってしたことなかったよね。今度からもっとしていこうよ」
あかりが言うと、千草は俯いてうなじを掻いていました。
「ええ。よろしいのではないでしょうか」
「うん。笙子のこれからのしあわせな結婚を祝福して!」あかりはそう言って、「かんぱーい」と、右手を挙げて乾杯の仕草をしました。
わたくしと千草も、右手を挙げてそれに応えました。
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