第625話 「切り花」になる前に
「変な夢見てね」
「ん?どんな?」
「『切り花』とソロモン」
「何だろう?」
・・・
福音書の謎を掘り下げた。
「野のユリ」と「切り花」の比較だ。
マタイ 6:28-30
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
聖句は多重の意味を含む。
「これ一つ」と絞れない。
しかし、夢から得た教えは、
→ 世の神と契約しない事
※ 例え無意識でも、脳の器に満たすものによって、人は受け入れ体制が生じてしまう。
つまり、聖句から汲めるのは、「ソロモンの神」と「創造主」との対比である。
1.創造主→ 野生のユリ
2.世の神→ 切り花
ソロモンは、世の神と「切り花の契約」を結んだようなもの。
切り花は
→ 葬式に飾る「花輪」
「死を受け入れます」という意思表示でもある。
楽園での宣告は?
「あなたは土だから土に帰る」
(寿命の発生)
人は、「花輪」でその言葉を確認している。
■この世で楽しく生きろ
ソロモンは、多くの知恵を発したが、源流は?
→ 「世」の知恵
イエスのように…「命の道」に踏み込めない。
伝道者の書3:11(現実論)
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
いわば「切り花への認識」。
仏教も「諦め」を解いている。
現代キリスト教も「復活」を強調するが、他方で「墓の前の主」を認める。
無意識だが、仏教の「輪廻」に踏み込んでいるのだ。
これは、人の人生を他人の道に繋ごうとする態度である。
「墓の前」に出現した主は、墓に入る前の記憶を持つとして描かれている。
しかし、この言葉を思い出そう。
「耳のある者は聞きなさい」
イエスが強調していたのは?
→ 「耳が無い者」(魚)も
イエスの話を聞いている。
それでイエスの宣教は、
→ 鬼が知恵を仕込むチャンス
(模倣の手段)
一枚目イエスは、そんな状況を現代に教えていた。
「偽者がしっかり学んでいる」
(擬態に注意せよ)
二枚目の枝道に入った弟子は、「他人となって生きる輪廻の教え」を無意識に受け入れてしまう。
(違和感を散らされる)
※ 他人になってしまえば、今の友人関係も家族とのつながりも虚しく捨てなければならない。
そんな考えを受け入れると、人の態度はこうなる。
「この世しか無い」
「この世を楽しめ」
※ 道を外れても発覚さえしなければ構わぬ…という輩も発生するだろう。
その態度は、人類が持つ「創造力」への逆風となる。
■復活の未来を消す風
一枚目のイエスが告げたのは、明らかに「同一人物」として復活する話。
→ 記憶の再開
それを思い描けばこそ、未来が構築されるのだ。
ところが最近、キリスト教関係者でさえ「輪廻」に言及するほど混乱を来たしている。
他人となって生きて、何の意味があるだろう?
まるで、ユリの花がチューリップに変わるような激変。
更に「進化論」では、「別の生命体に変じる」とさえ子供に教えている。
こうして鬼に散らされた人類の脳は、イエスが教える未来へ、まっすぐに歩めなくされている。
しっかり思い出そう。
人類の未来は、人類の「想像力」で築かれる。
ユリの花は、ユリの「まま」であり、人も顔貌や記憶が飛んでしまうなどと考えるべきではない。
冷水を浴びせるような、それらの教えは「本物イエス」から出ていない。
鬼が、支配の都合で編み出し、吹かせている風である。
→ 散らす風
一枚目を信じなければ「未来創造」も生じないから羊の思考回路はバラバラにされてしまうのだ。
我々の脳裏に、「未来」をしっかり描こう。
切り花にされる前に、種を実らせよう。
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