6.誰だそんな言葉を持ち込んだのは
ベッドの端に座ったわたしは、柔らかな薄掛けに包まれて眠る子どもの頬をそっと撫でた。
ここはわたしの家。
回復師としての任務も終わり、あの衰弱していた子どもを連れ帰ってきたのだけど……名前を聞く間もなく、この子は眠り込んでしまった。
とりあえず体を拭いてシャツだけを着せ、本当は食事や水分も摂らせたかったけれど、どれも
彼。
そう、この子どもは男の子だったのだ。この子を連れて帰ると『クオーツ』の面々に伝えた時の事を思い返して、わたしは小さく息をついた。
* * *
「奴隷を連れ帰るなんて正気か!?」
ライノが目を見開いて声を張り上げる。その喧しさに、タパスさんが抱える子どもが肩を跳ねさせる。
「うるさいなぁ。奴隷ったって、この子がどんな理由でそうなったかなんて分からないでしょ」
「分からなくても奴隷は奴隷だろ」
「そういうの嫌いなんだけど」
「うっ……アヤオに嫌いって言われた」
「嫌い。だいっきらい!」
ライノが胸を抑えて踞るけれど、わたしはもう苛々していた。両手を腰に当てて、怒りに酷い顔をしていたと思う。
「わたしの居た国では奴隷はいなかったし、奴隷に対する変な気持ちだってない。わたしはこの子を放っておけない」
「まぁまぁアヤオ、ライノもお前を心配しているんだ。それは分かってやってくれ」
「メイナードさん……。でも、あの言い方はないでしょう?」
「そうだな。ライノ、謝った方がいい」
苦笑いするメイナードさんが優しく言葉を紡いでくる。その声色に、ささくれだっていた気持ちが少しずつ落ち着いていくようで、わたしは腰に当てていた手を下ろした。
ライノは涙目になりながら、その場に正座で座り直す。石畳の上だからきっと足が痛いだろう。
「……悪かったよ、言い過ぎた。アヤオも、そこの子どもにも悪いこと言った」
「分かってくれたらいいよ」
ちらりと子どもを見るけれど、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「アヤオはこういう男の子が好きだったのね」
「男の子?」
「気付いてなかったの? この子、男よ」
「いや、分かんないよね」
これだけ痩せこけていて衰弱していたら、男女の区別もつかなくない?
わたしの気持ちを読んだように、シャーリーさんが悪戯っぽく笑った。
「あら、私はてっきり、おねショタなのかと」
「おい誰だ、この世界にそんな言葉を持ち込んだのは」
シャーリーさんの言葉にわたしは眩暈がするようだった。そんな性癖はないけれど、本当に誰だよ、そんな言葉を広げたのは。
「冗談よ。何かあったらいつでも呼んで。手助けするわ」
「ありがとう」
絶対冗談じゃなかっただろうけど、まぁいいや。
わたしはひきつりそうになる頬をなんとか笑みの形にしながら、頷くばかり。シャーリーさんの隣ではメイナードさんが困ったように笑っている。
ライノは「おねショタって何だ?」って聞いてくるけれど、話を蒸し返すな。わたしは無視を決め込む事に決めた。
そんなやり取りをした後に、タパスさんに手伝ってもらいながら、わたしは男の子を部屋に迎え入れたのである。
* * *
男の子の傷んだ髪を指に絡ませながら、わたしはこれからの事を考えていた。
まず、元気にならないといけないよね。
傷が治って、体力も戻っているといっても、衰えてしまった筋力とかはこれからゆっくりと回復させないといけない。食事も胃腸に負担にならないもの……重湯や野菜のすり下ろしとか。
お風呂もいれてあげたいし、髪も整えてあげたい。それから服も揃えなくちゃ。
そして一番大事なこと……名前だ。彼が起きたら名前を聞いて、辛いかもしれないけれど今までの事を聞いておきたい。
家がわかれば帰してあげられるし、そうでなくても奴隷の身分から解放しないと。
ぱさついた赤い髪から、火傷痕に指を滑らせる。
ただれが残ってしまって、肌の表面が盛り上がってしまっている。顔の左半分を覆う赤い痕をどうにかして治してあげられたらいいのに。
身を清めた時に、体にも火傷の痕がある事を知った。左肩から胸元、そして右太股にかけて焼かれた痕が残っている。
これだけの火傷で、生きていられた事が正直なところ不思議なほどに。それも彼が亜人種だからなのかもしれないけれど。
幼い寝顔を見ていると、いまはもう会えなくなってしまった弟を思い出す。
十も離れた弟が、わたしは可愛くて仕方なかったのだ。生意気なところもあったけれど「ねぇね」と呼んで後をついてくる弟。
弟を思い出すと、自然と両親の事まで思い出してしまう。
優しかったパパ、明るくて美人なママ。
仲良し夫婦に憧れて、わたしもいつかこんな風にお互いを思いやれる関係を誰かと築けますようにと、そう願うほどだった。
わたしがこの世界に来てしまって、みんなどうしているだろう。
探してくれているのだろうか。
あの明るい表情を曇らせてしまっているのだろうか。
目の奥が熱くなって、涙が溢れた。
思い出さないようにしていたのに。思い出したら、帰りたい気持ちで動けなくなってしまうから。
大切な家族を悲しませるくらいなら、わたしの事は忘れてくれていたらいいのにと、そう思う。わたしはもう帰れないから、わたしの事を探さないで欲しいと。
それなのに、忘れないでいて欲しいと心が叫ぶ。悲しませたくないのに、わたしがいなくて寂しいとそう思ってほしい。矛盾に涙が止まらない。
こうなってしまうから、思い出したくなかったのに。
この世界で生きていくと決めて、やっていけると信じて。それなのにわたしはやっぱり一年前から何も変わっていないみたいだ。
帰れるものなら帰りたい。
ただ学校に行く、その道を歩いていただけなのに。
どうしてわたしだったのだと。
「う……」
暗く落ちていく気持ちを遮ったのは、小さな声。
男の子が目覚めたのかと顔を覗きこむと、魘されているのか眉間に皺を寄せていた。悪夢を見ているのだろうか。……それも当然かもしれない。
彼がいた地下は、『死に満ちていた』とタパスさんが言っていた。
死んだ者、間もなく死ぬ者を集めた場所。
わたしは薄掛けをめくって、彼の隣に潜り込んだ。
幸いベッドは広いから、二人並んでも充分すぎるほど。この家にはベッドがひとつしかないし、彼には我慢してもらうしかない。回復したら、物置代わりにしている部屋を彼の部屋にしよう。
わたしは隣合う彼の手を、両手で包んだ。
骨の浮き出た細い指。冷たいその手を包んでいると、わたしの体温と同化していく。先程よりも呼吸が落ち着いているようで、眉間の皺も消えていた。
どうか彼が幸せな夢を見れますように。
どうかわたしが幸せな夢を見れますように。
そう願って、わたしもそっと目を閉じた。久しぶりに感じる、自分以外の温もりに、心が喜んでいるのが分かった。
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