第52話 町

※二話更新です。

※怒涛の二万文字を二つにわけました。いつもの私でいうと五話分です。デートだけで!いつもは1万文字くらい適当に書いてそれを圧縮して半分くらいにするのですが、なぜか減らそうとすると増えるを繰り返してこんなになりました。

※本当はさらにもう一話も一緒に更新して海編を終わらせるつもりでしたが、無理でしたので、それは次回です。

※表紙イラストを更新しました。今回は賢英一人です。



「今日もかなり暑くなりそうです。奏凱さまは疲れているのですから、無理は禁物ですよ」

「わかった。お互いに気を付けよう」


 緩やかな坂道が真っ青な海まで続いている。町の中を幾分蛇行しながら走るその長い通りを、空腹を抱えてゆっくりと下っていく。

 隣を歩いている賢英の背はさらに伸びて、もう私の肩と同じくらいになっただろうか。これでまだ十五だ。まだ伸びるだろう。身長はだいぶ差が縮まって少し複雑な気もするが、あそこの大きさは私のほうに大きく分があるので私の優位は揺るがない、はずだ。

 夫としての威厳について考えながら人の波を縫うようにして進む。私は最初賢英のようにうまく避けられなくて、何度か見知らぬ男に絡まれてしまった。海沿いの町なだけあって、船員として働く男が多いのだろう。皇都よりも屈強な者が多い。

 見ず知らずの人間から罵倒されたり煽られたりするのはなかなか興味深い体験だった。素人相手に負けるような鍛え方はしていないので困るような事態にはならなかったが、何度も人にぶつかる私を見かねた賢英が、人混みでの歩き方を教えてくれた。

「人の流れを見るんです。大きく避ける必要はなくて、相手とすれ違う方の肩を少し引くだけでも違います」

 新しい知見を得た。


 しばらく行くと、おかしな掛け声を発しながら通りを練り歩く男をみた。器用に両肩から木の桶をぶら下げている。最初は歌っているのかと思ったし、踊っているのかと思ったが何か違うようで。賢英に尋ねると、金魚売りだという。金魚をこのように売り歩くのかと驚きを隠せない私を見て、賢英がくすくすと笑った。さらに風鈴売りなんて者もいるらしい。どちらも夏限定なのだという。風鈴が美しく揺れて、澄んだ高い音が鳴り響き、不思議な光景なのだと教えてもらった。

 見てみたいと思ったが、残念ながらこの日は遭遇しなかった。その代わり、幾人かの魚売りや陶器の修理屋などが騒がしく練り歩くところに遭遇した。

 広い通りは活気のある港町に似つかわしい人の出で、あちらこちらから人々の会話や呼び込みの声が聞こえてくる。その通りを一本横道に入った先は細い路地が伸びているようだ。時折、真っ黒に日焼けした子供らが駆けていく姿と甲高い笑い声が聞こえる。

 家々の軒先には朝顔の蔓が伸びている。庭木として植えられているのだろう柘榴の木の枝には色づく前の実がいくつもぶら下がっていた。そして建物の陰の中では犬や猫が暑さを避けて午睡にまどろんでいた。

 暑さで汗が流れる。賢英がどこで買ったのか知らぬ間に手巾を手に入れていたようで、汗をぬぐってくれた。金魚と風鈴の図案だった。それに気づいた私に賢英がくすりと笑って見せた。



 賢英の提案でまっすぐ市場へ足を運んだ。朝も食べていないのでお互いに空腹だった。

 市に近づくにつれて活気のある声が響いてくる。実際に到着してみるとここへ来るまでとは比べ物にならないほどの人出だった。人いきれにくらくらする。目を回しそうな私に、賢英が気遣わし気に声を掛けかいがいしく世話を焼いてくれる。今日の賢英はいつになく世話を焼きたがるようだった。

 私には賢英の親切を無下にするような無体な真似はできないので、賢英の気の済むまでしたいようにさせてやることにした。断じて甘えているわけではない。これは伴侶として当然のことだった。それに私の方でも賢英の腰を支えたり、足元がふたついた際に腕をとってやったりと忙しい。

 市の中でも特に屋台が並ぶ区画にくると、四方八方から良い匂いが流れてきて、中には嗅いだことのない匂いも混じっている。屋台のものを食べるという生まれて初めての経験に、ただの食事なのに、期待と不安が湧いてくるのがわかった。

 一瞥しただけで様々な屋台料理が軒を連ねているのがわかる。串焼きだけでも豚、鳥、馬から魚や海老などまで揃っており、一目みただけでは何なのかわからないものや、どうやって食べたらいいのかわからないものもいくつかあった。どれがいいのかもわからないので、とりあえず手近なところから試してみようということになった。串を受け取り金額を尋ねると驚くほど安くて、私は目をむいた。それを見て賢英が笑った。

 さて、串を受け取っていざ食べようと思い周囲を見回すが目当ての物が無い。

「どうかされましたか?」

「いや、座って食べようかと思ったのだが、椅子はないのだなと思って」

 賢英が虚を突かれた顔をする。

「屋台ですからね」

「なるほど。そういうものか」

「立って食べるんです。みんなそうしています」

「そのようだな。ただ、もしかしたらどこかに椅子があるのかと思ったのだ」

「屋台の料理で腰を落ち着けて食べる人はいませんね。手軽に食べられるのが売りですから。なんなら歩きながら食べますし、それが普通ですよ」

「そうか。歩きながら……」

「どうしました?」

「いや、その、なんだ。歩きながら食べるというのは、私には少し……」

 歩きながら食べることに少なからず抵抗がある。

「えっと……。恥ずかしいんですか?」

 なんだその顔は。胡乱気な顔で私を見てくる。心外だ。

「私だって羞恥心は持ち合わせているぞ。戦場でだって歩きながら食べるということはしなかったのだ」

「いえ、あ、いえ、ええ。勿論そうですよね。当然です」

「……」


 幾人も歩きながら食べている姿を見てはいたけれど、実際にやってみるのは気恥ずかしくも面白い経験だった。私が問題なく食べきったのを確認して、賢英が目に付いたものを次から次へと私に手渡してくるので、私は差し出された先から渡されるものを食べた。

 一通り屋台料理を堪能した後、何かしたいことはあるかと聞いたがとくには無いというので、とりあえずうろうろ街中を回ってから海の方へ行ってみようということになった。



 目的もなく路に沿って進んでいると、それなりに立派と呼べる店が並ぶ通りへきた。

 さすが港町と言ったところだろうか。海路と陸路を通じての物流の要所となるので、種々雑多な店が多い。買い付けにくる様々な商人貴族の相手をする格式の高そうな店も多く並んでいる。道行く人々の恰好もそれに見合うもので、金持ちそうな男や、美しく着飾った女たちが歩いている。

 なんとはなしに向けていた視線の先で、宝石類を扱うらしい大きな店から一組の男女が仲睦まじげな様子で出てくるのが視界に入った。女のほうがしきりに胸元の赤い石のはまった首輪を撫でている。男が気に何やら囁きながら、女の腰に手を回して歩き去って行った。

 色合いからあれは紅玉だろうか。さほど大きくもないので、遠目には確実に言えないけれど、土地柄を考えればあながち外れでもないかもしれないと思う。船で入ってきたのだろう。

 私はその時初めて、自分の失態に気が付いた。

 折角珍しいものが多く入ってくる港町に来ているのだ。事前に賢英になにか用意しておけばよかった。今さら用意してももう間に合わない。一から希望を伝えて作らせたとしても、今日明日中に出来上がるはずもない。既製品で間に合わせようかとも思ったが、それではだめだ。

 溜息しかでない。

 内心の落胆を見せぬよう何食わぬ顔をしながら並んで歩く。とりあえず、機会をうかがって何かを贈りたいが、身分を隠しており、自分の名を出せないせいで紹介制の店には入れない。

 とりあえず適当に立ち並ぶ店を覗きながら良い物を探そうと呼び込みの声に足を止めた。国外からの珍しい輸入品を扱っていようだ。賢英を伴って中に入ると雑多な商品が、透明な玻璃で覆われた棚に丁寧に並べられている。賢英が興味深そうに店内を見回していると、早速店の者がやってきて商品の説明を始めた。私たちはその説明をじっくり聞きながら商品を冷やかす。胡散臭い魔よけの品から刀剣の類、観賞用の壺や絵画など品ぞろえは多岐にわたっており、また店員の説明は面白いので飽きなかった。適当に入った店ではあったがそれなりにしっかりした店だったようで、中には私の知らないものや善し悪しを判別できないものも混じっていたが、おおむね質の良いものが陳列されていた。

 賢英は一つ一つの説明に感嘆の声を漏らして、熱心に見つめている。何か欲しいかと訊いてみたが、賢英はいいえとしか言わなかった。長く二人でじろじろ商品を眺めた後、結局何も買わずに店を出てた。

「どうだった?」

「本当にすごかったです。見たことのない物だらけでしたし、お店の人の説明もおもしろくて。きっと僕一人では勇気が無くて入れませんでした」

「何か買わなくても良かったのか?欲しいものがあれば何でも言って良いんだぞ」

「はい。でも僕が持っていても宝の持ち腐れですから。お気遣いありがとうございます」

「そうか」

 さらにいくつかの店を覗いた後でそろそろ海の方へと考えていたときに、通り過ぎざまに窓を覗き込んだ賢英が不意に立ち止まった。何か心惹かれるものがあったらしい。今度の店はさきほどの店と比較して随分古ぼけていた。中に入るとどうやら玻璃製の雑貨を中心に取り扱っている店のようだった。客も店員もおらず、奥の方にこの店の主人と思われる高齢の男が椅子に腰かけているだけだった。

 少し薄暗い店内をじっくりと見て回る。色のついた玻璃が窓からの光を受けて色鮮やかな影を床に投げかけている。赤、青、黄、緑、橙、紫。それらが散らばり、重なりして薄汚れた木の床の上に複雑な色合いを成す。

 透明な玻璃でできた杯、皿、器に風鈴などの商品が所狭しと並んでいる。馴染みのない陳列の仕方だった。その中に面白いものを見つけたという風に賢英が立ち止まって、熱心にみつめているものがあった。近づいて見ると、墨汁で文字を書くための筆記具だった。輸入品らしい。

 その繊細な作りが特に目を引いた。細かな異国の模様に細身の持ち手、透明な黄と翠の色合いが美しい品だった。

 欲しいのかと聞くと、曖昧な言葉が返ってきた。すぐにそこを離れたけれど、気になるようでまたそこへを戻ってくる。触れたら壊してしまうことを恐れているのか、手を伸ばそうとはしないので、代わりに私が取り上げて賢英に差し出す。

 恐る恐ると言う風に受け取ってためつすがめつ眺めたり、光にかざしている。その表情。賢英の瞳に光が写り込み、宝玉のように輝いて見えた。

 私が奥に声を掛けると、億劫そうに主人がのろのろとした足取りでこっちへやってきた。

「これをもらおう」

 そう言って、筆記具を指さすと賢英が慌てたように私に声を掛けるが、気にせず店の主人に金を支払う。こんな古びた店にある商品としてはなかなかの値がついていたが、それでも私には取るに足りない金額だった。

「割れたりしないよう厳重に梱包を頼む」

 男は頷いて、賢英から慎重にそれを受け取ると包装するためにもう一度暗い奥へと引っ込む。

「あ、あの、奏凱さま。もし、僕に買って下さるおつもりでしたら、僕は結構ですので!あんな高価なもの僕にはもったいないです」

「釣り合うか釣り合わないかは私が判断する」

 少しきつい言い方をしてしまったと思った。

「はい……」

 賢英の顔が優れない。

 どうしたら私の言葉が届くだろうか……。沈黙が辺りに落ちる。

 そっともう幼さの失われたけれど、まだ内面には幼さの残る賢英の頬を両手で包む。

「私には経験が少なくて、どうやったら気持ちを伝えられるのかが分からない。私が贈るものは皆、お前にとっては負担に感じるほどに高価な物なのだと思う。けれど、それ以外に私は気持ちを伝える術を持たないのだ」

「でも、僕にはそれに見合う何かをお返しすることができません」

「私がお前を喜ばせたいと思うのはいけないことだろうか?それに、今日はお前に色々と教えてもらった。その礼の一つもできないようでは、お前の伴侶として私の立つ瀬が無い。それでは、私にはお前になにもしてやれないことになってしまう。私はいつももらってばかりだというのに」

 困り顔は変わらない。

「それに、あれは良い品だ。家族への手紙をあれで書いてみたら喜ばれるかもしれないぞ。私も仕事で使うが、筆とは全然違う文字が書ける。実用的だから宝の持ち腐れになるということもない」

「そう、ですね。これで手紙を書いてみす」

 やっと笑ってくれた。

 主人が随分経ってから品物を持ってきた。それを受け取り礼を言いつつ店をでると、悠午の兄の迅がやってきたので丁重に扱うよう言い含めて渡した。繊細なものを持ち歩くのは難しい。

「帰ったら、使い心地を教えてくれ」

「はい。ありがとうございます。大事にします」

「お前は見る目があるな。あの店ではおそらくあれが一番の掘り出し物だろう。他にも皿や杯なんかで目を引くものはあったが、あれが一番物が良いようだった」

「とてもきれいでした」

「良い物をたくさんみて、物を見る目を養うことも大切だ」

「はい」



 もうこの辺りは見るものはないかなと思い始めたころ、喉が渇いたので屋台から果物を買うために足を止める。葡萄や桃や瓜が並ぶ中に鳳梨が堂々と鎮座していた。珍しく思って私が手に取ると賢英が物珍しそうに見るので、それを二人分買った。南国の果物で、あまりこの辺ではお目にかからない果物だから当然だろう。金を払うと店の者が器用に切り分けて手渡してきた。黄金色の果肉が瑞々しく、芳醇な香りが立ち上る。

「これが鳳梨なんですか。実物は初めて見ました。以前黄茉莉さまのお茶会で鳳梨を混ぜ込んだお菓子を食べたのですが、こんな見た目をしていたのですね……」

「あぁ、茉莉の実家は南の国々との陸路での交易を生業としているからな。時々珍しいものを持ってくる」

「なるほど……。あ、酸っぱいですね、これ……ものすごく」

 賢英が顔を顰める。想像以上に酸味がきつかったらしい。

「そうだな。私はこの酸味が好きだが賢英にはきつすぎるか」

「いえ、平気です。ただ茉莉さまのところで食べたものが砂糖漬けで甘いものだったので驚いただけです」

 私が笑い含みに言うと、子ども扱いされたと思ったのか賢英が向きになって言う。

「今日もとても暑いので、これくらい酸っぱいと丁度いいですね」

「そうだな。どうだ、賢英。ただ歩き回っているだけになってしまっているのだが、楽しいだろうか?」

「はい。奏凱さまはどうですか?僕といて楽しいですか」

「分かり切ったことを聞くな。楽しいに決まっている」

「そうですか。良かったです」

 そう言って賢英が私に微笑む。

 人の流れに逆らって海の方へ向かって歩いていると、露天商が集まる一角に出くわした。賢英が興味深そうにきょろきょろとあたりを見ているので、歩幅を狭めてゆっくり進む。どうやら装身具の類を扱っているらしい。色とりどりの石が光っている。

 私は何の気なしにしゃがみこんで覗いてみたが、ほとんど屑石ばかりだった。私自身さほど宝石の類には興味がないが、それでもわかる粗悪品だ。何点かは宝石と呼べる品質のものもあるにはあったが。

 足を止めてみるほどのものではないなと意識を隣にいる賢英に戻すと、当の賢英が何かに見とれる風にして視線を別の方へ向けている。

 その視線の先をたどると、一組の男女が楽しそうに会話をしながら、何やら露店に並ぶ品物を吟味していた。

 そこにも並んでいるのは安物の、装飾品とも呼べないような粗悪な石でできた簪の類だった。彼らは、手に取っている物の価値に気付いているのかいないのか、心から楽しそうに笑いあいながら、ああでもないこうでもないと代わる代わる手に取っては、相手の女に試させている。

 女の方は男に似合うかを尋ね、男はどれも似合うと賞賛の言葉をかけていた。

 そんな他愛のないやり取りを賢英はじっと見ている。

「あれがほしいのか?」

 私が声を掛けると、賢英が夢から覚めたようにこちらに振り向く。

「いえ。そういうわけではないんです」

 なんだろうか。

 私は賢英の耳元で囁く。

「あれはお世辞にも質のいいものとは言えないぞ。もしほしいのなら、ちゃんとしたものを今から見に行ってみるか?」

 私の囁きに首を振る。

「いいえ、とんでもないです。すみません。ちょっとぼんやりしてしまいました。さぁ行きましょう」

 そう言って立ち上がる。店の男が魚を逃がしたというように惜しそうな顔をしていた。

 道すがら、先ほどの光景のことを繰り返し思い浮かべた。本当は何か欲しいものがあったのだろうか。気兼ねして言い出せなかっただけだっただろうか。

 芝居小屋の前に差し掛かる。派手な幟がいくつも風に揺れている。

「芝居はどうだ?」

「そうですね……。いえ、今日は遠慮いたします。すごく興味はあるのですが、折角の二人きりの外出です。なんだか芝居を見ている時間がもったいない気がします」

「そうか」

「それよりも、奏凱さまは何かしたいことはありませんか?何でも良いです。折角町へ降りてきたのですから」


 その時、空から雨粒が落ちてきた。おやと思って上空を見上げるといつの間にか空が雲に覆われている。雨脚は急激に強まっていく。

 さらに一瞬目の前が白真っ白になり、遅れて雷鳴さえ聞こえてきた。なのに、露天商も道行く者たちも慣れた風で少しも動じる気配がない。恐れ入る。天気はあっという間に豪雨になった。

 さすがにこのままでは全身下着までずぶ濡れになってしまう。それは良くない。賢英が風邪を引いたら大変だ。

 私が賢英の手を取ると、雨宿りができそうな場所を探す。近くを歩いていた者たち、とくに女たちは通り沿いにある店の軒先を借りて雨宿りをしている。子供らは逆にわざと雨の中ではしゃいでいる。私も雨宿りする人々に倣って、賢英の手を引いた。軒を借りるのは当たり前のことのようだ。

 雨は一層激しさを増し、雷鳴が遠く近く聞こえる。腹の底から揺さぶるようなそれを聞きながら、賢英を見ると興味深そうに顔を空に向けて、じっと雲の様子を観察している。

 その横顔を水滴が伝い、首筋を流れ、上着の内側へと細い流れを一筋作っている。その首筋の色っぽさについ見とれてしまう。

 そう言えば皇都を出てからずっとお預けが続いていた。昨夜もあの後すぐに寝てしまった。欲求不満が突然意識されて、一度それを意識してしまうと下半身が反応してしまう。参った。

 そうだ。宿屋がある。そこに賢英を誘うのはどうだろうか。いつものお互いの部屋以外というのも悪くない。うむ。悪くない。賢英もしたいことはないかと言っていた。うむ、何ら問題はない。

 そんなことを表情に出さないように考えていると、私が見つめる先で、賢英は無邪気に大きな雷の音ですね、と私に話しかけきた。私は、おざなりな返事にならない程度に言葉を返した。賢英は気づいていない。時折稲光が賢英の顔を白く浮かび上がらせる。

 問題はどうやって賢英を釣り出すか、か。率直に誘っては嫌がられるだろうか?案外大丈夫かもしれない。しかし、ここは慎重に……。

 賢英の体が冷えるといけないという建前を言いながら、私が賢英の腰に腕を回そうとしたときだった。

 考えに没頭しすぎていたのだろう。何の前触れもなく横から突然話しかけられた。

「ものすごい雨ですわね」

 耳に心地よい声が聞こえて、私も賢英も左を振り向いた。

 女が立っていた。着物を着崩して肌を露出している。下品だったが蠱惑的だった。

 女がしなだれかかる様に何も言わない私の袖に掴まる。瞬間振りほどこうとして、思いとどまる。値踏みするような視線。口元には上品そうな笑顔を貼り付け、くねくねと体を揺らしている。そうやって多くの男たちを誘惑してきたのだろうとわかるし、実際男には効果的だろうとわかる。

 私は興味無いという風に顔を逸らして、賢英を見る。賢英が目を白黒して女を見ていた。賢英には少し刺激が強すぎるかもしれない。

「お二人でお買い物ですの?仲がよろしいのね。この辺りでは見かけないお顔ですけれど、どちらから参られましたの?お仕事かしら」

 無視していることに気付いているのかいないのか、女が話しかけてくる。賢英に興味を持たれるよりはと、私は仕方なく女の相手をするために向き直る。

 女があでやかに笑う。何度も見てきた媚びる顔だった。

 それほど派手ではなくむしろ品のある色柄の服を着ているが、その話しぶりや仕草から花街の女だろうと見当をつける。頭のてっぺんからつま先まで検分する。女が見られていることに気付いて、更に笑みを深めた。これが仕事の時の表情なのだろう。

 顔が良い。体も良い。鼻に罹ったような甘ったるい声が気になるが、こういう喋り方が好きな男は多いだろう。

 そしてでかい。

 私の視線に気づいたのか、女が許可もなく小ぶりの瓜くらいの大きさの胸を私の腕に押し付けてきた。うむ、でかい。これなら、ほとんどの男が陥落してしまうだろう。私を除いて。

 賢英の顔が赤くなる。これ以上は子供には目の毒だ。賢英の視界に入れさせたくはなくて、少し体をずらして女の視線から賢英を隠す様に立つ。

「あら、意地悪ね」

「何がだ?」

「そちらの方を隠しているみたい」

「こいつは女にはなれていないからな。特に貴女のような美人には」

 貴女のような、をわざと強調する。嫌味のつもりだったが、女は世辞として受け取ったようだった。

「まぁ、そうなの?可愛い。ねぇ、よろしければどこかでお茶でも飲みましょうよ」

「今は忙しいのだ」

「そんなつれないことを言わないで。ね?ちょっとだけ」

「仕事を片付けなければならない」

 しつこい。賢英にちらちら色目を使うのも気に食わない。

 賢英がくしゃみを一つした。冷えてきたのかもしれない。これは早急になんとかしないと。なのに、雨が止むまではここから移動できないのがもどかしい。雨はまだ激しく降っている。こういう突然激しく降る雨は経験上長くはもたないのが幸いだ。早く止まないだろうか。

「ねぇ、お兄さんはどう?一緒に美味しい物でもたべましょうよ」

 賢英が突然話しかけられてしどろもどろになる。可愛い。ではなくて。

「賢英。お前は相手にしなくていい」

 賢英の顔色が心なしか白い。どうしようかと考え、軒を借りている店の隣が丁度呉服屋だと気づく。そうだ。賢英の着替えを。運がいい。

 私は腰に回した腕に力を籠めると、賢英を誘導して隣の店に入る。

「賢英。服を替えたほうが良い。風邪をひく」

「え、でも。大丈夫です。これくらい」

「駄目だ。体調を崩したら大変だ。すぐに着替えよう」

 そう言って店の者に声をかけると、すぐに男がやってきた。

「賢英に似合いそうな服をいくつか見繕ってくれ。着替えさせたい。時間が無いので既製品を。少々値が張っても構わない。

 店の構えから判断するに、ここは大した店ではないのは分かっていた。本来ならこんな店に用はないのだが仕方ない。それに今はお忍びなのだ。

「かしこまりました。さぁお客様。奥の方へ」

「奏凱さまは着替えられないのですか?」

「恐らく私の着られる既製品はないだろうから、気にするな」

「そうでございますね。旦那様ほどの背丈となりますと、合うお衣装はなかなかございません。申し訳ありません。一からお作りすることもできますが」

「いや、結構だ。時間が無い。それよりも、私のことはいいから、こいつの方を頼む」

「畏まりました。ささ、旦那様は奥の方へ。衣裳を見繕いましょう。旦那様はどうぞこちらにお掛けになってお待ちください。それから、すぐにお顔を拭くものと温かい茶をご用意させます。おい、誰か。こちらの方のお相手を頼む」

 そう声をかけるとすぐに別の男がやってきて私、となぜか女を卓へと誘導し、濡れた体を拭くための手ぬぐいと湯気の立つ茶を出してきた。

 ずうずうしくも女が私の前の椅子に腰かける。

 女が何か囀っていたが、私は無視して軽く水気を拭きとりながら賢英に視線を向ける。店の者に案内されながら着替えを選んでいる。

 私は賢英が何度か着替える様子を楽しんだ。女がいなければもっと楽しい時間だったと思うと残念だ。

 私は女を無視して店の者に声をかけると、比較的若い男がすぐにやって来てご機嫌伺をする。話を進めたくて手短に要件を伝えると、男は目を細め、儲けの匂いをかぎ取った様子で、奥へ引っ込んでいった。

「あら、羨ましい」

 女の声がしたが無視した。

 奥では戸惑う賢英に笑顔で対応しながら、賢英の好みを聞き出して服を広げていく。本当は折角賢英に着せるのだから、採寸から意匠から拘りたかったが仕方ない。ただの着替えだ。

 私としては静かに様子を見ていたかったのだが、ずうずうしい女がしつこく話しかけてくる。頼んでもいないのに名前を言う。無論私は名乗らなかった。

 聞きたくはないが勝手に聞こえてくる話からこの町の花街にある娼館で本当に妓女をしているらしいことが分かった。正直どうでもよかったのだが、賢英がこちらを窺うようにちらちらとみている。賢英は人が冷たくあしらわれるところを見るのが苦手なようなので、毅然と拒絶することもできず曖昧に相槌を打たざるを得なかった。

 私の煮え切らない態度が女を増長させたのか、女はさらに慣れ慣れしく、しなを作りながら私に語り掛ける。自分の容姿と体型によほど自身があるのだろう。しきりに胸を強調する体勢を取っている。

 そんな様子をしり目に適当に話を合わせながらお茶を濁す。女は自分がいかに賢く美しく、人気があるのかを並べ立てているらしい。本当に引く手あまたの妓女ならこんなところで客探しなどする必要はないのだから、眉唾物だろう。それに、店に来る客の話までし始める始末だ。

 妓女としてどうかとは思ったが何も言わなかった。この町の噂話や娼館に通う客たちの話は興味深かったので、その時だけは適当に水を向けて好きに喋らせた。

 奥では店の者が何か服以外の余計なものも勧めているようで、賢英が断るのに苦労しているようだった。別に買ったとしても誰も気にするはずはないのに。

「すみません。お待たせしてしまいました」

 そうこうしている間に、どうやらなんとか断れたようだ。雨の様子を見ているところに、後ろから声をかけられ、振り向くと新しい服に着替えた賢英が立っていた。悪くない。店員に礼を述べると、代金を多めに支払う。

 雨もほとんど止み、私の服もだいぶ乾いてきていたので頃合いも丁度良かった。

 賢英の腰に腕を回して促す。

 私は女に見せつけるように、そして本人には気づかれないよう賢英のこめかみに唇を寄せる。固まった女に話し相手になってくれた礼を言い、いくらか金を握らせると店から出た。



 ところどころ水たまりができて歩きにくくなった通りを並んで歩く。時折賢英をさりげなく誘導して足元が汚れないように気を遣う。

 賢英は言葉少なく黙って私の隣を歩いている。何度か話を振ってみたが上の空というような気のない返事をされた。何を考えているのだろう。

 そう思いながら歩いていると、日もだいぶ傾いて、空が黄ばみ始めていた。もうこんな時間か。水平線の向こうから夕闇が訪れる。海の色は複雑な色をなしている。

 海の方へのんびりと歩く。歩く。道行く人の中にちらほらと、男女の姿が見える。楽し気な会話。お互いしか見えていないという風に。時折、そういった二人組の会話が漏れ聞こえてくる。何を話しているのだろうと思いながら歩いていると、賢英の声がした。

「さきほど、何を話していたのですか?」

「何のことだ?」

「あの、僕が店の方と着替えを探している間です。女性の方と、何か話をしていたので」

「ああ、そのことか。話をしていたというか、あの女が一方的に話をするのを聞いていただけだったのだが、それがどうかしたか?」

「いえ」

 そう言って賢英が黙り込んだ。

「ああ言った方が好みなのですか?」

 おずおずと言うように。

「何の話だ?」

「……いえ、なんでもありません」

「なんでもなくはないだろう。好みとは、何の話だ?」

 立ち止まって賢英の方を見ながら思考を巡らせる。何の話だろうか。好み?

「さっきの女のことか?」

「……忘れてください」

 執拗に目を合わせようとしない。耳が赤い。ああ、なるほど。

 口角が持ち上がりそうになるのを必死に押しとどめながら、何でもない風を装う。

「全く好みではないな」

 そう言って賢英の腰に腕を回して抱き寄せる。

「私がお前以外に目をくれるわけがないだろう?」

 そう言って瞳の奥を覗き込むように顔を寄せると視線がそらされる。可愛い。疑いが確信に変わった。

「お前がやきもちを焼いてくれて私は嬉しい」

 耳元で囁くと賢英が慌てる。

「えっ、そんな、え?」

「では何故そんなにあの女が気になるんだ?」

「それは、えっと……。やきもち……」

 徐々に顔色が変わっていき、今まで見たことないほどに賢英の顔が赤くなった。なぜだかそれを見た瞬間に、自分の気持ちが抑えきれなくなった。

 あまりに嬉しくてつい往来の只中にあるというのに賢英を両腕で抱き寄せてしまった。自分の両手の中にすっぽりと納まる賢英が愛しかった。手の中の感触を確かめるように両腕にいっそう力を込めて抱きしめると、賢英が抜け出そうともがく様子を見せたが本気の抵抗ではないことが察せられる。それが嬉しくて、そんなことを喜ぶ自分が可笑しくて、私はつい声をあげて笑ってしまった。

 胸に抱き込まれた真っ赤な顔をした賢英が抗議の声を小さく上げるのさえ愛しくて、つい公衆の面前だというのに賢英の額に口づける。

 さすがにやりすぎだったらしく賢英が本気で怒った顔をしたので、さすがにまずいと思い解放してやった。怒った顔も良いなと不埒なことを考えながら、背を向けて速足で歩き出した賢英の後を追いかけなくてはならなかった。

「すまない。悪かった。つい調子に乗ってしまった。もうしないから許してくれ」

 賢英はこちらを振り返ることなくどんどん進んでいく。

 これはさすがにまずいと感じ、どうやって機嫌をとろうかと考え始めたころ、賢英が突然立ち止まった。

「あ、あれはなんでしょうか」

 注意を逸らす目的であるのがはっきりわかるほど、賢英が大げさに言う。

「ああ、似顔絵描きみたいです」

「似顔絵?」

「ええ。あっという間にその人にそっくりな人相画を描いてくれるんです。都にも居ました。ただ、珍しいですね。女の人みたいです」

「なるほど。折角だ。今日の思い出に一枚頼んでみるか」

 そう思いついて提案してみる。そして賢英が何か言う前にその手を引いて近づくと、椅子に腰かけた若い女がこちらを見上げる。今は誰も客がいないようで丁度良かった。

 通りから見えるように何枚かの作品が飾られている。なかなか良い作品ばかりだった。こうして自分の作品を並べることで、道行く人の目に留まるようにしているのだろう。

「旦那様、どうですか?一枚」

「そうだな。こいつを描いて欲しい。可愛く描いてやってくれ」

「可愛く?」

 怪訝そうな顔をする絵描きに見えるよう、わざと賢英の腰を抱きよせる。

「なるほど。分かりました。お兄さんもなかなかの男前だね。腕が鳴るよ」

 そういうと賢英を自分の正面に立たせ、いろいろと注文を付け始めた。斜めに立つように言ったり、顔を横に向けて欲しいと色々賢英に注文をつける。その指示に賢英が困惑しながら従う。絵描きはかなり悩んでやっと納得の行く構図になったのか、筆を紙に走らせ始めた。

 道行く人が幾人か足を止めて、様子を眺めている。

 たいした時間もかからずに絵は描き上げられた。私が受け取って見てみると、賢英も一緒になって私の手元を覗き込む。なるほどかなり上手いものだった。特徴をしっかり捉えている。金を多めに握らせると、女に続けて私もどうかと言われた。すかさず賢英がお願いしますと言うので、私も描いてもらうことになった。

「可愛くお願いします」

「おい、そこは格好よくではないのか?」

「旦那様もかなりの男前だね。こんなに良い顔を二人も描かせてもらえるなんて、私は運がいい。うん、これは描き応えがある」

 そう言って私にも賢英の時と同じように、いくつか指示を出し、やっと描き始めた。見ていると、どんどんと筆が進む。

 あっという間に女が描き終わると賢英が絵を受け取り礼を言って代金を支払った。

 道すがらお互いの似顔絵を見せ合う。本当によく描けていた。

「この絵、あなたの似顔絵、僕がもらってもいいですか?」

「ああ、構わない。お前に持っていて欲しいくらいだ」

 そう言って手渡すと大事そうに受け取る。

「嬉しいです。大事にします」

「ではお前の似顔絵は私がいただこう」

 そう言うと、賢英は見たこと無いほどに嬉しそうな顔を見せた。


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