第33話 秘密

 黄昭容は春らしい黄色の着物を着て、可愛らしく円卓に座っていた。濃い裳裾から徐々に上に行くに連れて淡い色へと移り変わっていくように染め抜かれた生地が素晴らしかった。

 上品な春の花々の刺繍が細かく刺されている。まだ幾分か肌寒いため真っ白な肩掛けを纏い、頭にはいくつもの簪が品良く刺さっている。

 僕は目を奪われて挨拶をし損ねるところだった。ゆっくりと会釈をし招いていただけたことに感謝を述べ、型通りの挨拶が返された。

 終始柔らかな笑顔を絶やさない黄昭容には、好感を抱かずにはいられない魅力があった。

 僕が勧められるままに席に着くと、侍女の一人が手を鳴らした。

 そういう手筈になっていたのだろう。扉から複数人の女たちが大皿小皿に種々の点心を乗せてやってきた。

 手際良く彩り鮮やかな菓子や軽食、果物の類が置かれていく。桃まんや落雁、粽の類や杏仁豆腐など見慣れたものから、見たことのない種類の焼き菓子が所せましと並ぶ。これは二人分ではないのではと思う量が卓に載せられるのを見て、そう言えば最初の頃の宮殿での食事もこうだったと思い出した。侠舜にお願いして朝食と主上のいない席での食事は食べられるだけを用意してもらうように変えたのだった。この、量が恐ろしく多い食事の方が普通のことなのだ。

 全ての点心が出そろうと、茉莉にお茶の種類を問われた。事前に飲み慣れたお茶以外は口にしないよう侠舜から忠告を受けていた僕が白茶をお願いすると、いくつかある茶筒から彼女の侍女が一つを選び取って、匙で適量を急須に入れ、火にかけられた鉄瓶からお湯を注いだ。

 微かな音と共に湯気が立ち上る。

 十分に蒸らされた急須から茶碗へとお茶を注ぎ、向こうの侍女が一口飲んで毒見をしてみせ、続いて黄茉莉も注いでもらった茶を飲んで見せた。本当の毒見は厨房で済ませているはずなので、これは一つの礼儀のようなものだ。

 それを確認した慈蓉が彼女から急須を受け取り、自分も茶碗にお茶を注いで一口飲む。彼女が頷いて僕の分の茶碗にお茶を注いでくれたので、僕は自分の茶碗に手を伸ばした。一番最後に淹れられたお茶はまだ十分に熱いと言える温度だった。香りを楽しんでから舌を火傷しないよう一口。熱かったけれど、とてもおいしかった。普段飲んでいる茶葉とわずかに風味が違うように感じるのは雰囲気のせいなのか、産地の違いなのか。

 お互いにお茶を飲み一息つくと、黄茉莉が菓子の説明を始めた。僕には馴染みのないものがいくつかあったので好都合とばかりに僕は耳を傾けた。一つ一つの菓子に対してどこそこの高級な砂糖を使っているとか、特に品質の良い杏仁が手に入っただとかの話を僕は聞かされた。女の人だからそういうところから拘るのか、それともお金持ちとはこういうものなのか、僕にはわからなかった。産地や品質など分からないまま僕は唯々諾々と頷きながら聞いていた。主上がそこまで詳しく料理の説明をするのを聞いたことはなかったなと思った。

 こういう詳しい説明を聞かされると、馴染んだ普通の菓子類もものすごくおいしそうに見えてくるから不思議なものだ。

 そうしていると、最初に気になった菓子の説明になった。どうやら、異国の焼き菓子のようで、生地に果物を入れて焼いた饅頭のようなものなのだとわかった。怜貴妃の故郷よりもさらに西の国のお菓子なのだと教えてくれた。怜貴妃から作り方を教わり、今日のために準備してくださったようだ。鳳梨や林檎が入っていると言う。僕はそれを頼むと侍女が切り分けて渡してくれた。慈蓉が毒見をしてくれ、僕へと渡してくれた。

 一口食べると、思ったよりもぼそぼそした食べ物だったけれど味はとてもおいしかった。食べたことのない味だった。鳳梨が甘酸っぱく、豊かな香りが口に広がる。鳳梨が何なのか知らないけれど。僕は一遍でこれを気に入った。ただ、ちょっとお茶が無いと食べにくいかなとは思った。

 黄茉莉は僕が食べるのをただ見ているだけだった。自身は杏仁豆腐に一匙口を付けたきりだ。彼女は僕が一区切りつくのを見てから口を開いた。

 鈴を転がしたような可愛らしい声で言葉が紡がれる。当たり障りのない天気や気候の話から、後宮での生活などの話を通り一遍聞かされた。僕は後宮がどういうところなのかをよくは知らないので、とても興味深いと思ったけれど、それと同時に何を言いたいのかよくわからなかった。

 とくにこれと言って僕の意見を求めるわけでもなく、僕に聞かせる風ではあったけれど、僕の反応にはそれほど気を配っているようには見えなかった。

 いや、僕の反応を見てはいるけれど、それが会話に反映されていないというか、何か他に言いたいことがあるのではないかと察せられる話しぶりだった。

 僕は一度会ったことがあるだけの年上の女性の気持ちを察したり、おしゃべりを盛り上げられるほど話題に長けているわけではない。しかも相手は僕なんかとは比べられないような良家の子女なのだ。何を話していいのかもわからなかった。中身のない時間がゆっくりと流れていった。

 少しずつ会話が途切れがちになり、とうとう当たり障りのない会話の種が尽きてしまったのだろう。黄茉莉が口を閉じた。気まずい沈黙が流れた。どうしたらいいのだろう。僕はすぐそばに控える雲嵐や慈蓉を見たけれど、首を振られただけだった。

 単刀直入に何か用ですかと聞くことは憚られ、どうしようかと考えていると、僕はふと思いついて口を開いた。

「主上が今日出席できなくて残念でしたね。」

「え、ええ。いえ、それは私が頼んだのです。賢英さまと二人でお茶がしたいと。」

 僕は首を傾げる。僕に主上抜きで個人的な話があるとは思わなかった。

「二人きりでお話がしたいと思って、初めから主上には声を掛けてはないのです。ご迷惑だったかしら。」

「いえ、とんでもないです。勝手に勘違いしていただけです。それに僕の方でも黄昭容さまとお話がしたいと思っていました。もうだいぶ前のことになってしまいましたが、月階の節会の席での僕の失態で、なんだかとてもご迷惑をおかけしてしまったようでしたので、一言謝りたいと思っていました。なんだか、とてもお心を煩わせてしまったように見えたので。」

「それは、全然いいの。あ、私のことは茉莉って呼んで頂戴。私があなたのことを賢英と呼んでいるのだから。ね?それでね。あれって、きっと、あなたが演奏する予定だった曲を私が先に弾いてしまったのでしょう?とても申し訳ないと思ったの。初めての参加だったのに。あんな恥をかかせるようなことになってしまって。あの曲は、私が選んだのではなくて、宴の何か月か前に、お茶会で誰がどの曲を弾くのかを決めましょうということになって、いくつか挙げられた曲の中から、他の方々に私が勧められた曲だったの。綺麗な二胡の曲だからって。他意はなかったのよ。私って時々すごく間が悪いの。」

「気になさらないでください。準備不足だった私のせいでもあるのです。」

 あの時のことを思い出す。

「それに、主上に助けていただいたので、かえって良い思い出になりました。」

 それを聞いた茉莉が僕をじっと見る。

「あ、あなたは……。」

 一瞬言い淀んだけれど、意を決したように言葉を紡ぐ。

「主上と仲が良いの?普段はどんな風に過ごされていらっしゃいますの?」

「仲が良いと言うのがどういうことを指すのか私には分かりかねますが、悪くはない、と思います。たぶんですけれど。一度喧嘩みたいなことはありましたが。」

「あの人と喧嘩を……。」

「いえ本物の喧嘩と言えるようなものではなかったのです。ちょっと私が配慮に欠けていたと言いますか、視野が狭かったと言いますか。私が子供だったのです。」

「そう。」

 そう言うと口を閉ざしてしまった。僕は慈蓉が淹れ直してくれた熱いお茶を冷まして一口飲んだ。

「それは、主上から頂きましたの?その首輪のことです。」

「はい。この前の宴の直前に主上が身につけられていたものを頂きました。」

「……そうなの。あなたはそれを主上にねだって、それで頂いたの?」

「いえ、これは主上が宴に参加する私の格好が地味で寂しいとおっしゃって。私は必要なものがあればそれで十分だと考えていて、少しも地味だとは思っていなかったのですけれど。実際に参加してみて地味だと言う言葉の意味がやっと分かりました。皆さまとても素晴らしい衣装でした。」

「羨ましいことだわ。」

 僕は再度首を傾げる。後宮の女性たちを褒めたのになんで羨まれるのだろう?

「あなたは本当に主上から愛されているのね。羨ましいことだわ。とても。」 

 僕は何も言えなかった。ずっと考えているけれど、未だ答えは導き出せない問題だった。愛とはなんだろう。

「私がここに初めてきたのは十六の時だったの。一番最後に主上に輿入れしてきたの。右も左も分からなくて、ただ気をつけなければと漠然と思いながら後宮の一角に住むことになったわ。すごく怖かった。だって過去の後宮での権力争いの話をいくつも聞いていたんだもの。」

 思い出すように遠くを見ている。

「それに主上はとてもやさしい人だという噂と人に興味がない冷たい人だという噂の両方を聞いていたし、宮殿に呼び集められた女たちの中からよく分からないまま選ばれて、何度か話をしただけで結婚が決まってしまったんですもの。」

 高貴な人同士の結婚とはそういうものなのだろうか。

「あの人について知っていることなんてほとんどなかったわ。最初の夜、主上は不自由はさせないと言ってくださった。それから私のことを知りたいと。そのためにできるだけたくさん話をしようと言ってくださったの。私、最初はただのお愛想話だと思っていたのだけれど、主上は仰った通り足繁く私のところに通ってくださった。それに実際とても優しかった。」

 僕は自分のことのようにその場面を想像した。

「会うたびに色々な話をして。私の好きなものや嫌いなものや子供の頃の話なんかを。そうすると次の時には私が好きだと言ったものを持って会いにきてくださった。すごく嬉しかった。愛されていると舞い上がったわ。」

 言葉が途切れる。

「馬鹿だったわ。」


「私はすっかり失念していたの。ここがあの後宮だと言うことに。ここに暮らすようになって数ヶ月経って、身の回りで嫌なことが起こるようになったわ。嫌がらせが次々起こるの。他の妃たちからだったかもしれないし、後宮の女官たちからだったのかもしれない。犯人は誰かもわからなかった。一人なのか複数なのかさえ。主上の寵愛を狙う人はたくさんいるから。朝起きたら私の宮の前に鳥の死骸が落ちていることがあったり、私の衣装が破られていたり、他にもいろいろなことが次々あったわ。

 実はね、私もあなたと似たようなことがあったの。主上を交えた後宮で催される節会での演奏会で、私はある曲を弾くことになっていたの。けれど、別の方がそれを私の前に演奏なさって。急遽私は別の曲を披露しなくてはならなくなって。予想外のことが起こると人は平常心をなかなか保てないものね。誰のせいでもないのは分かっていたのだけれど、私の演奏は緊張で乱れてしまって。批評で他の妃たちから遠回しに嫌味も言われたわ。それで、きっとこれはその人の嫌がらせだろうと思うようになった。

 そのせいもあって、私は疑心暗鬼になってしまって、徐々に、ただ歩いているだけで、すれ違う人すれ違う人に嘲笑されているような気がするようになったの。妃たちの集まるお茶会での探り合いや嫌味の応酬に辟易して、私はだんだんと自分の宮から出られなくなったの。

 心配して通ってくださる主上が、優しくしてくださればしてくださるほどに嫌がらせは苛烈になっていった。そして。決定的なことが起きたの。」

 彼女は悲痛な表情をしてこちらを見た。

「私の食事に毒が混ぜられたの。毒だったのかはわからないわ。もしかしたら漢方薬だったのかもしれない。医官が言うには毒と薬は同じものだって。よくは分からなかったけれど、どこにでもありふれたものではないかと。運が良かったのか故意だったのかわからないけれど、死に至るほどの量ではなかったようで、私は体調を崩して寝込んだわ。」

「主上はすぐに私の元へいらしたわ。とても心配そうな顔をされて、私の手を握ってくださった。けれど……。」

 美しい顔に影が落ちる。茉莉は面を下げたまま身じろぎもしない。

「私は主上に、もう来ないでくださいと言ったの。」

 重々しい言葉だった。全ての後悔を吐き出したような。顔を上げた黄茉莉の大きな目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。

「私はあの時の主上の顔を絶対に忘れないと思う。主上はそのとき分かったと小さくおっしゃったわ。私に主上を拒絶する権利などなかったのに、私を罰してしかるべきだったのに。」

 重い沈黙。

「それから主上が私のところに来る頻度は減って、気づくと嫌がらせも無くなって。たまに会いにきてくださるのは昼間だけになったわ。夜のお渡りはあれ以来一度もないの。けれど会って話をする時はいつも私のことを気にしてくださる。いつも優しい。昔からそこだけは変わらないの。でも、私たちの関係はもう一歩も前には進まない。ずっとお互いについて知っているのは上部のことだけ。私はあの人のことを理解する機会を永遠に失ってしまったの。」

 寒いのか肩を覆う肩掛けを握り込む。

「夜にお渡りがない理由も分かるわ。子供がなければ宮から数年で出られる。私が後宮から出られるよう配慮して頂いているの。きっと。それでもわざわざ会いにきてくださっているのは私が元気かを確認するため。そして、お渡りがあるのに子ができなかったら、私に石女の噂が立ってしまうから、それを避けるために昼にしかお会いしてくださらないのでしょうね。主上がお渡りにならなくなって、その時はまだ私の身の回りの世話をしてくれる者たち以外ちょっと怖かったけれど、それも墨瑞芳が私の友達になってくれたおかげで随分落ち着いていったわ。私の周りが穏やかになって、私は初めて冷静に後宮を眺めることができるようになった。主上はいつでもおだやかで決して感情を露わにすることもなく、静かに皆の話を聞いているの。私には主上が独りぼっちのように見えたわ。こちらが欲しいと思う答えを返して、こちらが喜ぶ提案をして、こちらが喜ぶ贈り物をして。私は主上が私に囁いてくれた優しい言葉の数々を思い出した。そして、私に対してあの人は自分の話は一切されなかったことに気づいたの。好きなものも嫌いなものも子供の頃の話も未来のことも。自身が欲するものも。」

 目の前の女性の目に暗い光が宿るのを見た。

「それから、私は思い至ったの。私の役割がなんであったのかに。」

 瞬間僕は思い出した。何の前触れもなく唐突に。

――私がお前に期待しているのは、そんなことではない。




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