第20話 事故
雲嵐が来てから数日が過ぎ、皇都に初雪が降ったが積もることなく解けて消えた。年が明けるまであと二月。楽器と詩作の練習は恐ろしいほど詰め込まれていた。夜の自習をその二つの練習に充てることにした
それから、半月ほども一緒に行動して、ある程度彼の人となりが分かってきた。あまり感情を面には出さないので、いまいち何を考えているのか分かりづらい。けれどとても真摯に仕事に臨む姿勢が好ましい。見ているとテキパキ仕事をこなしていく。ただ侠舜の彼を見る目は厳しかった。恐らく彼にかける期待の大きさの故だろうと思えた。
雲嵐が優秀なのは分かっていたが、弓や乗馬はあまり得意でないようだ。もしかしたら興味があまりないのかもしれない。それに対して、記憶力はすばらしく勉強だけではなく仕事や礼儀作法も次々と覚えて行っているようだった。
雲嵐の優秀さを目の当たりにして僕は少なからず彼に引け目や苦手意識を感じていた。ただし、それだけならもっと僕は積極的に仲良くなろうと動くことができたと思う。たぶん初日に僕の恥ずかしい秘密を知られてしまったこともなかなか関係を進められない原因の一つ、というか、大部分だと思ってる。
そのため、雲嵐の顔を見ると恥ずかしさが振り返して逃げ出したくなるのだ。さらに、雲嵐は自分から積極的に話しかけてこようとはしないし、使用人としての分を守ることを徹底している。だから気軽な会話は僕たちの間にはまだなかった。
こんなに人と仲良くなるのが難しいなんて。
無理せず時間が解決するのを待ちながら、ゆっくり関係を作っていけばいいと考え始めていた。
絡まった関係はなかなかほどけないものだ。
けれど、そんな中で気付くこともあった。
ある時、僕がお菓子を摘みながら伯母夫婦に充てて手紙を書いているときだった。雲嵐が僕の手元をちらちら見ていた。こんな風に仕事中に意識がそれるのは珍しいなと思うと同時に、手紙を送りたい相手がいるのかもしれないと思いついた。
また、授業から戻るとき、時々僕は思いついたように、庭にある大きな池とそれを繋ぐ川の上に渡された朱色の立派な橋を通ることがあった。雲嵐がその橋の上から興味深そうに悠然と泳ぐ鯉を視線で追いかけていた。
優秀な雲嵐でも勉強の遅れを取り戻すのは大変だろうと、僕の今まで記録したものや使わない手引書を貸してあげた。飴を包んで一緒に渡した。大量にある覚書の書かれた竹簡や書物を重そうに抱えて、わずかに表情を和らげたように見えた。本当に勉強が好きなのだ。
雲嵐の取り繕わない生の一面を垣間見た気がした。
それに雲嵐はここでは唯一の同年代だ。出来ることなら、いやどうしても気軽に話し合える関係になりたい。
あー……、どうかあの日のことは忘れてくれていないだろうか。
翌日、僕たちは午前の授業が終わって、自室に戻るところだった。俠舜が昼食の準備をしてくれているので、部屋までは雲嵐について来てもらう。
二人きりになれる機会は日に多くない。僕は意を決して話しかけた。
「あ、あの……。」
先を行く雲嵐が立ち止まって振り返る。
「はい。」
黒目がちな目には何の感情もうかがえない。
「何か御用でしょうか。」
そのとき、時期悪くぐぅとお腹が鳴った。一瞬止まる二人。
「申し訳ございません。気づきませんでした。空腹でございますよね。朝の授業お疲れ様でございました。お部屋に戻りましたらすぐに私も準備に回らせていただきますので、もう少々ご容赦ください。」
そう言って一礼すると歩き始めた。僕のお腹に裏切られて勇気が萎えた。
別の日。
「雲嵐は何が好き?」
「はい。」
「……。」
はいってなんだ?
別の日。
「侠舜は厳しくて辛くない?困ったことがあったら相談してね。」
「いえ。」
「あ、そう……。」
別の日。
「雲嵐は炒めた卵と茹でた卵はどっちが好き?」
「……。」
「……。」
そして今日。
「雲嵐は馬は好き?僕は刷子で世話をしてあげたときに嬉しそうにするのが可愛いと思うんだけど。」
「焼いた馬の肉が好きです。」
「え?」
……なんて?
ここ数日繰り返し話しかけ、ついに今日は一言以上の回答を引き出すことに成功したが、予想外の返事に会話を続けられなかった。これには、僕もあまりにも会話がかみ合わないことに心が折れそうというか、もしかして会話を避けられているのではないだろうか、とうすうす思い始めていた。
この時、僕は雲嵐に一歩遅れて、通いなれた通路を通って奥へ進んでいた。
さきほどまで長時間馬に乗っていたので、二人ともずいぶん疲れていた。さらに、一歩先を行く雲嵐にちょうど、後ろから少しでも打ち解けるべく話しかけていた時だったのも良くなかった。普段人と出会わないことが僕らを油断させてしまっていたのだと思う。どちらも人の気配に気付くのが遅れてしまった。
雲嵐が僕から話しかけられて、こちらに向き直ったまま歩いて角まで来た瞬間、突如現れた人物と彼とがぶつかってしまった。
しかし、これは仕方のないことでもあった。
僕が住んでる部屋のある場所は宮殿内でも特に奥まったところにあり、特別な用事がない限り使用人が掃除する以外に近寄る必要のない場所にあった。もちろん、通り抜けようと思えば、遠回りにはなるが、主殿から主上の私室、執務室へと抜けることも可能ではある。そんな場所なので、人がいるなど想像していなかったとしてもおかしなことではなかったからだ。
まだ子供の雲嵐は前方から突如現れた恰幅の良い男にはじき倒されてしまった。
僕は一瞬驚いた後、すぐさま雲嵐に近づいて膝をついて助け起こすと、その男のほうへ向き直った。
まずいと思った。身分あるものは下の者に容赦しない。
そのぶつかった男は驚いた顔をしたかと思うと、すぐに厳しい表情をしてこちらを見下ろしてきた。そして、僕を視界に収めると、わずかに目を細めるような表情をした。
僕はその顔に見覚えがあったので、わずかに記憶を探すと、それがこの国の尚書令つまり尚書庁長官の位階にある人物、蔡宇浩だと思い出す。一度俠舜に離れたところから、教えてもらったことがあった。
侠舜は彼について何と言っていただろう。
いけない。
僕は即座に立ち上がると、驚いて見上げている雲嵐とこちらを睨みつける宇浩の間に体を滑り込ませて彼を隠すと、相手が口を開く前に渾身の一礼をして名乗りを上げた。
「お初に目にかかります。ありがたくも主上が元でお世話になっております祥賢英と申します。大変恐れながら、貴方様は尚書令蔡宇浩様とお見受けいたしました。本来であればご挨拶にお伺いしてお目通りを賜りたく存じておりましたが、今の今まで叶わず、このような場でのご挨拶を奉ることに相成りましたこと、誠に心苦しく存じます。どうぞ、以後お見知りおきくださいますよう。」
私は彼に息を継がせずまくしたてた。どうか雲嵐のことがうやむやになりますように。
僕の突然の挨拶に目を見張っていた蔡尚書令殿は、我を取り戻すと僕に意味ありげな視線を送って口を開いた。
「これはこれは。誰かと思いましたら、其方があの祥賢英どのですか。思ったよりも大人の見た目をしているのですね。年若いときいていましたが。それに私のことを知っているなど思いもよりませんでした。宮の奥深くでひっそりと隠れ住んでいるものとばかり。私も貴方のお噂はかねがね伝え聞いております。なんでも、主上に恐れ多くも取り入ろうと画策し、主上が酔うているところにつけ込んで、まんまと懐まで入り込んだとか。どのような手段を用いたかは存じ上げませんが、卑しい身分に相応しい、花売りの真似事でもされたのでしょう。いや、失礼。ただの噂にございますれば、私などには真相はわかりかねます。きっと主上も物珍しく遊びのつもりだったのでしょうな。それを子供が勘違いなどおこして宮に居座ろうなどと。主上も寛大が過ぎる。このような者、責任など考えずに捨て置いても誰も気に留めぬというに。流石は慈悲深き皇帝にあらせられる。」
そう言ってこちらに嘲るような視線を寄越す。僕は心が重苦しくなるのを感じたが、一度息を深く吸って整えた。そんなことよりも、僕に食いついてきた。よかった。
「身に余る光栄に、このように高貴なる宮を歩き回る許可を賜りました。しかし、私は宮殿内では移動できる場所が限られております故、その様な噂は耳に届いておりませんでした。お心を煩わせたこと情けなく思います。聡明なる蔡尚書令様におかれましては、その様な根拠のない風説など信じる様なことは無いものと信じ申し上げておりますが。」
声が震えないか気が気ではない。できるだけ穏便に会話を終わらせたい。
「勿論私といたしましても、出所の不確かな話なぞ信じる謂れはありませんが、火のないところに煙は立たぬと申しますれば、主上にどこの馬の骨とも分からぬ童べなど手元に置いたりせぬ様、進言することもやぶさかではありません。」
それはもっと早い段階で言うべきことだったと思いますけど……。
「主上を心より案ずる貴方様のご厚意、きっと主上はお喜びになるでしょう。ですがこの件に関しましては、いささか早計かと、若輩の身ながら具申いたします。」
面白くなさそうな顔をする。
「様々な噂が流れているとは推察されますが、私が主上よりもったいなくも寵愛の一端を賜ることご承知いただいているものと期待しております。その上で、そのような根拠に欠ける下卑た噂を貴方様のような貴きお方がお信じになられるのは、宮を混乱に陥れるのみならず、主上の御身に対する信頼を損なうことに繋がるのではないかと愚考いたします。」
足が震える。こんなこと言って大丈夫だろうか。
「どうぞ真実をご自身の目でお確かめください。」
震える指先にも力を込める。
「その身に余る寵愛がいつまでも自分のものであるなどと期待せぬようご忠告申し上げる。飽きられる前に持てるものを持って早々に宮を出られるが良かろう。ここは子供のいて良い場所ではない故、何が御身に降りかかるか、予見することは誰にもできませんぞ。」
背がぞくりとする。
「ご忠告痛み入ります。重々肝に銘じたいと存じます。」
そう言って僕は目を伏せたい気持ちを押し殺してにっこりと微笑んだ。
侠舜に言われたことを思い出した。
そのままお互いに視線を逸らさず立ち尽くす。どうなるのか成り行きを見守るしかなかった。心臓が早鐘を打つ。
それからしばらくして、尚書令殿がしびれを切らしたように口を開いた。
「卑しき身分出身の者には理解できぬことかもしれぬが、目上の者には道を譲るものですぞ。これだから平民は。これでは主上のお顔に泥を塗ることになりましょう。」
僕は必死で乾いた笑みを顔に張り付けたまま目を逸らさないよう自分を叱咤する。怖い。
苛立たしそうだった尚書令殿が怒りに顔を紅潮させる。
「道を空けよと申しているのがわからないのか!」
人を使うことに慣れた人の、怒鳴る言葉の圧力に首を竦めそうになる。
しかし、ここで折れるわけにはいかなかった。一度でも下に見られたら、僕の宮での立場は地に堕ちる気がしたから。
「大変申し訳ございませんが、私があなたに道を譲る謂れはございません。教育の行き届かぬ卑しき身故。私が従うは主上のみにございます。その主上から貴方様に道を譲るようには仰せつかっておりません。もし、不満がございますれば主上へと奏上いたしますよう申し上げます。」
尚書令殿が絶句する。そりゃあそうだ。
「僭越ながら、私も人を待たせておりますので、道をお譲りくださいませんでしょうか。ここで時間を無駄にするわけには参りません。私もこう見えて予定が詰まっております。主上には私からも、尚書令様に私から道をお譲りする旨ご相談申し上げておきましょうか?」
「なんという身を弁えぬ発言。非常に不愉快である。お前のようなものが主上と言葉を交わすなど、不遜にもほどがあろう。これ以上ここにいることは私の品位に傷をつけることになる。もう話すことは何もない。失礼いたす。」
そう言って足音高く、僕を押しのけて尚書令殿が大股に横を通り過ぎていった。
僕は後ろを振り返ることができず、しばらくの間そこに立ち尽くした。
それから足の震えを力を込めることで治めると、床に座り込んだままの雲嵐に手を貸して彼を立たせた。僕の手はまだ震えていた。
あのような噂があることなど僕は知らなかった。胸に苦い思いが広がった。雲嵐に聞かれてしまった。どう思っただろうか。真実ではないとわかってくれるだろうか。こんな汚らわしい主など願い下げだと思われたらどうしようか。
僕は彼とは仲良くなどなれないと思った。雲嵐のほうが嫌がるだろう。
僕は視線を合わせないようにして声をかける。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございました。」
「なら良かった。さぁ僕の部屋まで帰ろう。歩ける?」
「はい、お気遣いは不要でございます。大変なご迷惑をおかけしたこと平にご容赦ください。」
「そんなこと気にしなくていいよ。僕にできることはあれくらいだから。」
「いえ、賢英さまがかばってくださらなければ私はどうなっていたかわかりません。心よりお礼申し上げます。」
僕は会話を打ち切って彼を連れて帰った。侠舜が食事の準備を万事整えて待っていた。僕たちが遅いのをいぶかしんでいるようだった。
「随分遅いお戻りでしたが、何かありましたか?」
僕らの様子を窺うように見ている。心の奥を見透かそうとしているようだった。
「庭にある池に渡した橋の上から鯉を二人で眺めていて、遅くなりました。ご心配をおかけしました。」
後ろで息をのむ音が聞こえた。
侠舜はうかがうように雲嵐に一瞥をくれたが、結局何も言わなかった。
「そうですか。午後の予定も控えておりますので、お急ぎください。」
そう言って僕を卓に座らせると食事の合図を出した。侠舜と雲嵐は一礼して部屋を出ていった。
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