皇帝の寵愛

たろう

前段

第1話 始まり

 その日、大陸中央にある明帝国は、長く戦争状態にあった隣国を打ち滅ぼした。早馬で宮殿へとすぐに伝令が走り、その知らせは片道十日の道のりを六日で駆け抜けて皇都へとたどりついた。その日この国最大の都市は歓喜の声につつまれた。

 戦勝の第一報から一月、隣国のもろもろの調整を終えた皇帝が隊列を為して戻ってくると、今や遅しと待ちわびていた人々はみなその晴れ姿をみるために大通りに大挙しておしよせた。

 二十八と年若い美丈夫である皇帝は、その黒い瞳で自分を暖かく迎え入れる民に、馬上で鷹揚に手を掲げながら宮殿へ進んでいった。その凛々しい姿に多くの娘たちが感嘆のため息をこぼし、男たちは戦争に終止符を打った賢帝に称賛の声を上げた。行列はゆっくりと進み、長い時間をかけて宮殿へ辿り着くと、すぐに戦勝の宴が催された。

 皇都に向けて各地の貴人たちが、勝利へと導いた皇帝への拝謁を賜る栄をわがものとせんと、列をなして詰めかけた。

 そのため、皇帝は休まるときなく続く挨拶と称賛と縁談を聞かされ続けた。

 皇帝その人はすでに後宮に十人近い妃を囲っており、子供もすでに三人の皇子と三人の皇女がいたため、これ以上の妃は必要ないと発表されていたが、歴代の皇帝と比較するとその数は実につましいものであった。先帝はその十倍近くの妻を持っていし、子の数も歴史を通じて十人以上を持った皇帝がほとんどであった。

 そのため、まだ妃を娶る余地は十分にあると考えるのは当然のことだった。少しでも皇帝と縁を結びたい貴族たちがこぞって娘を差し出そうとやっきになった。

 皇帝と縁続きになって新たに手に入れた領土に封じられんと画策するものたちが後を絶たなかった。




 宴会の会場は宮殿内の最も広い大広間で行われた。今日はその三日目だった。日々訪れる官僚や軍人に加え各地の貴族たちが集まり、戦勝の喜びに酔いしれているそばで、僕は必死に料理や飲み物を運び、空になった皿を下げ、ぶちまけられた料理や飲み物を掃除してまわった。

 あちこちで貴人たちが車座になって座り乾杯の音頭をとっている。宴では、この国を悩ませ続けた隣国との戦いに疲弊していた軍人たちのみならず、官僚たちもまた晴れやかな顔で杯を交わしあった。

 あまりの騒々しさに耳がおかしくなりそうだったけど、さすがに最終日ともなればだいぶ人も減った。初日と二日目の喧騒は死ぬまで忘れないだろうと思わせるものだった。料理人や給仕たちはみな疲れ果てていた。急遽集められた臨時の雇われ人たちがせかせかと動き回っている。

 僕もこの日は下男として宮殿に来ていた。雇用条件は十六歳以上で身元がしっかりした者。本来ならば十四にしかならない僕は働くことなどできなかったが、体だけはすくすくと育ち、中身はともかく外見だけは十七、八歳に見えるため、年齢を偽って採用された。

 父と母は小さいうちに亡くなっていたので、長く母方の伯母の家にお世話になっていた僕は、少しでも恩を返そうと、料理人である伯母の夫の縁故で宮殿に入り込むことができたのだ。

 実際に働いてわかったことは、貴族も軍人も官僚もみな自分と同じ人間であるのだということだった。大人たちはみな貴人というのに、そのことを感じさせないほどに酔い潰れ、歌い騒ぎ笑い転げている。まるで庶民のお祭りのようであった。今日は無礼講だと皇帝が言ったために、普段ではありえないほどの大騒ぎなのだと給仕たちは言っていた。その酔いつぶれた男たちの間を縫うようにして僕は料理や酒を配っていく。

 多くの女が男たちを持て成すために舞を舞い、歌を歌い、杯に酒をついでいく。彼女たちは男たちの下卑た視線を一身にうけながら涼しい顔で相手をする。一人二人と男女が宴の会場から姿を消していくのを横目でみながら、僕は僕で一生懸命に仕事をこなした。

 宴もたけなわ、日が暮れ夜も更けてくると、あまりにも疲れすぎて柱の陰で一休みした。みつからないようにこっそり一息ついていると、突然声をかけられた。僕は見えないと思っていたところで声をかけられ、飛び上がるほど驚いてしまったが、すぐに居住まいを正して呼ばれた方を見る。

 何人も赤い顔をだらしなく笑み崩している男たちの中で若い男がこちらにむけて手を挙げていた。それがだれであるかすぐにわかった。

 この三日というもの、毎日大勢に囲まれ誉めそやされているこの宴の主人、皇帝その人だった。

 僕は我知らず緊張し背中にいやな汗をかいた。この三日というもの主上から声をかけられたことはなかったからだ。僕は粗相をしたら殺されるかもしれないと自分に言い聞かせながら、頭をたれながら近寄った。

 無礼講といいながら、さすがに自分のような下男がお顔を直接みるなど不敬極まりない。万が一お声をかけられても、許しを得るまでは絶対に顔を上げるなと上席の者から厳しく言い含められていた。まさか本当に声をかけられるとは思ってもいなかったけど。

 近寄って言葉をかけられるのを待つ。自分から許しもなく言葉を発するわけにはいかない。

 視界に絹のすそがある。つややかな光沢の布地に皇帝にのみ許される竜の刺繍。全力疾走したあとのように鼓動が早鐘を打つなか、やっと顔をあげることを許された。

 視線をあげると遠めにみていた人物が目の前にいた。先の皇帝が数年前に崩御され、その後継として皇太子が皇帝に即位されたのは知っていたが、本当に若いとは思わなかった。長年の戦争に終止符をうつほどの方なのだから、なんとなく年齢よりも老成したような見た目をしているのだと思い込んでいた。

 黒髪と黒い瞳に、くっきりと形の良い眉、形の良い鼻、全てが計算し尽くされたような素晴らしい配置で並ぶ顔は、男らしくも優美であり、同時に健康的な若さを放っていた。体も軍人のようにがっしりとしている。

 その瞳に見つめられて何故か鼓動が一つ跳ねた。

 そして、こんな顔だったのかと僕はまじまじと見つめてしまった。

 それからすぐに、まっすぐに目を合わせるのはあまりにも失礼であったことに気付いて一気に顔が青ざめ、すぐに視線を下へそらした。

 ごまかすように早口で御用はなんでしょうかと尋ねると、主上は自分の左隣の空いた席をたたいた。ここに座って盃に酌をするようにと仰せつかった。

 美女が大勢いるのになぜ自分が呼ばれたのか、自分のようなものが主上の横に座ってよいものかと逡巡したが、待たせるのもまた失礼なのだと思い至って、僕は恐る恐る膝を折った。

 周りで男たちを世話する女たちの視線が突き刺さるのを感じた。

 主上は美しい銀の盃を手にもって僕の方へ差し出してきたので、手近の葡萄酒の瓶を持ち上げゆっくりと注いだ。こぼしてお召し物を汚してしまったら僕の首が飛んでしまうかもしれないと思うと、注ぎ口がかすかに震える。

 無事注ぎ終えると主上は一息に盃を煽って空にし、僕にもう一度差し出した。三日も飲み続けてまだ飲むのかと僕はあきれたが、そんなことはおくびにもださずに再び盃を満たした。

 年齢を偽って働いているという後ろめたさと、雲の上の方々に粗相をしてはいけないという思いから、二杯目を注ぐと僕は逃げるように急いで立ち上がろうとした。するとすかさず横から声をかけられた。見るとこちらを観察するような黒い視線とかちあった。

 僕の鼓動はさらに速くなった。

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