マスカレイドアバター

雨野 美哉(あめの みかな)

プロローグ

 加藤学が心を閉ざし、その部屋に引きこもるようになって十六年がたっていた。

 高校受験に失敗したのをきっかけに、十五歳から引きこもりをはじめ、気づくと三一歳になっていた。

 ひきこもりの彼は、もう十年以上も昼夜逆転の生活を送っており、その日も眠りについたのは明け方のことだった。

 彼は胎児のような寝相でベッドに眠っていた。

 それは少年の頃からの癖だった。

 彼の胎内回帰願望のあらわれだ。

 彼は母親をもう十六年も拒絶しているというのに矛盾した話だった。

 しかし誰かがそう言えば、還りたいのはあの母親の胎内ではない、ときっと彼はそう答えるだろう。

 彼が母を拒絶するように、母も彼を十六年間拒絶し続けていた。

 一応は毎日決まった時間に三度の食事を与えられていたが、彼はもはや家族としては数えられていなかった。

 学には妹がおり、妹は高校三年生だった。彼とは一回り以上年が離れていた。

 内申点がオール5ではないと入学が困難な県立の最高レベルの朝日ヶ丘高校に通っており、県内でトップクラスの高校生たちが通うその学校でも成績はさらにトップクラスだと聞いていた。特に英語が得意で、外国なら飛び級で大学に進学できるほどだそうだった。両親は妹に留学を薦めていたが、妹は彼を放ってはおけないと両親の希望を頑なに拒み続けていた。家で彼の相手をしてくれるのは、そんな兄想いの優しい妹だった。

 けれど、妹の顔を彼はもう何年も見ていなかった。

 彼は自分以外の者が自室に入ることを頑なに拒否しており、妹とはドア越しに携帯電話のRINNNE──無料通話アプリで会話を交わすだけだった。

 妹は彼の代わりに両親や親戚から度を過ぎた期待をかけられていた。そんな妹に申し訳ないと思う一方で、もはや両親や親戚から何の期待などかけられなくなっていた自分に安堵していた。

 彼はこのまま一生、夜間や通信の高校や大学に進学することも、就職やアルバイトを探すこともなく、この部屋で寿命をまっとうすると決めていた。毎日のように自分は生きる価値などないと自己嫌悪にさいなまれていた。けれど自殺する勇気がなかった。インターネットの闇サイトで、自殺に必要なものは青酸カリから練炭まで一通りそろえていたが、自殺を決意し、決行に移そうとすると途端に死に対する恐怖が彼を駆り立て、実行に移すことは一度もできなかった。手首を切るといった自殺未遂すら彼にはできなかった。

 世界のどこかに本当の母親がいるのだと彼は信じていた。

 その母になってくれるかもしれない女性に彼は早く会いたかったが、彼にはその部屋から出る勇気がなかった。

 部屋は薄暗かった。明かりはついておらず、カーテンも閉め切られていた。

 つけっぱなしのテレビから淡い光が漏れているだけで、昼か夜かもわからない。

 32インチのテレビ画面の左上に時刻が表示されていることから、かろうじて朝だとわかる。

 テレビでは40年の歴史を誇る特撮ヒーロー番組「マスカレイドアバター」の最新作、その第49話──最終回──が流れていた。

 日曜日の朝の八時すぎだった。

「う……ん」

 学は寝返りをうった。

 彼はもう何年も、毎日のように悪夢を見ていた。

 不眠症で、医者に処方された睡眠薬を大量に服用しないと眠れず、眠れば悪夢にうなされる。医師に毎日のように悪夢を見て、朝起きると情緒不安定になると訴えたこともあったが、医師は夢と心の病には因果関係はない、と切り捨て、少しだけ強い薬を処方しただけだった。

 だから彼は毎日目が覚めると一番に精神安定剤を大量に服用した。

 彼が学校にも通い、普通の生活を送っていたのは十五歳までのことだった。

 そのたった十五年という時間は、彼が自分自身と彼が生れ落ちてしまった世界に絶望するのに十分な時間だった。

 幼い頃は神童と呼ばれた時期もあった。しかし、彼は十五歳で自分が世界にとって必要ではない存在だと気づいた。世界は彼に対して冷たく、そして何よりも残酷だった。

 生きている意味がわからなかった。かといって死ぬ勇気もない。だから彼はこの部屋で寿命を迎えるまで過ごすと決めた。あるいは、母か誰かが自分を殺しにやってくるのを彼は待っていたのかもしれなかった。

 枕元に置かれていたスマートフォンのアラームが鳴った。

 部屋に自分以外の誰が入ることを拒み続けていた彼に、妹が両親に頼んで彼用に契約した携帯電話だった。親しい友人も恋人もおらず、親からも見離された彼には電話やメールをする相手などいなかったから携帯電話なんてものは不要だったが、時計代わりにはちょうどよかった。毎月の料金を考えれば、腕時計のひとつでも買った方が安上がりだが、料金を払っているのは彼ではなかったからどうでもよかった。それに、携帯電話は彼にとって、その部屋の外の世界、妹と唯一コミュニケーションをとれる手段であった。

 携帯電話に表示された時間は午前8時25分。

 テレビではマスカレイドアバターがまもまく終劇を迎えようとしていた。

「ん……」

 学は布団から手を伸ばし、

「ぷぷるんの時間だ……起きなきゃ……」

 そう言って、スマホを手に取った。

 未来星人ぷぷるん。数年前からマスカレイドアバターの後に放送されるようになった女児向けのアニメで、未来の宇宙からやってきた未来宇宙人が魔法少女変身して、世界征服をもくろむ魔女たちと戦うアニメだった。彼の人生の唯一の楽しみだった。

 学はゆっくりと起き上がった。

 また悪夢を見た気がするが、よく覚えていなかった。今朝は不思議と気持ちも落ち着いており、今日は寝起きにすぐに薬を飲まなくてもよさそうだった。

 指でスマホを操作し、アラームを消そうとしたが、しかしスマホは彼の指に何の反応もしなかった。

「なんだよ、これ、壊れてんじゃねーか」

 彼はスマホを放り投げたが、相変わらずアラームが鳴り続ける。

「うるせーなぁ」

 枕や布団を放り投げてかぶせ、アラーム音を小さくした。放っておいてもアラームは数分もすれば止まるように設定されていた。彼の人生の唯一の楽しみの邪魔にはならないだろう。

「くそっ、ババアに修理に出すよう言っとかねーと」

 ババアと、彼は母親をそう呼んでいた。世界で唯一彼に優しくしてくれる妹には極力面倒をかけたくなかった。

「そんなことより、ぷぷるんだよ、ぷぷるん。えーっと、リモコンはどこだ? リモコン……リモコン……」

 この十六年で彼は部屋で独り言を言うことが多くなった。ひきこもりはじめたばかりの頃は話し相手などいないから言葉を発することはほとんどなかった。すると一年もするうちに自分がどんな声をしていたかも忘れてしまった。それはとても恐ろしいことだった。だから独り言を言うようになった。自分の声を忘れないために。十五歳でこの世のすべての喪失感を味わったつもりでいた彼は、自分までも失わないように必死だった。

 手探りで枕元を探すがリモコンは見当たらなかった。

 しかたなく起き上がって、部屋の明かりをつけることにした。

 彼が部屋の明かりをつけたり、カーテンを開けたりすることは滅多になかった。

 部屋には可燃・不燃問わずゴミが散乱し、足の踏み場もなかった。おまけに小便の入ったトイレ代わりのペットボトルがいくつも並んでいる。自分の部屋だったが、とても人間が生活する空間には思えなかった。だから彼は極力明かりをつけず入れず、部屋を見ないようにしていた。

「きたねぇ部屋……そろそろ掃除でも……」

 学はまた独り言を言った。今日は本当に不思議と気分がよかった。ぷぷるんが終わったら、この汚い部屋の掃除でもしようかと思えるほど。

 けれど、

「やっぱりババアにやらせるか……」

 彼はそう言って、床に落ちていたリモコンを見つけ、テレビに対面しリモコンを向け、電源ボタンを押す。

 つけっぱなしだったテレビの電源が落ち、画面は真っ暗になった。

「なんだよ、テレビついてたんじゃん」

 夕べ寝る前につまらない深夜アニメを見た。大量の睡眠薬のせいでテレビを消す前に意識を失うように眠りについてしまったことを思い出した。

 もう一度電源を入れようとして、暗い画面に写る人ではない者の存在に彼は気づいた。

「ん?」

 赤い仮面を被った奇妙な存在だった。仮面だけではない、強化外骨格? パワードスーツ? とでも言うのだろうか、昆虫のようなそれに全身を包まれた、まるで特撮ヒーローのようだった。

 学は振り返り、部屋を見渡したが、そんな存在は部屋には見当たらない。しかし、テレビの画面には写っている。そしてそこにはその者だけが写りこんでおり、本来写っているはずの自分の姿はなかった。

「これ、もしかして、俺……なのか?」

 学はテレビに顔を向けたまま、手で顔を触ってみた。

 すると、テレビに映る特撮ヒーローもどきが手で仮面を触っていた。やはり、この特撮ヒーローもどきは自分なのだ。

 肌に触れた感覚はなかった。硬い金属か何かに触れているようだった。

 今度は手を見る。

 手も自分が知っているものよりひとまわり大きく、皮手袋をしているようだった。

 学は中学生のとき、メガネからコンタクトレンズに変えたときのことを思い出した。極度の近視と乱視で両目で0.03しか視力がなかった彼は、店で一番薄く高いレンズを選ぶしかなく、店によってはレンズだけで数万円もした。それでもレンズはフレームからはみ出るほど分厚かった。メガネは度が高ければ高くなるほど物が小さく見える。乱視用のハードコンタクトレンズに変えたのは中学二年のときだった。それに変えると、目に見える物の大きさが変わった。あのときの感覚に似ていた。結局コンタクトレンズは目に物を入れるのが怖くて、長続きしなかった。母が無駄な出費だったと彼を罵ったことを今でも覚えている。

 そういえば、自分は今日はまだメガネをしていないということに彼はいまさらながら気づいた。

 メガネをしても、両目で1.0見えるかどうかといった視力と度だったが、今は部屋の隅に無造作に詰まれた漫画雑誌の表紙のどんな小さな文字も読むことができた。2.0、いや、それ以上見えているかもしれなかった。この仮面が目をよく見えるようにしてくれているのだろうか。

 詰まれた漫画雑誌の奥には姿見が置かれていた。メガネからコンタクトレンズに変えたり、まだお洒落に気を遣っていた中学生時代の名残だ。

 中学時代の彼は一六四センチの身長で、体重は八〇キロ近くあった。この部屋にひきこもるようになった頃、彼が食事が喉を通らなかった。かろうじて水やお茶、スポーツ飲料水だけは飲めた。そのため一年で体重は30キロ減り、しかしその後の数年で食事をとれるようになった彼は見事にリバウンドしてしまって、今では体重は100キロ以上あった。醜く太った自分を見るのが嫌で、彼は数年前に姿見を叩き割っていた。

 割れてひびの入った姿見には、ひびの数だけ特撮ヒーローもどきが写っていた。やはり、醜く太った自分の姿はどこにもなかった。

 姿見に写る特撮ヒーローもどきが何と呼ばれているか、学はよく知っていた。

 四十年以上の歴史を誇る特撮ヒーロー「マスカレイドアバター」。


 この部屋に引きこもって、十六年。

 酉歴2013年、秋。

 日曜の朝目を覚ますと、加藤学は人気の特撮ヒーロー・マスカレイドアバターになっていた。

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