戦場に咲く花

大谷寺 光

プロローグ

 奈々香はブランケットを敷いて、その上に俯せになっていた。両肘を付いて背中を反らせている姿は、まさにコミックを読み耽っている女子高生そのものだ。「女の子がそんなだらしのない恰好をするんじゃありません!」とは、口うるさい母親の口癖である。そんな時でも奈々香は、「いいじゃん、別にぃ~。誰も見てないんだしぃ~」と言って、一向に行動を改める気配は無いのだが。

 大宮の名門女子高校の制服である、明るいグレーに薄い白の横ストライプのミニスカート ──校則的に言えば、実はさほど短いスカートではないのだが、彼女たちは腰の部分で折り返して可愛くミニに仕上げているのだ── から延びる健康的な脚を左右交互にパタパタさせている。この秋空の下でお気に入りのネコ柄のブランケットを広げれば、ノンビリとしたピクニック気分も盛り上がると言うものだ。その空は高く何処までも澄み渡り、透明な日差しを浴びた彼女のポニーテールが楚々と吹く風にそよいでいた。

 奈々香の隣にはベースのソフトケースが転がっている。黒い布製で、肩に掛けるストラップが取り付けられているそれは、おおよそ殆どのエレクトリックベースが収納できる汎用性のあるものだ。もちろん手さげ用の取っ手も付いていて、そこには緑色のゴジラをあしらったマスコットがぶら下がっていた。

 「そろそろかなぁ・・・」

 奈々香は誰に言うともなく、そう呟いた。

 左腕にはめた可愛らしい女性向けのG-SHOCKを確認した彼女は、パタパタしていた脚を降ろし、眼下に広がる荒川と、その奥に続く街並みを見つめた。この小菅に有るビルの屋上からは、川向こうの北千住辺りが一望できる。その様子をジッと見守る奈々香は動きを止め、風景の一部と化した。

 そのまま暫く経つと、それを人間として認識できなくなった雀が三羽、チュンチュンと鳴きながら彼女に近付いてきて、そのうちの一羽が彼女の背中に乗った。その一羽は、神社の境内の枝に括り付けられたおみくじをつつくように、奈々香のポニーテールをまとめているリボンを引っ張るのに忙しそうだ。


 それがビルの陰から姿を現すのを、奈々香はスコープの中で確認した。時間通りだ。事前に手渡された資料で、その人相だけでなく行動パターンも記憶している。オフィス街のランチタイムに合わせ、中華がゆのデリバリーバンを運転するその男こそが、紛れもなく今回のターゲットである。太り過ぎの身体を無理やり白衣に押し込んで、頭にコック帽を載せているその姿は、どこかの食品メーカーのマスコットキャラであるブタさんのようだ。

 よく見れば、彼の運転するバンの側面にも、同じようなブタさんのイラストが書き込まれているではないか。その楽し気な表情から、きっと彼の作る中華がゆは美味しいに違いないと思われた。しかし奈々香は思う。残念だけど、それも今日で終わりねと。だって、今日のブタさんが運んでいるモノは、中華がゆではないという情報が入っているのだから。

 バンのフロントガラス越しに見えるブタさんの眉間に、スコープの中の『十の字』を合わせる。そして奈々香はゆっくりとした呼吸を繰り返した。息を止めてしまうと変な所に力が入り、上手くゆかない。浅く静かに呼吸し続けることが大事なのだ。クラスメイトたちはそれをルーティンとかジンクスと評したが、彼女はそうは思ってはいない。それはこれまでに培ってきた経験に裏打ちされた、彼女なりのもっと確かなものなのだ。

 そして奈々香は軽く引き金を引いた。


 タンッ・・・ 手応えあり。


 デリバリーバンのフロントガラスには、小さな穴を中心に放射状に広がる白濁した模様が現れた。ブタさんの眉間から噴出したのであろう鮮血がその背景を内側から真赤に塗り潰し、複雑な模様のコントラストを強調した。

 銃弾が発射されたことに気付きもしない雀たちは、奈々香の周りで戯れ続けている。遂に彼女のポニーテールを解くことに成功した一羽は、楽し気に羽をばたつかせてその喜びを表現した。

 一層際立って映える前衛芸術的な絵画のようになったフロントガラスによって、車内の様子を窺うことは出来なかったが、バンはコントロールを失いそのまま車道脇の銀杏に突っ込んで止まった。

 ひしゃげた運転席のドアが半端に開き、その奥からブタさんの生気の無い腕がダランと垂れた。ラジエーターから立ち昇る湯気が、ここから見てもシューシューと音を上げていそうだ。彼女はスコープで念入りに廃車確実のバンを観察する。そして車体の下に何かの液体が黒々とした染みを形作っていることを認めた。

 奈々香はその染みに向かって、もう一発銃弾を放った。銃口から放出されたそれが染みの浮き出たアスファルトに着弾し、その弾みに飛び散った火花が液体に引火した。バンは一瞬で燃え上がった。


 ターゲットの破壊を確認し、再狙撃の必要は無いと判断した奈々香はゴロンと転がり、横に放り出されていたベースのソフトケースを掴む。その時になって初めて、雀たちはそれが人間であったことに気づき、慌てて飛び立ったのだった。

 敷いていたネコ柄のブランケットを丁寧に折りたたんで、ソフトケースの横のポケットに入れた。そして同様に、相棒であるレミちゃんこと、M24 SWSを、本来ならベースが入る部分に仕舞い込んでいる時のことだ。川向こうの北千住側のビルの屋上でキラリと光る何かを、奈々香の視界の隅が捉えた。

 その瞬間、彼女はいきなり横っ飛びに転がった。あまりにも急な動きで、彼女の短過ぎるスカートがめくれて可愛らしい下着が丸見えになっているのにも構わず、彼女は仰向けのまま姿勢を低くした。それと同時に、このビルの屋上を取り囲むように敷設されている手摺が、「キンッ!」という金属音を立てた。

 「くっそぉ、やったわねぇ・・・」

 敵の狙撃手が放った弾丸が、こちらのビルの手摺をかすめたのだ。彼女はすぐさま俯せになってソフトケース乱暴に背負うと、髪からハラリと落ちたリボンを鷲掴みにし、匍匐前進で姿勢を低く保ったまま下階への入口へと退避した。屋上のザラザラしたコンクリートの床に擦れた肘や膝小僧が擦り剥けて血が滲んでいたが、そんなことを気に掛けている場合ではない。ドアを開けてその中に飛び込み、敵の死角に入ったところでようやく一息を付いた。

 「ふぅ~・・・ 今のはちょいとヤバかったかしら・・・」

 そこから顔を出し、相手の位置を確認したい衝動にかられたが、それこそ敵の思うつぼだ。狙撃とは容易に攻守が交代できるゲームではないのだから。狙われた者は徹底的に狙われ続けるしかない。もし攻守交替する権利が得られるとしたら、それはこの窮地を生き延びた者にのみ与えられる特権だということになる。


 相棒のレミちゃんが入ったソフトケースを「よいしょっ」と肩にかけ直すと、奈々香は何食わぬ顔で階段を下りて行った。この借りはまたの機会に、奈々香はそう思っていた。そして最上階の廊下の奥にあったトイレに入り、血の滲んだ肘や膝を水を含ませたたハンカチで処置している時のことだ。ふと振り返った彼女の目が捉えたのは、一辺が三十センチほどの正方形の窓だった。格子状のワイヤー補強が斜めに入ったガラスを通して外を見通すことは出来ないが、窓枠の下部の僅かに開いた隙間から、眼下を流れる荒川が垣間見えた。

 奈々香は思った。この窓は、先ほど自分に向けて発砲した敵のいる北千住側に面している。ここからこっそりと覗き見れば、敵が陣取っていた場所を特定できるかもしれない。それは、今後の任務を果たす上でも貴重な情報になるはずだ。何故ならば、狙撃兵が狙われる立場になることだけは、何としても避けねばならない事態だからである。

 とは言え・・・ と奈々香は思った。その敵が十分に優秀だった場合、私がここから外を窺うことを予期しているかもしれない。もしそうだったら、ノコノコと顔を出そうものならたった一発で頭を吹き飛ばされてしまうだろう。奈々香はその窓が埋め込まれた壁に背中を預け、ソフトケースで揺れていたゴジラを取り外した。そしてゆっくりとそれを窓から覗かせた。


 ボフッ。


 その後に続いたピシッという音と共に、反対側のタイル張りの壁に銃弾がめり込んだ。奈々香の指から吹き飛んだゴジラはトイレの床に転がったが、その頭は既に消失している。元はゴジラの頭部であった破片は細かな繊維となって宙を舞い、窓から差し込む日差しを受けてキラキラとした不思議な光の筋を形作っていた。奈々香は壁に背中を押し付けたまま、その場で座り込む。

 「やっばい奴がいるなぁ、もぅ・・・」

 そして雀に解かれたポニーテールを結び直した。

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