第三章 第四節 野獣の独奏

 大和さんが営業を代わってくれた翌日、俺はスクーターで早めに備糸市まで入った。ゴッドロックカフェへの道は外れて、店のエリアを超えて突き進む。目的はエカさんの忘れ物を届けることだ。


 昨日トラブルを起こしたばかりなので気まずかったが、俺はエカさんに忘れ物を預かっている旨のメッセージを送っていた。しかしエカさんから返事はおろか既読すら付かなかった。やはり避けられているのだろうか?

 これだと次はいつ店に来るのかもわからない。けど忘れ物が交通系ICカード入りのパスケースだから日常的に必要なものだ。渋々と言った感じで家まで直接届けるために走っている。


 その道中は昨日のことばかりが思い出される。いや、道中だけではない。昨日は帰宅してからもずっと考え事ばかりしていて眠れなかった。唯先輩に言われた俺がいけなかったことの本質。エカさんが泣いてまで引き留めた理由。今でも混乱している。

 結局答えは見つからないまま、俺はエカさんの住む住宅街まで到着した。車がすれ違える程度の生活道路。ここを1回折れると小ぶりな一戸建てのエカさんの自宅は見える。その最後の角を曲がった時だった。


 キュッ!


 俺は慌ててブレーキを握った。その時のブレーキ音が目の前の人たちに聞こえていなくて良かったと思う。俺の視界が捉えている人影。それは男と一緒に家から出てきたエカさんだった。

 ハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えた。エカさんはその男と親密な様子で、寄り添って歩いている。しかもあの男見覚えがある。


「なんで……」


 思わず声が出た。男は俺の1つ年下でゴッドロックカフェの貸しスタジオを利用する高校生ベーシストだ。


 エカさんと児玉恒星は庭先のガレージに停めた単車に2人で跨った。いつかエカさんが俺のスクーターも単車と言った。しかし児玉恒星が運転席に跨った単車はその呼び名が当然の中型車だ。今の自分がみすぼらしくて恥ずかしい。


 ゴォン!


 単車が一度エンジンを吹かした。児玉恒星は既にフルフェイスのヘルメットを被っており、後ろに跨るエカさんは半ヘルメットだ。後ろのエカさんが児玉恒星のベースを背負って、両腕はしっかり児玉恒星の腹に回している。更に頬は彼の背中に預けている。それだけも親密な様が窺える。


「あぁ……」


 なんで今まで気づかなかったのだろう。彼がスタジオを利用する日はエカさんがバーに来店する日だ。エカさんの背中のベースを目にしてこんな場所でこんなことに気づくなんて。


 もしかしたら俺の方に向かって来るかもしれない。俺はそれに気づいて迂回し、スクーターごと物陰に隠れた。案の定2人を乗せた単車は俺がいた道を過ぎて行った。なんだろうこの気持ち……。


 俺は頭が呆然としながらも先ほどエカさんと児玉恒星が出てきた庭先まで移動した。そして表札を兼ねたポストにエカさんのパスケースを入れる。

 表札はエカさんの苗字が表示されていたと思うが、それはアルファベットで、文字が転がって見えた。なんで自分はこんなに混乱しているのだろう。そのアルファベットを読み取ることもできず、数秒後にはどの文字があったのかも覚えていない。


 俺は来た道を引き返していた。半ヘルメットなので顔に直接風が当たる。目の端から汗が染み出ている。いや、涙か。情けない。今日は風が強いってことにしておこう。

 自宅から男と親密そうな距離で出てきたエカさんが頭から離れない。あぁ、あの時感じた衝撃は嫉妬か。つまり俺はエカさんに惚れていたのか。

 振り返ってみれば自分の気持ちに気づいてもいいものだと今更ながらに思うが、唯先輩の存在がそれを阻害した。しかし唯先輩と再会して痛感した彼女との距離感が、この日は嫉妬を自覚する自分を阻害してくれなかった。


 俺はもう今ではエカさんのことが好きなんだ。しかし気づいたと同時に失恋か。

 唯先輩の時のように玉砕覚悟で実際に玉砕してスッキリなんてわけにはいかない。エカさんは、特定の人はいないと言っていたのに年下の恋人がいた。嘘で隠されたことがとにかく痛い。

 自分のプライベートはのらりくらりと躱していたエカさんだ。本当のことを言うはずがないと頭ではわかっていても惨めだ。


 そんなことをばかりを考えているとゴッドロックカフェに到着した。すると表には数分前に見た単車が停まっていた。ここにきて漸く気づいた。今日は児玉恒星の予約が入っていた。気分が重い。彼は単車の脇でベースを抱えていた。エカさんの姿は見えない。


「すぐ店開けます」


 俺はスクーターを下りるとなんとかそれだけ言った。店の鍵を回しながらちゃんと愛想のいい表情はできていただろうか? と振り返る。いや、どうせいかつい顔の俺だ。そんなことは今更か。

 いつものとおり児玉恒星は無口だ。ドアを開けて前室に入った俺に黙ってついてくる。


「あんたさ」

「ん?」


 と思っていたら、児玉恒星が話しかけてきた。虚を突かれて俺は前室で足を止める。


「進めよ」

「あ、すいません」


 年下に対してこのやり取りだ。こんな時は年齢優先なのか、スタッフと客の関係が優先なのか、それが掴めない人生経験の乏しい俺である。ただどこかに「年下のくせに生意気な口調だな」と内心で罵る小さな自分もいる。


「オーロラ抜けたの?」

「え?」


 思わぬ話だったので驚いた。この時はもう入り口に一番近いカウンター席まで進んでいて、彼の受付を客席側から対応しようとしていた。とは言えよくよく考えればエカさんと親密な仲の彼だ。エカさんから情報がいったのだろう。


「抜けたも何も、1回ライブに立っただけだから加入してたのかも怪しいけどな」


 実質俺の加入期間は約1カ月。スタジオ練習が数回とライブが1回だ。言葉にして本当にメンバーだったのかという疑問にたどり着くからちょっとおかしくなった。


「抜けて正解だよ」

「え?」


 児玉恒星はそれだけ言うと会員証を押し付けるようにして店の奥まで進んだ。俺は彼の背中を呆然と見送る。どういう意味だ?


 カランカラン


 するとすぐ傍のドア鈴が鳴った。俺が振り返るとそこにはエカさんが立っていた。今までどこに身を隠していたのか、まさか来るとは。確かに児玉恒星との来店の関係性には気づいたが、昨日の今日で気まずい。


「こんにちは」

「いらっしゃい」


 控えめな挨拶だったので俺もいつもよりは小さな声で挨拶を返す。


「いいかな?」

「あ、はい、どうぞ」


 エカさんを適当な席に座らせて俺はカウンターの中に身を入れた。すぐにエカさんの前にコースターを置く。


「何にします?」

「モスコミュール」

「はいよ」


 エカさんの注文の品を用意している時、今まではその時間すらも楽しんでいたと思う。しかし今日はお互いに無言だ。やはり気まずい。と言うことはヒナさんに引っ張られて来た昨晩こそエカさんは気まずかっただろう。俺たちは直前に一度解散していたわけだし。


「どうぞ」

「ありがとう」


 エカさんの前にグラスを置くがエカさんはすぐに手を伸ばさない。


「私、昨日パスケース忘れなかったかな?」


 あぁ、その話か。それで気まずいながらも今日の来店ということだ。児玉恒星の予約の日でもあるわけだし。


「今日、自宅のポストに届けました」

「そうだったんだ。行き違いごめんね」

「いえ」

「連絡しておけば良かったね。けど昨日あの後もヒナに付き合ってたら朝まで飲んじゃって」


 まぁ、ヒナさんが一緒ならそれを意外だとも思わないが。


「帰ってスマホの充電もしないまま寝ちゃって。起きたらおやつの時間でびっくりして。しかも充電切れてるし。て言うか、今でも切れたままだし」


 連絡がつかなかったのはそういうことだったのか。それに関しては救われることだが、それでもエカさんの恋人を知ってしまったし、昨日は俺がトラブルを起こしたし、俺はどうエカさんと接したらいいのかもわからない。

 エカさんの方も自虐的に笑うその表情はどこか硬い。しかしこんな日は運悪く、客入りが遅かった。2人だけで気まずい時間を多く過ごさなければならなかった。


 そしてエカさんはやはり19時前に退店した。その直後にスタジオ練習を終えた児玉恒星が退店する。案の定時間が合っている。この事実は俺に嫉妬の追い打ちをかけた。

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