第一章 第三節 野獣の独奏

「ふーん。深夜バイト始めたんだ」

「はい」


 目の下にクマが無くなった俺とエカさんの立ち話が始まった。ファンデーションで隠れたクマに感動しているとエカさんが洗面台と俺の体の間に身を割り込ませ、対面して話しかけてきたのだ。

 未だ多機能トイレにいるし、この距離感に心臓が落ち着かないから少し自分から距離を取った。エカさんの背後、俺の正面には鏡があって、意気地のない自分の表情を客観的に映し出している。情けなくて更に離れて俺は入り口のスライドドアに背中からもたれかかった。余計に情けない。


 そこでエカさんが「まだ時間大丈夫?」と聞いてきたので俺は「はい」と答えた。この日は備糸駅までの原チャリ通学が順調で1本早い電車に乗れていた。だから15分ほど登校に余裕があった。ローカル線なので電車の本数は少ない。


 エカさんはこの日、大学の授業がないらしい。なにやら提出物があるそうで、そのためだけに大学に行くとか。「メールで済まさせてくれよ」って恨み言を言っていた。つまり大学に行く用事はあるが、時間の縛りはないそうだ。それでこの寄り道である。

 そこで「なんで寝不足なの?」との切り出しがあり、俺は深夜バイトを始めたことを言った。


「そう言えば、7月になってからゴッドロックカフェに行ってないなぁ」


 そう言われてみて確かにエカさんを見ていなかったかもしれないと気づく。俺が深夜バイトを始めたのは7月に入ってから。まだ2週間ほどだ。


「しかし杏里さんってブラックだねぇ」


 クスクスと笑ってエカさんがそんなことを言う。ブラックとはブラック企業にかけた言葉なのだろうが、企業ではない個人経営の店だからそんな表現なのだろう。


「まぁ、でも良くしてもらってるんで」

「そっか、そっか。それなら良かったね、に言い直しとく」


 深夜バイトが良かったのかどうかはわからないが、そう言ってもらえるなら俺としても嬉しい。確かに体はきついが体力はあるし、もう少しで完全に慣れそうだ。出勤は週3日程度で、金土に加えて平日1回と言ったところなのでそもそも多くはない。

 それに俺はスタッフとして店主の杏里さんを慕っていて、それこそ感謝もしている。俺が最初にゴッドロックカフェに顔を出したのは1年生の時の学園祭前。杏里さんと初対面の時だ。その時店の常連さんに受け入れられ、その後、バンド活動の中で時々顔を合わせれば可愛がってもらった。


 しかし俺の高校の2年先輩で憧れていたバンド、ダイヤモンドハーレムが高校を卒業してから俺は一気に虚無感を抱いた。それでダイヤモンドハーレムの足跡が残るゴッドロックカフェにバーの客として出入りするようになった。尤も、ソフトドリンクでだが。

 ダイヤモンドハーレムはゴッドロックカフェを拠点とし、先代店主のもとメジャーデビューを飾って東京に出たバンドだ。足跡とはそれ故の意味である。


 そして俺はダイヤモンドハーレムのベーシスト、ゆい先輩に惚れていた。俺と同じパートであり、俺は唯先輩からG&Lの真っ赤なジャスベースを引き継いだ。そういう経緯もあって唯先輩のことを意識し始めたのがきっかけだ。

 そんな唯先輩の高校卒業時に玉砕覚悟で告白して見事玉砕し、まぁ、振られたことはいいのだが。どちらかと言うと気持ちを伝えられてスッキリしたし。しかし、唯先輩やダイヤモンドハーレムの上京がとてつもなく寂しかった。それでゴッドロックカフェに行った。


 杏里新店長のゴッドロックカフェに春休み中は通い、常連さんたちに可愛がってもらう過程で、俺はこの店で働きたいと思った。それで杏里さんに相談したら幸いにも雇ってもらえた。

 杏里さんは店の2階を改装してできたばかりの貸しスタジオで、業務が増えるからちょうど良かったと言っていた。利害の一致ではあるが、音楽関係の店に雇ってくれた杏里さんを俺は慕っているし、感謝している。


「そう言えばバイト君、最近バンド活動は? 末広すえひろバンドだっけ?」


 ふとエカさんがそんな質問を向けてきた。末広バンドは俺が所属しているバンドだ。中学からのツレで高校の同級生、末広健吾すえひろ・けんごがメンバーを集めて作ったバンドだからそんなユニット名だ。

 と言うか、正確に言うと今まで一度も正式なバンド名をつけたことがない。ピンキーパークと出会ったフェスに出るためにバンド名がなかったので仮称でつけた名前だ。その仮称がずっと続いて周囲には定着してしまった。


「最近活動減ってますね」

「自然消滅?」

「このままだとそうなるかもっす」

「勿体ない」


 エカさんが勿体ないと言う理由。最初に出会ったそのフェスで、グランプリ最有力のピンキーパークを押し退けて、どこから出てきたのかもわからない無名の俺たちがグランプリを掻っ攫ってしまったから。尤も地元を外れている俺たちなので、文字通りどこから出てきたのか本当にわからなかったのだろう。

 そのフェスはメンバー全員が十代以下という規定があり、ピンキーパークは当時出られる最後の年齢だった。高校卒業したての18歳ではあったが、勝ち上がって地区大会や全国大会ならその頃には19歳になるメンバーもいたから。それで一時俺たちはピンキーパークから目の敵にされていた。


「他のメンバーは遊びに夢中なんすよ」

「受験生でしょうが」

「みんなFラン大学狙ってますよ」

「バイト君は?」

「俺の高校卒業後はニートです」


 それを聞いてエカさんはクスクスと笑った。自虐的にニートと言ったが、実際はアルバイトをしながら軽音楽を続けるつもりだ。だから就職も進学しないが、フリーターということにはなる。俺はそこまでエカさんに説明した。


「へぇ、音楽続けるんだ」

「はい」

「他にやってるバンドあるの?」

「今のとこ掛け持ちはしてないっす」

「今のとこ、て言うことは、その希望があるの?」

「はい。意識の高いバンドでメジャーデビューしたいっす」

「へぇ。格好いいこと言うね」


 エカさんのそんな評価に俺は照れた。世間の一般的な人に聞かせればバンドでメジャーデビューなんて、と思われる。しかしバンド経験者のエカさんだからだろうか、好意的に受け取ってもらえた。


「エカさんはもうバンドやらないんすか?」

「うん。ヒナの就活が始まったから」

「ふーん。就活ってそんなに忙しいんすね」

「ヒナの場合は外資系を狙ってるから動きが早いんだよ。動きが本格化するのは夏休み明けらしいけど、もう準備段階には入ってるみたい」


 確かにヒナさんのワンマンバンドだから、そのヒナさんが活動できないのなら活動休止も当然なのだろう。


「エカさんは就活まだなんすか?」

「うん。私は一般職志望だから。年明けくらいから開始かな」

「じゃぁ、エカさんは余裕なんすね?」

「うん。バンド辞めて思いのほか暇だなぁって思った。他のメンバー2人はバイトと遊びに夢中で大学の単位が足りなくてヒィヒィ言ってるけど」


 エカさんはヒナさん以外のメンバーのことをクスクス笑って話す。確かにヒナさんを含めてエカさん以外のメンバーの方こそ、最近ゴッドロックカフェで見ていない気がする。


「だから今度またゴッドロックカフェに遊びに行くよ」

「ありがたいっす」


 そう言うとエカさんがニコッと笑った。エカさんの存在を認識した頃は年相応に若い感じがしたが、今の笑顔は大人びていた。バンド活動の時の派手な服装とは違う今の清楚な格好。あぁ、わかった。髪も暗くしたのだ。以前は明るい茶髪だった。


 俺のイメージで明るい髪色から暗い髪色にすると若く見えるのだと思っていた。女性が自虐的に言う時の言い方を借りれば「子供っぽくなる」だ。

 しかしエカさんの場合は逆なのだろう。明るい場所で見るのが珍しいから断言はできないが、メイクも今はナチュラルな気がするし眉は細く整えられている。ここがトイレではなければもっと魅力的に見えたのかもしれんが、女性を女性として見る経験値の低い俺にはよくわからん。


「時間大丈夫?」

「そうっすね。そろそろ行きます」


 そう言葉を交わして、俺は学校に行くために多機能トイレを出ることにした。しかし少しの間エカさんと雑談をしていたことで緊張が解けていたのだろう。俺は油断していた。


「あれ? 譲二じゃん」


 多機能トイレを出た俺を見つけたのは俺の所属する末広バンドのメンバー、末広健吾だった。他のメンバー、裕司ゆうじたくみまでいる。俺は愚かだった。しっかり時間を確認してから出れば良かった。ちょうど1本後の電車で彼らは登校したのだ。

 そして俺が頭を抱えている脇、多機能トイレから出てきたのがエカさんだった。途端に俺のメンバーは目を見開き、しかしそれは一瞬で、すぐに破顔させていた。


「あはは。おはよう」


 エカさんはどこか気まずそうに俺のメンバーに挨拶を投げる。

 この後学校で俺がメンバーから質問攻めを食らったのは言うまでもない。

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