美女と野獣の恋歌
生島いつつ
第一章
第一章 第一節 野獣の独奏
朝日に向かってその眩しさに目を細めながら夏の風を全身で浴びる。スクーターで30分ほどかかる道中、国道を走行中に追い抜きざま、機械的な生ぬるい風を置いていかれるのはいただけない。しかしそれも2週間にして幾分慣れてはきた。
高校3年の7月。俺、
高校2年に上がる春休みに原チャリの免許は取ったし、スクーターも社会人になった兄貴が車を買うとのことで譲ってもらった。しかしこれまで通学には使っていなかった。転機は先月18歳の誕生日。店長の
「譲二」
帰り支度を済ませてアルバイト先を出ようとした俺を杏里さんは呼び止めた。高校生のアルバイトなのでちょうど22時だった。
「なんすか?」
「誕生日おめでとう」
知っていてくれたのかとほんの少しだけ面食らった。履歴書には書いてあるのだから当然だとしても、高校2年に上がると同時に採用されたアルバイトで、2年生の時は何もなかった。自分からアピールしたこともなかったし。しかし今年は杏里さんに認識があるわけで、何かもらえるのかと期待しながら応えた。
「ありがとうございます」
「プレゼントに時給を増額してあげよう」
「マジっすか!」
「マジ、マジ。1・25倍。どう?」
「そんなに! いいんすか?」
物を贈ってもらえるという内容ではなかったが、予想外に喜ばしいことだったので思わず声を張った。杏里さんは満面の笑みで「うん、うん」と頷いている。
「これからも頑張ります!」
「うむ、よろしい。励め、若者よ。じゃぁ、これが来月のシフトね」
「はい! ……ん?」
シフト? この店は杏里さんの個人経営だ。アルバイトは高校生の俺しかいない。だからシフトというものに縁がない。縁がないというのは言葉の綾で、新婚の杏里さんの家庭の都合などで俺が店を手伝っているに過ぎない。それも22時までの勤務だ。
2カ月前の杏里さんの新婚旅行の際も21時半までの時短営業とした。その後業務を一部端折った閉店作業を30分でして、22時までに俺は退勤していた。因みに端折ったとは言え、30分での閉店作業は鬼ダッシュだったので骨が折れた。
通常営業は2階に貸しスタジオができてから17時開店で、閉店は24時。カフェと言いながらも形態はバー。そしてスタッフ体制が2人だからそもそも「シフトを組む」という業務が無かった。
どうやら法だか条例だかの改正で、酒の提供や喫煙できる客席がある店での未成年のアルバイトは宜しくないことになったらしいが。杏里さんは「ここはライブハウスと貸しスタジオだからそんなこと知らん」の一点張りだ。
「なんすか? これ」
とりあえず俺は渡された紙切れをポカンと見ながら問うた。
「だからシフトだって」
杏里さんは満面の笑みだ。24歳にして若々しく、薄暗い内装の店内で色白の肌が浮かび上がる。この時髪は束ねていたが普段は下ろしていることが多く、その髪は真っ直ぐでサラサラだ。豊かな胸に細く括れたウエスト。モデルを思わせるほど女性としての魅力がある人妻。
誤解がないように言っておくと、店長である杏里さんのスタイルを普段からジロジロ見ているわけではない。ただこの時は初夏で薄着になり始めた季節だったし、そのプロポーションは意識していなくても目に入る。て言うか杏里さん、胸の張りが凄い。今まで意識していなかったことにもこうして気づく。
「えっと……高校生の俺がなんで閉店まで勤務になってんすか?」
唖然としながら話をしていた俺はやっと核心の質問にたどり着く。そう、そのシフトは俺の勤務がなんと、閉店までになっているのだ。24時閉店で、本来の仕事量で閉店作業をすれば1時間近くかかるので、深夜1時までの勤務だ。
ちょうど客が捌けてこのとき店内には俺たち2人しかいない。2室ある2階のスタジオはどちらも利用客がいるものの、カフェのホールは洋楽ロックのBGMと俺たちの会話だけだ。
そんな中杏里さんは相変わらず満面の笑みだ。いや、なんだか小悪魔的な笑みに見えてきた。
高校1年の学園祭前、当時大学生の杏里さんがやっていたガールズバンドのマネージャー。杏里さんが運転するその送迎車に乗せてもらった時が初対面で、その時は、老けていて、強面で、図体のデカい俺に怯えた様子を見せていたのに。立場が店主と従業員に変わってからは一切の遠慮なくこき使う。そんな杏里さんが小悪魔的満面の笑みなのだ。
「なんでって、譲二ももう18歳になったでしょ?」
「そ、そうですけど……」
と言っても、その18歳はこの日からだが。
「深夜労働も法律クリア」
半口を開けたまま呆然としてしまった。そんな俺に構うことなく杏里さんは言葉を足す。
「厳密には、条例の方で高校生には縛りがあるようなないような……なんだけど、まぁ、法律はクリアだからいいよね」
「いいわけないでしょ!」
テヘペロ顔の杏里さんに思わずツッコんだ。
「俺、毎回最終のバスで帰ってんすよ? 深夜まで働いたらどうやって帰るんすか?」
そう、俺は備糸駅まで本数の少ないバスで通学している。備糸駅から高校の最寄り駅までが電車だ。ゴッドロックカフェは最寄りが備糸駅だからアルバイトができている。
俺が住んでいるのはこの備糸市から見て隣の隣の町だ。県内では都心と言われる政令指定都市と備糸市の中間地点にある。
よくツルんで時々一緒にバンドやったりしている中学からの友達の誘いで、備糸市内にある備糸高校に入学した。都心だとバンドの競争率が高いからこっちで活動するためだそうだが、現状そのバンドも活動の頻度は日に日に減っている。俺の地元からはレアな進路選択で、大抵地元の同級生は町に唯一ある高校か、都心の高校に進学した。
「あんた、原チャリ持ってんでしょ? 免許も」
「うぅ……」
なんだか杏里さんの悪巧みにも感じるからとりあえず唸っておく。
「原チャリはここに置いていいから。朝ここまで原チャリで通って学校行って、放課後はここで深夜までバイト」
「いくらバイトが校則で縛られてない学校だからって、さすがに深夜はマズいっす」
「バレなきゃいいわよ。かっかっか」
なんだ、この美人人妻の笑い方は。
「まぁ、万が一バレたとしても
なんだ、この理屈は。確かにこの店と懇意にしている母校の長勢先生は時々来店する。深夜まで俺がアルバイトをするのはバレるのも時間の問題だ。
「だから、22時以降は時給1・25倍。あはは」
「そういうことか……。て言うか、その形態で働いたらその時給は正当にもらえる俺の報酬では?」
「そっ。だからその環境をあたしから譲二にプレゼントしてあげるってこと」
「……」
正当にもらえる報酬をプレゼントと言うのか些かの疑問が残るが、この後、俺の反論も虚しく――疑問や反論を言ってものらりくらりと杏里さんが躱した。若しくは、よくわからない理屈で自分の主張を押し通した――結局俺は深夜までアルバイトをすることになった。
男兄弟で育ったからか、家がそれほどうるさくないので歯止めをかけてくれる大人は周囲に1人もいなかった。
そして深夜バイトが当たり前になって2週間。今日もスクーターで備糸市まで通っている。この日もゴッドロックカフェにスクーターを停めて、最寄りの備糸駅から電車に乗った。そんな学校へ向かう道中だった。
「あれ? バイト君じゃない?」
俺に声をかけてきたのは膝丈スカートにブラウスという清楚な格好をした女子大生だった。教材が入っているのであろう大きめのバッグを抱える彼女をなぜ大学生だと知っているかと言うと、彼女はガールズバンド、ピンキーパークのメンバーだからだ。時々ゴッドロックカフェにも出入りしている。
いや、もうメンバーではなかった。今年大学3年になりピンキーパークは活動を終了した。解散と同義だ。それでも元メンバーは時々酒を飲みに来店する。まとまって来ることもあれば、個々で来ることもある。
この時朝の電車の中で声をかけてきたのは、キーボードを担当していたエカさんだった。
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